紙の教科書

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 デジタル教科書に対する不安感は根強い。4月17日の読売新聞朝刊にデジタル教科書全面移行「懸念」86パーセントという記事が載っていた。懸念の原因としては端末の故障や不具合といったハード上の問題が最初に上がるようだが、現場の教員としてはむしろ教育効果の問題の方が大きいと考える。

 デジタル教科書は情報量や検索とリンクした多機能性など可能性が大きい。機器的な故障や、通信障害などは今後改善が進んでいくものと考えらえるし、機器の価格も安くなっていくかもしれない。重い鞄を発育段階の子供に強いるということも軽減される。音声読み上げなどの機能はハンディキャップの克服にも寄与するだろう。

 だが、少なくとも大学に入学する前の子供に万能のデジタル教科書を与えることには弊害がもたらされる可能性もあることを知らなくてはならない。考えるという行為は利便性と必ずしも正の相関関係にはない。すぐに答えが見つかる、わかりやすいという状況は考えるという行為を阻害しまう可能性もあるということである。

 紙の教科書にもいろいろあって、最近の教科書は至れり尽くせりである。かつてなら自分で調べなくてはならないものがほとんど始めから掲載されている。今使っている教科書などはQRコードまでついていてWEBサイトまでいけるのだ。こういう教科書はもうデジタル教科書の一歩手前にある。

 本当は想像力と知的探求心をつかって何もない紙の平面から様々な世界を自分で探し、つなぎ合わせる力を育てるのが教育なのではないか。それをデジタルで近道しようとするのは逆に考えることができない人間を量産することにつながるのではないかというのが私の第一の懸念事項である。デジタル教科書を効果的に使うことはよいが、それだけにしてしまった後の展開は何か恐ろしいものを感じる。杞憂であればいいのだが。

違う頭

違うことをやってみる

 すぐに閉塞感を感じてしまうのは同じことばかりを繰り返しているからかもしれない。違う行動が別の思考を生み出すこともあるのかもしれない。

 最近、何かに行き詰まりを感じている。本当は何が起こるかわからないはずだ。なのにすべてが決まっているかのように感じてやる気が起きない。私の中に定期的に繰り返される悪循環だ。

 長い間同じようなことを繰り返しているというのに、また抜け出す方法が分からなくなっている。恐らく解決策を見つけないままここまで来てしまったのだ。

 恐らくよく言われるようにルーチンを破ることが突破の手立てなのだろう。いつもとは違う頭を使う機会を持ちたい。

減少

人口減少は避けられない

 人口減少が顕著になっているという。東京都も減少が見られた。コロナ禍による首都圏離脱の影響もあるが、構造的な要素の方が主因だ。

 人口減少はこのあとかなり長く続く。子育て支援の政策は一向に効果を発揮しない。子どもは増えず、年寄りは増え、天寿は必ず来る。私も人生の後半にいるのでできることは限られている。

 人口減少は様々な弊害があるという。これまでの国内需要でなんとかやっていくという方法は成り立たない。国際社会でうまく立ち回る必要が出てくる。その準備は大丈夫だろうか。

 ダウンサイジングは難しい。何かを諦めなくてはならなくなる。やめなくてはならないことが出てくると、ついいつも使わないものを捨ててしまう。しかし、使わないと思っていても実は現在の生活を支えているものであったりする。森林の伐採をイメージしよう。森には滅多に行かないがが森をなくすと致命的な問題が出てくる。

 人口減少、少子高齢化は未曾有の事態だ。これをどう乗り切るのか。世界が注目している。

気づかせる方法

気づかせる
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 教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。

 知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。

 教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。

 残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。

 学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。

考え方の癖

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 考え方には癖があるのではないか。その癖を利用すれば効率のいい教育ができるかもしれない。

 新しい学びを始めるとき、私の場合はノートを広げても何も書き始められない。何を書けばいいのかわからないのだ。思考の手順というか、道筋というのが見えていないうちはいろいろな情報がただ並列に広がっていく。思考のテーブルに置ききれなくなってこぼれ出すと学習の意欲が消えて行ってしまう。

 何かを考えるとき、最低限の道順を決めてあると学びが続きやすい。それを助ける役がコーチなのだろう。まずこれをやり、次にこれをやるといった助言だ。自走できるようになったら本人が学びの幅を広げられる。その先はコーチの能力を超えていく。学校の教員ができるのはこの役である。

 ならばコーチは、つまり教員は生徒の学びの癖を知り、学びやすいように助言をすることが職務上の重要事ということになる。そこまで私はできていない。相変わらず、教科書を右から左へと読んで聞かせているに過ぎない。

 教員の仕事は教材を提供して考える空間を作り、最初の二三歩の歩き方を教える。そこに尽きる。考え方の癖は一人一人違うはずだ。それを知ること、そして面談を繰り返すことが学びの発動にはかかせない。しかし、それはできているのだろうか。

タスク制限

同時にはできません

 マルチタスクを夢見ることは諦めて、一つずつ愚直にこなすことを心掛けたい。人は誰でも多動に向かないというが私は特にこの方面の能力が低い。タスクを制限するすべを考えなければならない。

 いろいろな仕事を同時にこなす人がいる。かっこいい。しかし、これができる人とできない人がいる。私は後者だ。ただ、運悪く私の仕事は基本的にマルチタスクだ。授業をしながら、生徒の生活を管理し、保護者と連絡し、部活動の顧問を引き受け、学校の運営にも駆り出される。教員の多忙さは個々の業務の重さというより同時にいろいろなことをバラバラに、しかも短い期限内でこなさなくてはならないことから生じている。

 だからマルチタスクを完全に拒否することはできない。せめてマルチの度合いを下げることに工夫を凝らすべきだ。やることに優先順位をつけるのがいいと言われる。最近はやるべきことをリストとして書き出し、順番を考える。ただ、それでも飛び込みの仕事が次々に入る。

 マルチにならないための方法は結局仕事を断る技術を得るしかなさそうだ。他の誰かがやることになるのが心苦しいが、引き受けてできないよりは組織としては幸せだ。

分岐

あれこれ考える

 マインドマップの作成アプリを試してみた。自己分析のツールとして、アイデア創出の手段として使われるものである。限りなく分岐していく図を見ると思うことが色々ある。

 考えが分岐するとはどういうことなのか。ある考え方の元に複数の可能性を考えることだ。正と負の関係もあれば並列の関係もある。並列といっても対等な枝分かれもある一方で、枝の太さが異なるものもある。不思議なことにその区別は無意識に行われる。

 脳内のイメージを樹形図に描くことはあくまで手段に過ぎない。実際はかなり複雑である。少なくとも二次元では表現し難い。だが、マインドマップを使うと分かったような気になれるのは確かた。言語化と図式化のもたらすものが大きいからだろう。三次元にすると複雑になり、明瞭さがなくなる。

 考えが分岐する原因は何かを考えることがある。なぜこうもああも考えるのだろう。考えることができるのだろう。その謎を考えることが人間のあり方を考察することに繋がるということなのだろう。

思っています

Think は結構強い意味がありそう

 最近よく聞く表現に「〜と思っています」というのがある。これは口癖になりやすいようで何度もくり返す人もいる。別に何の問題もないが、日本語のある側面を顕在化している。

 英語のI think that とどう違うのかは詳しい方に教えていただきたい。用例から察するに確証は足りないがそのように判断しているというときに使っている感がある。日本語の思うは確信や判断よりも感情的な印象が強い。そのように受け取ると気持ちが安定するといった意味がある。

 だから、「思っています」は自分の判断を他人に押しつけるのではなく、あくまで自分の見解は示すが、そう考えると自分としてはしっくりくるという感情の報告をしている。同意するかしないかは任せる、といった印象が強い。

 相手に自分の意見を強要しないのは日本語のコミュニケーションの底流にあり、そのために様々な朧化表現が生まれては消える、その流れにあるのではないだろうか。

述べて作らず

 

 述べて作らずというのは論語以来の中国の教えの一つである。事実を述べることはしても創作はしないという精神論だろう。果たしてこれは今どのようになっているのだろう。

 中国の古典文学、つまり漢文の世界では創作はあくまで二次的な行為であったようだ。漢文に史伝は多いが小説のような虚構の文学は少ない。寓話的な話はあっても現実の例え話として語られる。

 だから、漢文の世界では作り話は忌まれる。本当にあったこととして語られる。創作に対する評価が低かったのだ。これが中国文学に小説的の誕生を遅らせることに繋がっている。

 最近の中華ドラマや韓流ドラマの歴史をみるに史実との乖離が甚だしい。歴史はモチーフの一つにすぎず、いくらでも改変が可能だ。述べて作らずの伝統はどこにいったのだろう。対して日本歴史ドラマは史実との比較にうるさい。史実とは異なるというクレームを本気になって言う輩が一定数存在する。

 創作を嫌っていた儒教国と創作に熱心な日本の国民性との比較を私たちはしておくべきだろう。

文語になれる機会

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 子供のころにテレビから時々流れてきた「誰か故郷を想わざる」という曲は印象的だった。なぜ「たれか」なのか、「ざる」とはなにかなどと少し疑問に思ったがそれ以上は考えずまねして歌ったこともある。今考えると文語を覚える機会は国語の時間だけではなかった。

 小学校でも文語を覚える機会はあった。音楽の時間には「故郷」や「早春賦」を習ったが今考えるとかなり難しい文語だ。「兎追ひしかの山」とあっても「ウサギ美味しかの山」ってなにか。そもそもウサギは食べられるのか。「かの山」とはどこにあるのか、どんな字を当てるのか、などと考えた。「春は名のみの風の寒さや」に至っては「なのみの」とは何かが分からず、「時にあらずと」もなんだかよく分からなかった。教師が説明してもピンとくることなく、ただメロディのままに歌うことに終始していた。そういえば「箱根の山は天下の嶮」はケンがなにか分からず歌っていた。「羊腸の小径」などわかるはずがない。

 それでも歌から覚えた文語はかなり多い。その当時は意味が全く分からず誤解をしていた。落語「千早振る」のようなこじつけも起きる。それでも文語の調べは身につき、意味が分かるようになるとさまざまな再発見がなされる。「げにいっこくもせんきんの」が「実に一刻も千金の」と分かったとき、まさに千金の価値を感じるのだ。

その意味で文語の歌を子供の時に聞いておくのは無意味ではないと思う。古典など学習するに値しないと豪語する自称知識人もいるが、自国の言葉の深みを捨ててしまうのは大きな財産を失うことにつながる。目先で日進月歩の技術のうわべだけ学んですぐに使い物にならなくなってしまうのとは異なる。古典の知識を身近に感じられるようにするためには文語の感覚は不可欠であり、そのためには知識がいる。それを身につけるのに文語の歌は役に立つと考える。