英語アナウンス

 オリンピック前後にはよく聞かれた車掌による英語アナウンスを聞く機会が減っている。相変わらずの世界情勢で外国人旅行客は減っているままだが、ぜひ復活してほしい。

 予め録音された英語アナウンスは以前から使われている。最近は中国語や韓国語も流すことも稀にある。ただ、大半は定型文であり、状況に応じた情報は用意がないらしい。

 私の利用路線では電車が接近しているから速度を落とすとか、乗客のトラブルのためにしばらく停車するといった情報まで英語でアナウンスしていた女性車掌がいた。こうした不慮の事態こそ知りたいことなのだから大切なサービスだと感心した。

 車掌が英語アナウンスができるということはとても大事だ。ぜひ復活していただきたい。車掌という仕事のステータスが上がるだけではない。学生諸君に外国語習得の必要性を悟らせるための最善の策にもなる。語学レベルで給料アップをするなどいかがだろう。

あざみ野のホタル

firefly

 この頃になると思い出すのはあざみ野駅のあるあたりにホタルを見に行ったことだ。あざみ野は横浜市の北部、丘陵地帯にある。今はかなり人口が多い住宅地だ。

 私が住んでいた頃にはあざみ野駅はなく、青ガエルの愛称があった田園都市線は止まらずに次の江田駅を目指していた。田圃が点在し、雑木林が取り囲んでいた。農家の脇の用水にヘイケボタルが飛んでいた。

 いまは絶対見ることはできない。この沿線は恐ろしく変わり続けている。私のような思い出を持っている人も少なくなりつつある。

分からないことが前提

分からないことだらけ

 なんでも検索すれば分かると考えてしまうのが現代人の発想法のようだ。確かに手元のスマホで検索すれば説明が即座に出てくる。音楽を聞かせれば曲名や演奏者の名前が瞬時に分かるし、昨日は道端の花を映像検索して和名や学名を知ることができた。検索可能な世界観はこのようにしてできあがっている。

 しかし、本当は検索などできはしない。同じ花でも株ごとにみんな違う。音楽は同じ音源であろうといつどこでどのような目的で聞くかによって意味が変わる。記号化された世界は、その網目があらすぎるといい加減な把握になる。結果として大切なものを取りこぼす。

 分からないことが世の中にはたくさんあることを再認識するべきなのだ。誰か別の人が調べたことで世界が説明しつくされている訳ではない。検索しても分かったつもりになってはならない。分からないことだらけの毎日こそが現実であり、それ故に私たちは豊かな可能性のある日々を生きているのではないだろうか。

人とは違う成長

伸び方はそれぞれ

 長年教員を続けているといろいろな生徒に出会うことになる。中には学力は高いがメンタルが弱い人や、人間的な魅力はあっても他人と共生する能力に劣る人もいる。こういう人たちは集団生活に適合しない人として問題視される。

 でも、その人の絶対的な評価が低いとは考えたことはない。いまの学校がもっている物差しでは測れないというだけのことだ。それぞれの人にはそれぞれの成長の過程があり、一見劣っているように見えても実は優れているといったことはいくらでもある。個性というにはあまりに曖昧かもしれないが、個々人の能力、コンピテンシーといったものは簡単に測定できるものではない。

 ところが、現実社会ではあたかも学力には序列があるかのように思わせ、性格にも強弱、優劣が数値化できるかのように見せることが行われている。学校などの教育現場ではそのうち現体制に都合のいいものを選び、その数値で人を評価している。数値化することは現状の把握のための手段であるから不要とは言えない。ただ、それは数多くある尺度のいくつかであり、別のメジャーをつかえば別の人間像になるということを忘れてはならないだろう。

 少々心配なのは教員になる人の大半は現行の教育のなかで優秀な成績を取り続けてきた人であるということだ。自らができることが生徒にできないはずはないとか、当然こうするべきだとかいう思い込みは捨てなくてはならない。効率主義の企業と教育の現場との違いはそこにある。

バランス

 

ほどよい課題

 できそうだけどできない。しかし、ちょっと工夫すればできる。そう感じたときに学習効果は上がるのだという。全く歯が立たないものは気持ちを萎えさせるし、簡単すぎても侮るだけだ。この匙加減が重要らしい。

 しかし、現場にいて困るのは様々な理解度習熟度の生徒が同居していることだ。個々に応じることは難しい。AI教育プログラムにはこれを解決しようとするものがある。ただ、プログラムに向き合う自主性は必要で、学習効果は限定的だ。学ぶ気持ちが少ない人には向かない。

 ほどよい課題で学びを促進するには、分かった人がまだ分からない人に教える仕組みを作るといいのかも知れない。互いに教え合うことで教える方は考えを整理し、教えられる方もやり方を学べる。

 教員の役割はきっかけづくりとこの難易度の調整、学び合いの促進にある。これは言うに安く行なうに難い。やり方を研究すべきだろう。

駅

Another station, another story.

 通勤電車や旅行中に電車に乗るとき、時々思うのは駅ごとに物語があるということだ。それぞれの駅にまつわる歴史があり、その上で人々が重ねていくエピソードがある。

 仮に住まいを今とは別の駅の近くに構えていたらと考えることがある。別の道を歩き、別の店で必需品を買う。別の学校に通い、別の病院のお世話になる。そういうことがいくつも繋がるのだろう。

 この駅の近くに住んていたら、あの駅ならとさまざまに考える。するとそれぞれに違った人生の選択肢の可能性が浮かび、逆に実現しなかったバリエーションが考えられる。本当にこれで良かったのかという反省も起きるが、もしかしたらこうだったかもしれないと考えるのは楽しい。

 駅はそういう可能性を想起するためのきっかけであり、テレビのチャンネルのようなものだ。

花水木

 通勤の途中の街路樹である花水木が見頃になっている。歌謡曲で有名になった割にはこの名を知る人は多くはない。

 花水木の花にみえる白や桃色の部分は萼なのだという。蘂のように見えるのが実は花でそれだけ見ると地味だ。アメリカヤマボウシとも言われ、かつて日本がアメリカに桜を送った返礼として渡来した。今は各地に広がり、自治体の花木となっている事例も多い。日米の友好のしるしだったことになる。

 一青窈のヒット曲ハナミズキはよく考えてみると難解な歌詞で失恋の歌とも片思いか、何かに対する鎮魂なのかわからない。そのすべてなのかも知れない。一つの植物にまつわる話は複雑であるものだから。

新緑

緑はいろいろ

 4月も下旬となった。このところ気温差が激しく、今朝も少し肌寒い。ただコートを着けずに通勤できていることを思うとやはり季節は進んでいる。

 通勤電車の車窓から見える緑も輝きを増している。新緑を感じる季節だ。やがて万緑となり、緑陰を楽しむ時候が続く。都会に住んでいても生活の指標はわずかに残った緑にある。さらに躑躅の赤や、花水木の白が輝く。昔のようにウツギやオウチは見かけないが、それでも初夏を感じて心は踊る。

 木の絵を描こうとしていつも失敗してしまう。葉をまとまりで処理してしまおうとするからだ。樹木の緑は一枚ずつの葉の集まりだ。それを忘れると絵は描けない。

見える化

見えるか?

 すでに定着している見える化という言葉にはかなり抵抗がある。可視化と言わずなぜ中途半端な漢語を使うのか。見えるようにするならまだいい。ただそれだと可視化することの重要度が伝わらないのだろう。

 カシカでは意味が伝わりにくいのも確かだ。カシがそれほど市民権を得ていないから、わかりにくい。それで見える化が登場する。

 新しい概念は日本語に置き換えにくい。日本語にぴたりとはまる言葉がなかったり、そもそも概念自体存在しないときはカタカナにして外来語扱いする。コンプライアンス、アカウンタビリティ、コンピテンシーなど私が日々目にし耳にする言葉にもカタカナ語はたくさんある。

 やまと言葉も漢語も離れてしまえば意味の類推力が著しく低下する。それぞれのは語をほぼ一対一で覚えていかなくてはならないのはかなり不便だ。可視と可変、可動と類推可能なのとは大ちがいだ。

 すると私にとって多少気持ちの悪い見える化はまだマシなのかもしれない。少なくとも他国の言葉で代用するのではなく、母国語で説明しようとしているのだから。

自信を持たせる

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 中等教育の神髄は何かと考えたとき私の今の答えは自信を持たせるということだ。何かを判断する、意見を述べるといった局面で必要な思い切りは、一種の自信が裏付けになる。それを保証してあげるのが中等教育の教員の役割である。

 中高生の意見はしばしば矛盾があり、視野が狭い。正論のように見えて実は世間の実情に合致しておらず、本当は成り立たないということもしばしばある。しかし、それをいちいちつぶしていたら現状打破の考えなど生まれ得ない。生徒に接するときにいつも気を付けているのは現状では間違いかもしれないが、将来はこれが標準になるかもしれないという予測をするという心の準備だ。

 年を取ると知識や経験が現状をさまざまに切り取っていく。それは多くの場合有益な生きる知恵となるが、同時にしばしば新しい可能性の機会をそいでしまう。悲しいことだが現実だ。安定的な時代であればそれでいい。しかし、今後の世界はかなり不安定だ。経験則が必ずしも役に立たなくなる。

 そうした時代を生きる世代のためには自ら考える力を与えることが何よりも大切だ。新しいことを考えるには一種の自信がいる。自信を超えた過信もいるかもしれない。学校はその体験をさせる場となる必要があるのではないか。失敗が許され、やり直しが当たり前のように行えるのは在学期間までだろう。もちろん実社会でも失敗は可能であるかもしれないが損害が大きい。間違ってもいいから正しいと思うことを言ってごらんといえるのは教員の特権かもしれない。

 そのためには自信を持たせるための方法を獲得しなくてはならない。教員としてのスキルを再認識する必要がある。独善的な考えを注意深く排し、本人の可能性を伸ばすような指導ができれば教員としての本望だ。自分はできないが生徒にはできる。そういう考えが必要だ。自分の育てている人物は今は未熟でも、将来自分を凌駕する大人物になる。そう信じることが教員の基本的な資質であると信じる。