手数料があるので

 かつて学校で募金の担当をしたとき、集まった小銭を郵便局に持って行って振込する役をやっていた。小銭といっても集まれば結構重い。端数を自分で足した額を札で振り込んで、実際の小銭を自分で使うことにしたことがある。金銭的には間違っていない。自分からの寄付も少しだけやったので、それなりの自己満足も得られる。

 ところが今これをやってしまうと大変だ。コインをそのまま窓口に持っていくと枚数によって手数料がとられる。たとえばゆうちょ銀行の場合、500枚のコインを預けようとすると手数料が825円だ。もしすべて1円玉だとすれば、預けるだけ赤字になる。これはどう考えてもおかしい。ゆうちょ銀行はそれでも安いほうで、同じことをみずほ銀行やりそな銀行でやると手数料は1320円で大赤字になる。

 手数料の安いコインスターなどの自動両替サービスの利用で切り抜けるしかないが、募金などの善意にも手数料がかかるというのは何とも理不尽な気がする。これからの街頭募金ではスマホをかざすことになるのだろうか。キャッシュレスの世界に向かうのは時流というものだが、募金のような日常の経済活動とは異なるものに関しての対応は別に考えなくてはならない。

鏡として

 コンピューターを使い始めた頃気づいたことがあった。私たちがものを考えるときにどのような手順で考えているのか、何を取り上げ、何を後回しにしているのか。それをコンピューターのプログラムはなぞっているのではないかと。

 プログラミングがほとんどできない私の印象に過ぎないが、機械にでものを行うことはまずは人間の思考法をもとにしており、そのために逆に人間のものの考え方を明らかにすることがあるということだ。私たちが無意識のうちに行っていることや考えていることは、実はある手順を踏んでいる、それはこういうことだったという気づきである。

 ならば、コンピューターを操作することは人間の言動を考える鏡として使えるかもしれない。私は国語の授業の中で、それこそ人間の普遍的な思考方法は法則化することも可能であるということを体感している。そういう言説は昔からたくさんある。文章の構成をパターンとして捉えることを教えることができれば、読解が苦手な生徒の助けになる。

 大切なのはそういう機械的な段階を超えたより深い内容であり、それらを比較分析する深層に触れる思考だ、それに辿り着く前に基本的な読解ができないのであれば大きな損失ということになる。その意味で思考の基本をある程度法則的に教えるのは意味がある。それに気づいたのはコンピューターの操作を通してだったのだ。

 パソコンばかりさわって本を読まなくなったのは事実であるが、機械から学ぶこともある。全ては繋がっている。

2022年のおさらい(4月~6月)

 4月から成人年齢が引き下げられ18歳が成人となった。商取引の契約が18歳から可能になるため、詐欺被害などが増えることが懸念されてた。特に成人映画出演契約が理解されないまま行われるのではないかと懸念されていた。その後はどうなっているのだろう。

 知床観光船沈没の事故が起きたのもこの月だった。多くの方が犠牲になった。運航会社の危機管理の甘さが問題になった。被害者の人間模様が報じられるたびに悲しい気持ちになり、経営者の杜撰さが報道されるたびに怒りが湧いた。こうした経営上の問題はほかの観光業者にも必ずあるはずだ。見直しは進んでいるのだろうか。

 この月は教員にとっては年度の始めであり、いろいろなことが変わる。気持ちを入れ替えて仕事に臨むという月なのである。私も急速に進む教室のデジタル化に対して、いかに対処するかを悩んでいた。今も同じだが。

 5月は沖縄の本土復帰50年ということで大きく報じられた。戦争という区切りからいろいろな物が遠ざかっていく。繰り返してはならない教訓もそれを直接知る世代が減ると説得力が失われてしまう危険性がある。沖縄が抱えていた苦難はこれからも伝えるべきである。そして現状でもある格差は見逃してはなるまい。

 このころからマスクをつけずに街を歩く人を見かけるようになってきた。といってもごく少数である。政府が十分に距離が保てる場合はマスクの着用はしなくてもいいという見解をだしたことによる。これは以前から出ていたのだが、日本人は人と異なる行動をするときにはかなりの勇気がいる。一斉に変わらない限り、行動を改めることはできない。おまけにこの後再びコロナ感染が拡大し始めたこともありマスク姿は12月のいまでも標準スタイルだ。

 6月は異常な暑さになった。非常に短い梅雨と異常な暑さだった。日本は四季ではなく二季になるのではないかと冗談ではなく思ったものである。

 北海道日本ハムファイターズのチアガールの躍るきつねダンスが人気を集めていた。その歌はノルウェイのコメディアンのイルヴィスが過去にヒットさせた曲を使用した。後に本人たちが札幌ドームで歌うことになる。この成功によりファイターズガールと称するチアガールは人気を上げ、日本においてもチアガールという職業が注目されるきっかけとなったと言える。私は狐の鳴き声のオノマトペの方が気になっていた。

 半年が過ぎただけなのに実にいろいろなことがあり、多くは解決できず先送りされている感じであった。私もこのころから疲労感との戦いになっていたが、何とか乗り切れ来たのは良くも悪くもいい加減さのおかげであったといえるだろう。

みんな幸せには間違いなのか

 日本の現況を批判するときに、悪しき平等主義という考え方がある。それは間違いなのだろうか。

 もともと封建社会の長く続いた日本では近代以降、家柄による身分格差というものを忌避してきた。実際には様々な階級制度を内包しながらも建前としての平等があたかも存在するかのように考えられてきた。

 機会の平等という大義名分はあっても、高学歴を得るにはそれなりの経済力が必要であり、誰でも能力さえあれば上昇できるというのは幻想に過ぎない。それでも日本人はこの幻想にかけてきた。あるいは騙されてきたという方が正しいのかもしれない。

 誰でも努力すれば望みを達成することができるというのは残念ながら非現実的だ。現実はそんなに甘くはない。多くの人は努力しても報われることはない。日本はその確率が比較的高いかもしれないが、あくまで数値上の問題だ。

 我が国の基底に流れる考えとして自分だけが得することに対する嫌悪感がある。努力の成果は報酬として欲しいが、それが他人を傷つけるものならばよしとはしない。あくまで公共の福祉が保たれてこその自分の利益だという根強い考えがある。

 こうした心性は日本人の財産だと思う。上昇志向の足りなさとと非難する人もいるが、これは島国の国民が培ってきた大切な心のあり方ではないだろうか。

 日本経済が振るわないのは才能あるものに正当な報酬を出さず、平凡な人材をいつまでも雇用しているからだという。一見正論に思われるが、平凡な人材を認めうる懐の深い社会の魅力を考えるべきではないか。

 平凡といわれる人物が本当に怠慢で業務に支障をきたしているのなら話は別だが、大抵の場合はそこまでではない。業績が形に現れなくても何らかの役割を果たしているのなら、評価すべきだ。短絡的経営者はこの視点がない。

 悪しき平等主義という言葉の怪しさは、人々の個性を無視することに近いことにある。できない人と思われても、実は集団の役にたっているのかもしれない。それを考えるべきではないか。

2022年のおさらい(1月~3月)

 今年も残り少なくなった。この際、今年あったことを振り返ることにする。

 1月は共通テストの会場で受験生を切りつけるという衝撃的な事件があった。東京大学会場というのも象徴的だったが、大学の試験の在り方が問題視される中で起きたことであった。一回きりの試験で人生の大半がきまるという制度はすでに時代にあっていない。また現実としても学歴だけが基準にはならなくなっている。それを教育関係者も企業の人々も考え直してほしい。私もそのころはこんなことを書いていた。

 トンガ近くの海底火山の大噴火も大きな話題となった。津波も発生し、日本でも観測されている。幸い大きな被害はなかったようだが、東日本大震災を知る私たちには大いなる脅威であった。

 2月は北京オリンピックでの日本勢の活躍が報じられた。過去最多の18個のメダルを受賞したという。なかでもカーリング女子のロコソラーレの再びの活躍や、最後の出場となった羽生結弦の無念の演技などが話題になった。私はオリンピックが相変わらず政治や商業に振り回されていることから、国家対抗という形式以外を模索するべきではないかなどと考えていた。

 そして何よりも残念だったのが、ロシアのウクライナ侵攻が始まったことである。オリンピックを機に中止されるかという淡い期待は裏切られ、閉会式後には本格的な戦闘が始まってしまった。そして、今も継続しているというのは何とも残念だ。戦争は互いに疲弊するだけで、しかも怨恨を残すだけだ。権力者や一部の利権者の思惑に惑わされてはならない。

 3月は下旬に電力需給が逼迫し、節電が呼びかけられた。東日本大震災のあった月だけに過去の計画停電が一瞬脳裏をよぎった人は多いだろう。この後も時折電力の不足がニュースになったことがある。原子力発電を再開できない現状では、エネルギー供給の問題が焦眉の急である。発電量を増やすことと、使う電力を減らすことの両方を実現しなくてはならない。

 この月には韓国の大統領が尹錫悦氏になり日韓外交にようやく変化が期待される時代がくると期待された。文前大統領が反日を利用して政権を維持していたため、日韓関係は戦後最悪と言われる状況になり、安全保障上も問題になっていた。いわゆる日本製品不買運動も先進国とは思えない方法であったため、韓国の国際評価を下げてしまっていた。過去の歴史に関する論争は継続してよいと考えるが、そのために現在の政治経済を不安にする方策は両国ともとるべきではない。世界地図を広げれば誰でもわかるように日韓と台湾は自由主義を標榜する国家としては辺境にある。協力こそすべきであり、不要な争いはいけない。離間の計にはまっていはならない。

 3月になればコロナの問題は終わるだろうと思っていたが、そうはいかなかった。

あえて日本らしさで

 人口減少が著しい日本は、経済政策の失敗もあって縮小傾向から逃れられない。でも、それはいわば長期的な展望であり、短期的もしくは中期的な方策でいくらでも変わりうる。そのことを考えなくてはならない。

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 ひところガラパゴス化ということばがはやった。従来型の携帯電話をガラケーなどといったが、今考えるとかなり優秀な機械であった。あれだけの筐体にインターネット機能やそのほかいろいろなものが詰め込まれ、なおかつバッテリーの持ちがよかったではないか。そのまま発展していれば、現在のアメリカ型のハイスペック志向の発展とは違ったものがあった可能性がある。

 ガラパゴス化という言い方は国際的な動向と反するものに対して称されたものだが、いいかえれば独自性であった。独自性は国際的な基準に合わないため国際競争では不利になると言われる。たしかにその面はあるが、見方を変えればほかのどこにもない方法を維持することには意味があったのではないかということになる。

 技術的な話にすれば数日前に考えたように電気自動車の開発技術の問題がある。国際的なトレンドは電気自動車に流れているが、日本では電気で走ることにはそれほどのメリットはない。むしろ全面停止の危険性を秘めている。ならば、日本的なハイブリッド形式とか、水素由来のエネルギー開発とか、再生可能エネルギーの開発だとかをやめるべきではない。資源のない島国なりの生き残り方を考えるべきなのだ。

 文化的な戦略もそうだ。アニメの文化は日本のものだとよく言われるが、作画技術でいうならばCGを使った海外作品の方が優れているかもしれない。日本作品の細部へのこだわり、メッセージ性などのユニークさが評価の源であることを考えて発信するべきだ。音楽も海外には通用しないと思い込んでいるが、日本のポップスは様々な国や地域の音楽の要素を複合して独自なものになっているという。これもセールスポイントと考えるべきなのだろう。伝統文化といわれているものも、見せ方を工夫すればもっと高い評価が得られるはずだ。

 国際標準で競うことだけが正しいのではない。独自性を維持することも大事な方法であることを確認しておきたい。

探さず考える

 最近、私の学習方法は考えていないという事実に気づく。いろいろな情報に触れる機会は多いが多くは情報の表面を撫でるだけで分かったつもりになっている。

 探すことは学びの一つの過程であって、目標ではない。到達点は得た情報を自分なりに血肉化し、自らの言葉で語れるようにすることのはずだ。大切なことを忘れている。

 興味を持ったことをメモする手帳があるが、最近書き方を変えた。かつては情報源の文言を一字一句漏らさず書き写すことに注力したが、考えてみれば情報源さえ覚えていればまた見ることはできる。メモすべきなのはその情報を見て私がどのように考えたのか、感じたのかの方が大事だ。そう気づいてからは自分の思いを中心に書くことにしている。

 拙くとも自分で考えることが大事だと思う。私の学びの最後の砦だ。

「指示」と「誘導」

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 人に何かを教えるときにかつては学ぶ材料を提示することが大切といわれていた。提示の順番や方法などに工夫をすることが教える者の技能と考えられていた。この考え方は最近変わりつつある。知識の内容を伝えるよりも、学び方を教えるべきだという流れである。これにはいくつかの問題点がある。

 学び方を教えるという場合、次に何を読むか、どの問題を解くかという指示をすることは大切だ。何をやっていいのか分からないから知らないのであり、それを教えるのが学び方を教えるということだからだ。しかし、これにも程度がある。学びのスケジュールを完全に教師が行い、生徒がそれに従うのであれば結局従来の知識移動型の教育と同じになってしまう。まずは何をやるのかの大体の方向性を示しながらも、実際にそれを選択するのは学習者でなくてはならない。もっと巧妙な言い方をすれば学習者が選択したかのように見せかけなくてはならない。

 学びの達成感は自分の努力が報われ、結果になって表れたときに起きやすい。他人が用意した道筋をどれだけ進んだのかということになると、結局他人との比較になり、優越感を感じる一方でたいていの場合は劣等感にさいなまれる。それは他人が作った物差しの上にいるからだろう。

 本当は用意された道であっても、学習者自身が開拓したかの印象を持てれば結果は全く異なるだろう。学習者は自分のやったことに対して自信を持ち、次の挑戦に進むことができるはずだ。

 要するに教員は陰から誘導する役に徹する必要があるということになる。中等教育まではある程度、たどり着く目的地は分かっているものが多い。学習者がどのような経路をたどりどのように進むのかを予測して誘導することが教員の役目ということになるのだろう。こういう技術はこれまでの知識教育の方法とは異なるものである。これからの教員はそういった技能を学習していく必要がある。

エネルギーの多様性

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 欧州で進める自動車のEV(電気自転車)化はさまざまな問題があることが分かってきた。EVにすれば温室効果ガスの削減につながるという単純な発想はどうも誤りのようなのだ。

 2035年までにEU圏域で販売する自動車はゼロエミッション自動車(ZEV)にすることが義務付けられる。操作時に二酸化炭素を排出しないということで、日本のプリウスなどに代表されるハイブリッドの電気自動車は認められないことになる。これらの車は確かに走行時には電気だけをつかうので温室効果ガスは発生しない。だが、いろいろ問題があることが分かる。

 まずは性能の問題である。現状ではEVの走行距離はガソリン車より短く、こまめな充電が必要になる。自家用車の場合は自宅に停車しているときに充電するのが当たり前になるだろう。契約駐車場も充電器付きの設定が現れるはずだ。商用車になると困ったことが起きる。長距離を走るトラックなどは明らかにEVには向かない。充電にも時間がかかる。急速充電でも30分以上かかるというから、給油所ならぬ充電所は渋滞が予想される。

 そもそも電力をどのように賄うのかという問題がある。日本の場合、原子力発電は様々な問題がありこれ以上拡大できない。むしろ縮小しようというのが世論だ。すると電力は火力頼みにならざるを得ない。するとEV化のために発電量が増え、かえって二酸化炭素の排出量がふえてしまう。

 もっと深刻なのがエネルギーの一元化による弊害だ。今、豪雪地帯で起きている停電は、電力が停止するとインフラのほとんどが機能しなくなることを示している。電力に頼りすぎるとそれが止まったときにすべてが停止するという危険をはらむことになる。おそらく2030年代のヨーロッパではこの停電パニックが発生する可能性がある。

 技術者によるとEVは製造や廃棄の過程でガソリン車より温室効果ガスの発生量が増えるのだという。すると、走っているときはよいが、走る前と後のEVは環境問題に適合しないことになる。この点も考慮しなくてはならない。

 日本は欧州などの世界の流れを踏まえていかなくてはならないが、事情が異なる他地域の方法をそのまま取り入れるのは危険だということになる。再生可能エネルギーの開発は今も行われている。日本では豊富な水資源があることから水力発電が中心で、太陽光や風力の発電がある。これらは発電効率が低く、なおかつ環境を破壊する側面をもっていることから解決策とはなっていない。さらに注目されているのが水素をエネルギー化する技術である。水素からエネルギーを作る時点で電力がいるので、いまのところは完全に化石燃料から離脱することはできない。しかし、石油や天然ガスよりも温室効果ガスは削減できるとされている。発電を再生可能エネルギーに任せればさらに脱化石燃料に近づくらしい。

 いずれにしても今の科学技術では何か一つの手段にゆだねることは極めて危険な賭けとなる。欧州のような政策は理想としてはよいが、現実を考えるとかえって環境負荷を増やし、最悪の場合は全停止につながる。これは避けなくてはならない選択肢だ。日本のようなエネルギー資源がない国だからこそ気がつくこともあるはずだ。エネルギーの多様性を確保することは人類の未来にとって不可欠と考える。

沈黙のセンター

 クリスマスの思い出の一つはおそらく人生の記憶の端にあるものである。ミッション系幼稚園に通っていた私は訳も分からず毎日アーメンと唱えていた。日本人のキリスト教徒率は1パーセント程度といわれているが、多神教の素地を持つ我が国においてキリストの神様も八百万の神の一つとして信じているのだから、信じていないわけではない。聖書のエピソードなども意外と知っている人が多い。

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 幼稚園でのキリスト教体験の中でも印象的だったのがクリスマス近くに行った「おゆうぎ」だろう。キリストの誕生を演じるものだ。主役といえるは聖母マリアである。今から考えると一番かわいらしい女の子がその役になっていたのだろう。全く思い出せないが。そして、誕生を予言する博士や、羊飼いたち、そしてマリアの夫であるヨセフなどがキャストである。私はそのヨセフの役であった。

 聖書のなかでヨセフは聖職者の指示に従い、精霊を宿したマリアを罰することなく自分の妻として迎え、生まれたイエスを自分の子として育てた。誕生後すぐに権力者からの弾圧から逃れるためにベツレヘムからエジプトに移住することを断行したり、一時行方不明なったイエスを探したりしている。キリスト教徒にとっては神の誕生を支えた人物ということになる。

 その重要な役柄だが、「おゆうぎ」では真ん中でただ立っているだけの役だったように記憶している。マリアにはセリフも所作もあったと思う。博士や羊飼いたちにも動きやセリフはあったと記憶している。しかしヨセフはただ立っているだけだった。

 おそらく小さな幼稚園の部屋の一角で行われたに過ぎないのだが、記憶の世界ではある程度大きな教会で背景にオルガンなどがあり、たくさんの信者の前で演じているという風に脚色されている。でもそれだけ装飾された記憶の中にもセリフはない。確か風邪か何かにかかって少し熱があり、立っているのもつらかったということしか覚えていない。これもあとづけかもしれない。

 クリスマスの思い出としてこの歳になっても思い出すのは沈黙のセンター経験である。