自動運転車待望

 高齢者が起こす自動車事故が増えている。若い世代には分からないかもしれないが運動神経の衰えは自覚しにくい。だから、いつまでも大丈夫だと思って運転すると思わぬ事故を引き起こす。

 こういう事故の後、必ずどうして高齢者なのに運転するのか分からないという批判が出る。しかし、多くの場合わがままとか自己本位などではなく、運転しなくてはならない事情があるのだ。

 高齢者が運転しなくてもいい社会を作るのがこの国の一番の目標だ。例えばコミュニティバスや相乗りできるタクシーなどは実現しやすい。法整備を急ぐべきだ。テクノロジーの発達も期待したい。完全自動運転の自動車はいつになったらできるのだろう。

 自動車事故が過去の記憶の中だけになるような社会を実現するのはそれほど遠い未来ではないだろう。超高齢社会でかつ複雑な国土をもつこの国が自動運転システムを開発することで世界に希望を与えよう。目的を持てば実現は可能になる。

高温予想

 週間天気予報によると、3月7日(火)以降は最高気温が20℃近くの日が続き、最低気温も10℃を超える日がありそうだという。この時期としてはかなり気温が高く、桜の開花が早まる可能性もあるという。暖かくなるのはよいのだが、季節には段取りがあり、それなりの意味があるはずだ。春が駆け足になることを手放しでは喜べない。

 日本気象協会の予報では東京のソメイヨシノの開花は3月18日ということだ。とても4月まで花は持たない。少し前、温暖化の影響で桜は3月に咲くようになるということが科学ニュース扱いで取り上げられ、まさかそんなことはあるまいという感想を持ったものだが、すでに現実になっている。近隣の桜祭りが花期に間に合いそうもないため中止するというニュースがあった。祭りなら残念で済むが、生活に関するものになると静観できない。

 まずは体調を崩さないようにすることが私の課題だ。ここ数年春先に弱い。気をつけなくては。

教え合い

 コロナの影響で遠慮していた授業の方法に話し合いやいわゆるペアワークがある。これは、実は効果的な方法なので封じ手が解禁されることはとても嬉しい。

 私たちが何かを学ぶとき、最終的な目標は自分の言葉で表現できることだ。それを実現するためには結局は学んだことを他人に説明することが一番であると考える。教員が知識を伝達することは効率がよさそうに見えて実は中長期的には効果が出ないことがある。大量の知識を暗記して吐き出すことはすでに機械が行う分野であり、いま必要なのは自分の知識とすることだ。これは古典教育でも同じである。単なる知識の短期的な保管の作業はあまり意味がない。

 教え合いを授業の中で実践するにはどうすればいいのだろう。自由にやってくれでは質的な保証ができない。かといって教員がすべてのグループに入ることも無理だろう。ならば、生徒同士での学び方、教え方に工夫をするしかあるまい。

 例えば短い古文(日本の古典文学)を学ぶとき、グループごとに何文かを割り当てて教員の代わりに授業してもらうのはどうだろう。必ず二つのグループに指名し、そのうちのどちらかに発表させ、どちらかにコメンテーター役をしてもらう。そして生徒の説明が一通り終わったら、必要事項や訂正事項があれば教員が補足する。この方法では読解はあまり進まないが、そもそも全文を細かく訳す必要はない。授業でできなかったところはプリントか何かで配布すればいいことだ。

 発表するにあたってグループ内で教え合いは自然に生まれるはずだ。苦手な生徒はそこで方法を学ぶし、特異な生徒は人に教えることでより知識が確定する。こういう方法をとると面白いかもしれない。いずれにしてもこれは教員にかなりの覚悟がいる。自分が教えた方がはるかに早く効率的に授業が進められるのに、生徒の作業を見守らなくてはならないからだ。

 ただこの方が身になる知識になることは確かだろう。すべての授業で行うことは無理でも、大半の授業をこの形態にしてみようと考えている。私は見守り役だ。そして、やがて自分より優秀な学習者に育つのを発見することになるはずだ。

脱マスク間近

 13日からマスク着用は個人の判断となる。多くの企業ではこの方針に従うと発表しているが、接客を中心とするサービス業では従業員のマスク着用を続けると公表している。

 私の場合はコロナウイルス以上に花粉の飛散が問題なのでしばらくマスク生活は続けることになる。恐らく多くの方々はマスク生活を止めることになるだろう。すでにコロナはインフルエンザと同等の病気と認識されている。

 マスク生活が終わると何が起きるだろう。一時的な感染者増加は起きるはずだ。しかし、かつての脅威はない。むしろ人々の活動が活発になることによる様々な変化の方が気になる。再び喧騒の世界に我々は復帰できるのだろうか。

 学んだことがあるとすればソーシャルディスタンスをとっても社会は維持できるということだ。人口減少の未来を少しだけ予見できた。人的資源が失われても社会をどのように運用するのかを知ることができた。だから、決して慌てる必要はない。

 むしろこの自由になった空間で私たちは日常を楽しむべきだ。そしてダウンサイジングする社会をどう切り盛りするのか考えるべきだ。マスクを外したらまずはこの国の将来を考えよう。自分ためにも家族のためにも。

伝わらない思い

 何でも簡単に「配信」できると錯覚してしまう環境にある。言った言わなかったがトラブルのもとになってきたのはかつてからだが、いまはメールか何かで送った送らなかった、読んだ読めなかったの問題になることがある。結局同じことなのだろう。

 リアルタイムで同じ場所でやり取りしていても誤解は生じる。近年はコミュニケーション能力、とりわけ受信力に劣る人が増えている。かくいう私もその一人だ。相手の立場を察する洞察力や、自分の言動が将来どのように伝達されていくのかを予測する力も欠けている人がいる。高度な教育を受けた人にも多くいるから、恐らくいまの社会に欠けている何かがあるのだろう。

 情報技術は飛躍的に進歩したが、それに人間の方がまったく追いついていない。それどころか、人間らしい意味や価値観の分野を放棄して、すべてを人工知能に委ねようとしている。

 残念ながら、私たちには伝わらないことが多数あるという現実を知るべきだ。そして、人間性とはどのようなものかを自覚するべきなのだ。そのためにも古典文学に接し、小説や詩をもっと読むべきなのだ。その意味でもいまの国語教育の方向性には大きな疑問を感じる。

卒業の季節

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 街を歩いていたら卒業証書を持って歩いている生徒に何人か出会った。最近はいわゆる筒に入れるのではなく、二つ折りのケースに収納される形になっている学校が多い。今日出会った何人かの高校生もその形式だった。まだあどけなさの残る彼らは、4月から新しい生活を始めるのだろう。中には別の地で暮らすことを決めている人もいるかもしれない。

 私は都立高校から都内の大学に進学したので、それほどの変化はなかった。大学も比較的近くにあったので卒業の時の緊張感もあまりなかった。というより、その時点では進学先が決まっておらず何とも中途半端な気持ちであった。式の翌日に進学先が決まった。運よく合格した男子は数少なく、ほとんどの同級生が浪人をすると言っていたので、あまりはしゃぐこともできなかった。

 大学に入るまでの数週間はかなり不安定だった。今から考えるとどう考えても怪しい英会話学校の勧誘に引っ掛かりもう少しで契約しそうになった。結局、度胸のなさがこの時は奏功して詐欺から逃れた。宗教の勧誘にもひっかかりそうになった。これもいい加減な性格のためうやむやにできた。何がしたいのか分からず、迷走したのが卒業後の数週間だったと記憶している。

 いまでは人に生き方を語るような偉そうなこともするが、自分自身がかなり不安定な18歳であったことを思い出す。何もごともなく過ごしたことは奇跡というしかない。万一、この文章を読む高校卒業生か、その知り合いがいらっしゃったら、よく考えるようにしてほしい、もしくはそう伝えてほしい。大人の世界は思ったより狡猾で、そして面白い。だから気を付けて楽しんでほしい。本当は今日すれ違った高校生諸君にもそう言いたかったが言えなかった。言ったとしても不審者と見られるだけだっただろうが。

人形

雛人形の写真

 新暦の3月3日はまだ寒い。今日は寒の戻りともいえるような寒さであり、特にその感が強い。旧暦の3月3日は今年の場合は4月22日にあたり、春の印象は随分違う。もともとは古代中国の行事である上巳に端を発し、日本で独自の発展をした3月3日の行事は今ではひな祭りとされている。人形の祭りである。

 この人形はもともと罪や穢れをそれに移して自分の身代わりとなり日常から追放されるものであった。流しびなの習慣は現在でも鳥取県などで見られるようだ。この日の行事ではないが、紙など作った人形に息を吹きかけたり、体をこすったりしたものを川に流すという行事は各地にみられる。かつては川は異界につながる道であったようだ。

 人形はかわいく愛らしいものであるとともに、どこか恐ろし気な話もあるのはこの罪穢れの請負役という側面があるからだろう。雛人形を行事後すぐに片づけようとするのも、この禊や祓の伝統がどこかで影響しているはずだ。

 罪や穢れがあたかも誇りのように体に付着し、なおかつそれを簡単に拭い去ることができると考えていた価値観は非常に楽天的なものであるが、つねに身を清めようとする考え方は現代人にも参考になるものであろう。人形には負いきれないさまざまな日常の罪や穢れを私たちはどうすればいいのだろう。雛人形の端正な面持ちが逆に私たちに問いかけてくるような気がしている。

分断

 いろいろな局面で分断が起きる可能性があると言われている。国際的には超大国の利益が衝突し、世界が分断しつつある。その一国のアメリカでは階層や人種、主義などによる分断が表面化しつつある。一部の欧州の国が独立を目指しているのも分断の兆しだ。そしてこの日本にもその傾向は忍び寄っている。

 経済的な格差は日本ではまださほど顕著ではない。ただ、多くの人々が低賃金で働き、さらに非正規雇用といった不安定な立場にある。すると、経済力の差や雇用形態の差で分断が起こるかもしれない。世代格差もある。若者層の中には今の高齢層が享受してきた繁栄に比べて、自分たちの時代が低調であり、さらに高齢者扶養の責務まで押し付けられていると考える人がある。例の集団自決発言は極論であるが、慎まぬ本音が出たのだとも言える。

 分断を避けるにはどうすればいいだろう。少なくともいまの日本にとって分裂はマイナスの要素しかない。これまで享受していた国家としての市場をさらに小さなものすれば負荷をさらに付け足して走るようなものである。まずは社会的な意識を考える必要がある。スポーツに例えるなら団体戦なのだ。しかもこれは一人勝ちしても未来はない。

 我が国は戦争の反省から、国のために何かを考えることは避けてきた。偏狭な国家主義は危険だが、社会を単位に物事を考えることは見直してもいい。難しい問題だが、こういうものごとの基本的な考え方を見直すことが、今のこの国には求められている。

覚え方を教える

 国語教育の目的は母語の活用方法を深く教えることにある。漢字や文法、文章読解、作文、古典の基本的な読解などやるべきことはいくつもあるが、もう一つ大切なのが学び方を教えることなのだろう。学習という行動の中での言葉の使い方を教えるということである。

 断片的な知識を学んでも直近の考査で得点できてもすぐに忘れてしまう。これは若者の特権能力である短期記憶を使っているからで、長続きはしない。そもそも長くその知識を利用しようとする意識がないのだ。これは学習者の怠慢だけではない。教える方がそのような問い方ばかりしているからだ。

 長く残る記憶のほとんどは何らかのエピソードと結びついている。子どもの頃に覚えた言葉を忘れないのは、それに纏わる思い出とともに覚えているからだろう。この記憶法を国語教育で行うべきなのだ。

 現場でこの話をすると同僚からは同意された後で、ではどうやるのと問われることになる。生徒諸君にはそんな回りくどいことをすると覚える量が増えるだけだと言われる。彼らは短期記憶の王者だから、丸暗記の方が手っ取り早いのだ。そして王者の地位はすぐに奪われることになる。

 この記憶法はやはり母語の活用方法の一つとして教えるべきだろう。断片的記憶はもはや機械に代替される領域だ。大事なのは知識を関連づけ、自分の言葉として語れるようにすることである。これを国語の時間で鍛錬するとすれば、学んだことを素に自分の言葉で他者に説明できる力を身に着けさせることだ。教員が説明したことをそのまま鵜呑みにして試験に書けば正解になるというのは止めなくてはならない。

 そのためには考え発表する機会を増やすことにシフトしなければなるまい。基本的な事項を疎かにしないよう小テストを活用しつつデジタルデバイスもときに使いながら国語の運用力を伸ばす試みをしていこうと考えている。

相手にしないことは攻撃の一つ

 悪意のある相手がいる場合、現実社会ではそれを察することがある程度はできる。そして、そういう相手にはあえて近づかない。どうしても接しなくてはならない場合は最低限のコミュニケーションで済ませようとする。これは逃げではなく正当な方法だ。

 ところがこれがネット上になると誤解が生じる。悪意のある者は素知らぬふりをして近づき、いきなり暴言を浴びせる。彼らの目的は人を傷つけることによる自己確認だから、発言には大抵の場合、相手を動揺させることが第一の目的で、責任は伴わない。反論でもしようものなら嬉しくなってさらなる悪意をぶつけてくるものだ。

 こういう相手にモラルやルールを説いてもほとんど意味がない。彼らは相手にしてもらうことが目的であり、それが生甲斐である。彼らにとってもっとも辛いのは誰にも相手にされないことなのだろう。

 だからネット上の悪意は無視の一択だ。これは決して逃げではなく、自分が悪意ある者にくだす鉄槌である。そしてサイレントマジョリティーはその悪意あるものに批難のまなざしを向けていることを、場合によっては哀れみさえ覚えていることを知るべきだ。

 Z世代はことにこのことが苦手と聞く。あなたの考えるほど世界は単純ではない。