投稿者: Mitsuhiro

台湾救援

 台湾でまた大きな地震が起きた。天災においては日台共通の憂いがある。日本でも能登半島地震が起きたばかりだが、台湾も大地震を繰り返しておりプレート境界に住まう人間の共通の悩みである。

 台湾は政治的に複雑な立場にある。中華人民共和国との関係上、正式な国交はないが、自由主義経済圏の仲間であり、経済的にも文化的にも繋がりは深い。沖縄県の与那国島とは距離的には至近距離であり、隣国といえる。島国というのも共通点だ。かつて日本が占領した歴史があるのにもかかわらず親日家が多い。日本人も台湾に関する好感度はかなり高く、一度は訪れたい国の一つとして上げる日本人は多い。台湾風という料理はかなり人気がある。

 台湾有事を中台関係に見るのが一般的だが、今回は天災としての有事である。私ができることは少ないがせめて少額の募金でもしてみたい。私が利用したのはYAHOO!Japanネット募金だが他にもあるはずだ。政治的な問題は一度措いて地震という共通の災厄に立ち向かう仲間を応援したいと思う。

職業差別

 職業による差別的な発言をして辞職に追い込まれた知事がいる。報道されたコメントが事実だとすれば市民の代表たる資格はないとしか言えない。度々軽口をたたいては謝罪してきたというから、本人の気質の問題なのかもしれない。

 ただ、変な人の許しがたい行動と片付けてしまうと、労働に対する考え方は変わらない。差別された業種は農業、酪農家、製造業に相当する。これらの職業は人手不足の危機に瀕している。それは労働の対価が低いことにも原因がある。そして彼らがいなくなるとこの国は回らなくなる。

 経済的支援や人材育成のためにやらなくてはならないことがある。それをせずに悪口を言った人を責めるだけは解決はしない。

世代感覚の差

 たまたま立ち寄った食堂で従業員同士で話しているのを聞いてしまった。曰く高校生のアルバイトとは常識がなくて困る。こちらが10言っても2か3しか理解してもらえない。常識というものが通じない。全く困ったものだけれど、来てもらわないともっと大変だから仕方がない。

 要約すればその様な意味のことを数回にわたって別方向から繰り返し話している。さぞかし苦い思いをさせられたのだろう。執拗で悪意がこもっていた。そう話している男を見てみれば彼も私から見れば十分に若い。話を聞いている先輩格の男も私からすれば若手の方だと言える。彼らにとって高校生のアルバイトの振る舞いは許しがたいものらしい。

 それを言うなら、と私は思う。私という客がいる前で、業務上のトラブルを話す神経が理解できないとも言える。非常識と主張している君こそ何か間違っていませんかと言いたくなる。世代的な格差というのはこのように重層的にあるようだ。この文章をお読みなった先輩の中にはこう考える人もいるだろう。何を小さなことをこだわっているんだ。そんな胆力の小ささは理解しがたい、などと。

 学生の頃、新人類などと呼ばれ、最近の若者はと嘆かれた。いまはそれを次のもしくはその次の世代に向けて同じことを考えている。だからZ世代はとか言い方は変わっているけれども。世代による感覚の差は育ってきた環境によって変わる。時間とともに劣化しているのではない。自分に馴染み深い習慣とは異なる振る舞いをされることが耐えられないのだろう。私もそう感じる一人である。

4月1日

 朝目覚めると不思議な感覚があった。なんでもできるという無敵感があった。そうだ私は実はかなり高い能力を持っていたのだ。それを忘れていた。今朝そのことを思い出したのだ。

 いつものように街に出かけた。すると明らかに多くの人が私に注目している。優れた容姿を持つわけでもないのに私が衆目を集めるのはおそらくそれなりの理由があるのに違いない。いまはそれが何かを説明することはできないが、自らの身から溢れる何らかのエネルギーがある。

 それでも少しも私は奢らない。あらゆる羨望も怨嗟も乗り越えていける気がしている。というよりその様な人々の営みがむしろ愛おしいものに感じられる。そうか私は一つ突き抜けてしまったのか。

 今日は何日だっけ。

最後に語らせる過程を

 学習の成果を上げるためには言語化という作業が欠かせない。知り得たことを言葉に変換するということである。もちろん学んだことをすべて言葉にはできない。私たちが目にし、感じ取ることは非常に複雑であり、言葉で言い尽くすことは難しい。それでもたとえ断片的なものであっても、自分なりに言葉に写し取ることは必要な作業なのだ。

 学校での学習、とりわけ受験勉強や資格取得の学習などはもともと目的が限定されているものであるから言語化はし易い。そういったものの教育自体が言語を通して行われているのであるからハードルはかなり低いはずだ。でも大切なのは人の説明をそのまま暗記することではなく、自分なりのことばに変換し自分なりに説明できるということなのだ。結果的にそれが問題集の解説や教師の説明よりも劣ったものでもいい。とにかく自分の言葉で語ることが理解を深める。

 普段の学校の授業にこれを当てはめてみよう。例えば歴史を勉強する際に、教科書の記述に沿って多くの教員は説明し、重要語を板書(黒板に書くこと)したり印刷物にまとめて配布したりするだろう。生徒はそれを必死に写し、空欄を埋めたりして学習したことにする。赤いペンで書いて赤いシートで隠してテストに備える。直後の試験ではこれで対応できるので高得点をとると安心してしまう。ところが少し時間を置いて模試などで同じことを聞かれたり、教科書とは別の方向から質問されると答えが出てこない。こうした経験は多くの人がしているはずだ。

 おそらく教科書の丸暗記の方法は短期的な記憶には向いているが、忘却するのも早い。それはおそらく情報を単なる記号としてのみ取り込んでいるだけで、意味づけがなされていないからだろう。一つ一つの情報は軽量なのですぐに覚えられるが剥がれるのも容易だ。対して自分なりに定義づけされた情報は獲得に手間と時間が掛かるが重みをもつため、簡単には忘れにくくなる。ついでに覚えた関連情報も相互作用して忘れにくくしてくれるのだろう。

 では、自分の言葉に直すために何をすればいいのだろう。学習者の立場で考えれば学習後に自分の言葉でまとめ直す作業をいれる方法がある。講演などを聞くときその場でメモを取ることが多い。上手く取れると安心してしまうがこれが板書を写す学習と同じだ。大事なのは事後にそのメモをできるだけ見ないで講演の要旨を自分の言葉で書くことだろう。専門用語は使わなくてもいいので自分の言葉で説明できるかである。こうすることで学びが自分のものになる。最近の私のノートはこの自分なりのまとめを必ずつけるようにしている。

 教師の立場でできる方法は何があるのか。授業の最後に今日学んだことは何であったのかを語らせる時間を作らせることではないだろうか。教師が板書することは重要事項の箇条書きや記号による図示にとどまる。これをそのまま写しても後で読み直したときなんのことか分からない。そこで、授業の最後に私が今日話したのはどんなことだったのか、何が大切なことだったのかを短文でまとめさせ、生徒間で確認させるのである。自分の言葉でまとめられなければ理解ができていないことになる。生徒同士でまとめの交換をすることで見落とし、聞き落としを防ぐことになる。私はノートを使って隣の生徒に教師のように説明するという場面を作りたいと考えている。果たして効果は出るだろうか。

黄砂に霞む

 昨日ベイブリッジを走ったとき、横浜の街は黄砂に霞んでいた。風景全体にフィルターがかかったようだった。恐らく私の身体にも黄砂の粉が付着し、一部は体内に取り込まれたはずだ。

 そのせいだろうか。今日はアレルギー鼻炎の症状が酷い。フェキソフェナジンも点鼻薬も効かない。くしゃみと鼻水の処理とで精一杯である。ここまでの苦戦は久し振りだ。

 スギ花粉と黄砂のミックスがよろしくないのだろう。耐性がないことを痛感した私としては、負けても被害は最小限にしたい。もし勝つことができるならば。

魔女狩りの歴史が語るもの

 ヨーロッパの魔女狩りの歴史に関する新書を読んだ。背景にあるのはキリスト教における女性蔑視の思想だ。アダムとイブの話ではイブの淫乱が神の怒りを呼んだという解釈になっているらしい。だから、女には悪性があるというわけである。一方で女性は出産という神秘も持っている。女神信仰は先史時代から見られるもので文化の垣根を超える。この正と悪、神聖さと邪悪さが同居しているのが欧州の女性像だ。

 中世のキリスト教は教会の権威が王権と並ぶほどに強かった時代であり、その弊害が顕著に現れていた。女性観もその中で規定され、聖母マリアのもつ母性観と、老母の魔性が同居していたのである。キリスト教の教義が論理化されていく過程で、いわゆる二項対立の論理が際立つようになったらしい。世界を救う神がいればその反対にそれをは破壊する悪魔がいると考える。神は崇めるものであり、悪魔は徹底的に排除するべき存在だ。魔女は邪悪な存在であり悪魔の愛人である。だから、何があっても排除しなくてはならないという論理になる。近世に入ってもその考えは変わらず、欧州の各地で魔女狩りが行われ多数の高齢女性(一部若年者もそして男性も)が理不尽な拷問の果てに処刑されてきた。

 キリスト教的なものの考え方は、科学的な論理構造と相性が良かった。科学者の先祖の大半がキリスト教の聖職者であることからも分かるが、論理構造を何よりも尊重する考え方は神学の思考法と根本的には同じだ。正邪を対立するものとして二元論として捉え、その構造を突き詰めていく。

 もちろん仏教にも女性蔑視傾向は根強い。伝統的に聖職者には男性がなり、女性は血の池地獄に落ちる運命にあると考えられている。一神教的な宗教にはこの考えがある。伝統的な日本の宗教でも伊邪那美命は根の国で死神の様な存在となったと語られているから、古代の女性に対する考えは普遍的なのかもしれない。ただ、日本の場合はこうした二項対立的な思考法が徹底しなかったため、極端な女性排除は起こらなかった。

 ヨーロッパの文化の持つ極端な側面を魔女狩りの歴史は示してくれる。根本的な論理構造は現代でも変わらない。プラスが際立つと必ずその対極のマイナスも存在する。環境問題に対する考え方も理想を追うと同時に、切り捨ててしまうなにかも存在する。電気自動車を推奨する政策は、内燃エンジンの排除に直結し柔軟性がないのもこうした思考ゆえなのかもしれないと考えた。

デザインを楽しむ気持ち

 デザインの不思議というものがある。実は全く同じものでも色合いや、ちょっとした装飾があるだけで雰囲気が大きく変わる。例えばいつも使っている手帳に植物の柄のシールを貼っただけで開く回数が増えた気がする。表面的なすこしの変更でも変わるのである。

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 さらに形を変えたり、人が使いやすいような工夫を施したりすることで使い勝手は大きく変わる。このことをもう少し重視すべきだというふうに考えるようになった。

 物事の根本的技術的な改良には経験と時間とが必要だ。これはなかなか一般人が参加しにくい。しかし、出来上がったものを自分の使いやすいようにデザインすることは誰にでもできる。そういう気持ちを持っていればであるが。

 私ができるデザインとしては先程のべた装飾などの付け加える作業や、複数のものを組み合わせること、場合によってはある要素を取り除いて機能を限定してしまうこと。あるものを他のものの中に内蔵してしまうことなどがある。こういうデザインを考えることは日常を楽しく豊かにできる。

 もののデザインのことばかり書いたが、行動の仕方や考え方にもデザインができる要素がある。形はないが敢えてやり方を変えてみることだ。習慣的に行っていることを変えるのにはエネルギーが必要であり、覚悟もいる。デザインを楽しむというマインドがあればそういうことも達成できていく気がする。





常識という思考停止

 言わなくても分かるとは思わない方がいい。世の中はむしろ言っても分からないという場合の方が遥かに多い。自分の価値観が汎用的なものではないことは、よく考えれば当たり前だが、大抵その事実を忘れてしまう。

 日本人は騙されやすいそうだが、他人に騙されるだけではなく、自分を自分で騙してしまうことも多いのではないか。私が思うことは常識であり、他者は必ず同意してくれるはずだ。分からないのは相手が非常識だからだと。そんなふうに考え思考停止に陥る。

 まずは自分の思いは完全には伝わらないことを前提に考えることを確認するべきだ。自分とは異なる価値観を持った他者がいるから世界は面白いのだと考えるべきなのである。常識という思考停止に陥らないようにしたい。これはほとんど自戒である。

騙されやすい日本人

 情報に騙されやすい傾向があるという報道があった。日本人がアメリカや韓国の人々と比較してメディアに対する不信感が低いという調査結果である。

 高度情報化社会という言葉はすでに陳腐となり、使う人も少ないが情報が社会を動かす中心にあることは紛れもない事実だ。ただ、その情報には良し悪しがある。良い情報は生活を豊かになしうるが、悪い情報は日常を破壊する。そしてその区別は極めて困難であり、全く同じ顔をしているから都合が悪い。

 アメリカの人々が情報への懐疑性が高いのは常に偽情報にさらされている自覚があるからだろう。単純な詐欺情報だけではなく人工知能を駆使した巧妙なものもかなりの頻度で現れている。大統領候補者のディープフェイクで、イメージダウンを謀る方法などいまは専門家でなくても可能だという。情報には嘘があって当たり前という現実に晒されていれば考え方は変わっていく。

 日本でもその状況は全く変わらない。やはり偽情報は横溢しているし、そこには悪意も堆積している。それを見抜くこと、あるいはやり過ごすことにかけてまだ慣れていないということなのだろう。

 情報を受け入れるときには必ず異説の存在を確認する。嘘の情報なのかをその情報源に遡って考え過信しないという余裕が求められている。

 私のブログはその意味では信じるに足りない。ただ、自分の意見以外を示すときは出典をリンクするようにはしたい。自らのメディアリテラシーを保つためにも。