投稿者: Mitsuhiro

形見の力: 記憶を緩やかに保つ方法

 記憶はものに寄って出てくる。私たちの記憶力は有限なものでいつかは消え去ってしまう。ただ、それを緩やかにするにはある物質、物体を拠り所にする方法がある。思い出の品を介在させることで記憶の消滅は軽減できる。

 古語で言う形見がそれに当たる。記憶のよすがになるものが形見である。考えてみれば私たちは身分証明書という小さなカードを通して、自分の名前や所属というものを記憶に定着させる。自分を証明するためのカードと考えられているが、実は逆で、カードが自分の存在を裏付けてくれる。それがなければ記憶の保持期間が過ぎてしまい、自分が何者だかわからなくなってしまうのである。

 だから思い出の品を残すのは実は大切なことなのだろう。最近はものを溜め込むことにかなり消極的な意見が目立つが、ものがなければできないこともある。

結論後出し: 日本の伝統と現代の需要を考える

 具体的な話から始めて最後に結論を述べるという方法は現在ではあまり推奨されていない。まず、主張したいことを述べ、それについて論証していくという方法が良いとされているからだ。欧米の文章の多くがそのようなスタイルで書かれているので、その影響を受けた近代以降の日本の知識人の悪文章は概ねそれに習っている。私のブログの文章もその形を取るものが多い。

 古典作品を読むと大抵は具体的な話や例え話が前置きなしに始まる。何の話なのか明かされないまま話が展開して、最後にだからこういうことはやってはいけない、やらなくてはならないといった教訓が加わる。結論や主張があとに出てくるのが日本の古典作品の特徴と言えるのかもしれない。論理の展開の型を知っているだけで文章の理解力が上がる。

 それでは、結論後出しは時代遅れの良くないものだろうか。確かに情報が横溢する現代において、メッセージは迅速に把握する方がいいのだろう。長い具体例を目標なく読んだあとでようやく主張があるという文章を読むのには忍耐力と寛大さ、そしてもちろん読解力が必要だ。だから、結論先出しの文体が推奨されるのには意味がある。しかし、じっくりと話し自体を味わいたいときもある。また、筆者の持ち出す結論を批判的に読むには先に答えを明かされないほうがいいこともあるかもしれない。

 最後まで読んでようやく筆者が言いたかったことが分かるというのは、迂遠のようだが、あるいは冷静に深く読解するためには必要な手順なのかもしれない。読者の積極的な読解が求められる方法であるので、この方法を取るにはさまざまな制約があることだけは忘れてはならないが。

デクレッシェンドしてゆく意味

 自分が人生の後期を迎えていろいろと困ったことが出来しているが、最近必ずしも悪いことばかりではないのかもしれないと考えるようになった。若い読者には理解が難しいと思うが、身体機能が少しずつ、継続的に減退するのを実感するのはなかなか辛いものがある。思ったことが思ったようにできないのは、焦りを超えた恐怖が伴う。

 ただ、そういうことを感じ取る機能もまた劣化している。深刻な失態を犯しても、その深刻さを認識する度合い自体が低下している。物差しが緩くなることで、実際の機能低下を甘く見積もっているというしかない。

 でもこれは生きるうえでは大切なのかもしれない。最盛期の基準で戦っていたら、今の連敗は許しがたいだろう。負けを許せる能力だと考えれば今の体たらくを受容するしかない。

 デクレッシェンドしていく自分の能力を優しく包むのが老化というものなのかもしれない。まだ諦めるつもりはないが私はいまの状況に合った生き方をするしかないと考えるようになっている。

易しい英語

 NHKラジオ講座の易しい英語の講座のテキストを読むことがある。辞書なしでも読み進められるほどの読み物を読むことが多い。

 読むことはできるがそれを使って書いたり話したりすることができないのはなぜなのか。そういうことをする必要がないからなのだろう。なんでもそうだが特に言語というものは必要に迫られないと身につかない。日本人が英語が苦手というのは結局、日本語である程度のことができ、生活に必要な仕事もできていたからなのだろう。外国語ができなければ収入が半減する世界に住んでいれば嫌でも話せるようになるはずだ。

 私の英語力が一向に上がらないのはそういう切迫した状況にないからだ。これは大変幸せだが、同時に残念なことでもある。

和製英語

 アメリカの野球中継を見ていると知らない言い方がたくさん出てくる。ヒット・バイ・ピッチやベースィズローディドなどは早めに覚えたが他にも意外なものがある。野球を通して英語を覚えたつもりだったがデッドボールもフルベースも英語圏では使わないらしい。

 和製英語と呼ばれるものは他にもたくさんある。コロナの頃にはしばしば耳にしたピークアウトはいかにも英語のようだが日本人が作り出した言葉らしい。外国語まで和風にしてしまうのはこの国の人々の得意な才能と言ってよい。

 野球の言葉がたくさんの和製英語でできているということは、それだけこのスポーツが日本で愛好されてきた証拠だ。ナイターを観に行くなどというのはおかしいと言う前に、ナイターという日本にしかない夜の試合を表す日本語として使い続ける方がいいのかもしれない。

俳句の精神

 俳句はかなり前から続けているが、上手くなろうなどと考えていないから、全く上手くならない。駄作の連続だ。それでもいいと今でも考えている。

 景を以って情を映すのが俳句だと心得ている。切り取った風景を表す言葉にすべてを託す。言葉足らずでも、読者の想像力に任せて作品を投げ出す。それがこの文芸の根本である。

 この歳になって細かな細工ができなくなるとかえって俳句は都合がいい。文学としての俳句はもちろん、様々な点において俳句的発想や、行動が今の状況には適している気がする。

変革期の作品の魅力

 激動の時代を生きた人の人生には見るべきものがある。おそらく本人は大変な苦労をしたはずだ。人間不信になったり、死を覚悟して強引に物事を進めた人もいるのだろう。そんな中でも自分の心の在りようを表現できた人は偉大である。

 最近、岩波新書の高橋英夫著『西行』を読む機会があった。いわゆる日本文学研究者ではない筆者にとっては西行は単なる過去の有名歌人ではない。人が変革期に何を表現できるのか。そして、個人の開拓する表現世界は何かということに素直に関心を寄せてきたことが分かる。

 私もかつて古典文学を研究してきたことがあった。そのときには研究とは客観性を重視するもので、私自身の思いを極力排除するべきだと考えていた。また、周囲の人々もそう勧めてきた。でも、よく考えてみれば人間を評価する際に客観的という概念は成立するのだろうか。またその人間が作る文学というものを計る尺度があるのだろうか。

 いわゆる文芸評論家と言われる人の言説を読むのはかつてはあまり好きではなかった。立場によりその評価が変動することが公平ではないように感じていたのである。でもよく考えてみれば公平などありえない。自分の立場で自分の考えることを語るしかないのだ。

 西行に限らず、時代の変わり目の文学には見るべきものが多い。それは沿う感じる自分の人生があるということなのだろう。私の場合、安定した時代を生きてきたから、そういう過酷な時代を生き、なおかつ表現することを続けた人たちに素朴な尊敬の念を感じると言うことなのだろう。

パラダイムシフト

 今まで当たり前だったことを変更しなくてはならないときに私たちはしばしば混乱する。しかし、あまりに日常をそのまま受け入れていると変化に耐えられなくなる。だから、変化を敢えて作らなくてはならないことが人生の中にはあるのかもしれない。

 少し生き方を変えてみようと考えている。自分の今の状況に合った生き方をしてみたい。そのためには切り捨てなくてはならないこともあるし、新たに始めなくてはならないこともある。もちろんそのためにはやらなくてはならないことがある。最低限の生活保障を確保しなくてはならない。でも今と同じ生活を継続するために無駄な出費をすることは避けよう。実は公共施設の利用で代用できることはいくらでもあり、その利用が自分だけではなく、社会のためにもなるということもある。

 あまりにも都市型資本主義に無反省に従ってきたことを少しやめてみようかと考えている。どうすれば自活力が生まれるのか。それを根本的に考え直してみたい。

AIの描く絵

 WordPressのサイトでブログを書いているのだが、ここにも様々なAIのテクノロジーが使われるようになっている。これまでに内容の要約を作成するのに使ってきているが、今回は画像の生成をやってみた。上の絵を作るのに使ったプロンプトはMay,Sky,Treeの3語であった。

 確かに5月の青い空と、新緑が見える樹木がこの指示を具現化しているともいえる。と同時にどこか絵本のような、現実離れした絵でもある。天空の二つの球体が何を意味するのかも謎がある。逆にそこから何らかのストーリーを考え意味付けしたくなるほどだ。

 どうしてこのような絵が描かれるのかは分からないできたものに何らかの意味を考えてしまう。これがAIのやることと人間の頭脳がやることの違いなのだろう。意味がなくても物が作れるのが機械であり、逆に私たちは意味なしで物事をとらえることはできない。

石斛

 石斛(セッコク)は蘭科の植物で木の幹などに見られる。着生植物というそうで、樹木には張り付いているだけでそこから養分を取っているのではないらしい。寄生植物とは異なるというのだ。だから岩に張り付くこともある。

 先日、ある植物園で石斛を見つけた。ヤドリギかと思ったが、前述した通り着生しているだけの生態である。おそらく意図的につけられたものだったのだろう。ちなみに寄生植物にも自ら光合成をする半寄生植物と、葉緑素を持たない寄生植物とがあるという。

 石斛は蘭科だけあって花が派手である。確認できなかったが芳香もあるという。私の見たのは近縁種のデンドロビウムかそのれとの交配種である可能性が高い。植物というのは園芸種として幾通りにも改良され、樹上着生という性質さえ忘れられてしまうものもある。

 石斛は長生蘭とも呼ばれ江戸時代には愛好家が多数いてその僅かな違いを競うものにもなっている。薬効もあるという。俳句の夏の季語でもある。