毎年この時期の楽しみとして商店街の中に植えられたムサシノケヤキの黄葉を見ることがある。

欅の園芸種で樹高や幹の姿が整っている。普通の欅と同じだが夜、商店の照明が当たると魅力的な色合いになる。光が透過した様がいい。写真では上手く捉えられないのが残念だ。
来週からは一気に冷え込むというから、この光景もあと数日だけだ。散るときはあっという間だから。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
作り話は面白い。ただ、嘘はいけませんという言葉を何度も浴びているうちに自由な創作ができなくなってしまった気がする。
小学生の頃、ノートに書いた話は宇宙船に乗って知らない星に行くという内容だった。たどり着いた星は地球そっくりで出会う人もどこかであったような人ばかりだ。違うのは自分がまったく別の扱いを受けることで、実際は地味なのにひどく英雄扱いされるといったようなものだ。オチはなくそれだけだ。
当時よく読んだ星新一のショートショートや松本零士の漫画などの二番煎じだが、それでも書くこと自体が楽しかった。中高生のときも書いたが何か暗い内容だった。それでも作り話に興じることができたのは、ある意味恐れを知らなかったからだろう。
それがいまはいちいち自己点検が入り、書くこと自体に夢中になれない気がする。どこかで書くことは無駄なことだ。そんなことをしてもなんにもならないという考えを持ってしまうのだ。
創作は基本的には自分勝手であらねばならないのだろう。それが期限内に他者の要求にも沿う形で実現できる人がプロの作家になれるのだ。私にはその才はないがせめて駄作を臆面もなく書けるようにはなりたいと思っている。
TikTokに代表される短い動画は耽溺性がある。ダンスや豆知識などの種類は見ていて楽しいが、中にはニュースや政策に関するものもあり、多彩だ。アメリカ人のかなり多くの人たちがこのショート動画を通してニュースを見ているらしい。トランプ次期大統領を支持した人の多くはこのニューメディアを情報源にしているらしい。
極めて短い時間で要点のみを強調して結論しか言わない。非常に分かりやすい。ただその反面、結論の根拠や都合の悪い事実が一切省かれている。あたかも作者の言わんとすることが絶対的に正しく、他は排除すべきもののように思えてしまう。冷静に考えればおかしいと思うことさえ、明快さと誇張の陰に隠れて見えなくなってしまうのだ。
メディアリテラシーが本当に重要な時代になってきた。自分で考えずによくできた話に安易に取り込まれる。その他の選択肢を考慮できない。そういう環境にいまはある。
悪意のある権力者が世論を支配することも容易だ。ファクトチェックというジャンルを最近よく目にするようになったが、これも世に欺瞞が横溢していることを示すものだ。チェック自体もチェックしなくてはならない。ただ、実際には門外漢には判別できないことが多い。少なくも鵜呑み即決は止め、立ち止まって考えること、そして誤った判断をしたら、訂正しやり直すことに躊躇しないことが求められる。自戒したい。
人工知能があらゆるところで使われ様々な応用がなされている。その能力には驚くべきものがあるが、より驚くのは電力消費の多さだ。
人工知能の頭脳にあたるサーバーは従来より性能と規模が大きく、そこで消費される電力は飛躍的に増えるらしい。その多さは一つの国家の年間消費電力に匹敵するとも言われる。その電力をどのように確保するのかが問題になる。
つまり、AIの時代になってもやはりエネルギー問題は解決できず、伝統的な水争いが起こる可能性があることになる。電力消費のなるべく少ない機械の開発が急がれるが、人工知能の構造上、電力不足からは免れることはできそうもない。高い能力を引き出すにはやはり地球資源を消費しなくてはならないようだ。解決策を人工知能に考えさせようか。
今日の読売新聞に日本は四季から二季の国になるかもしれないとの記事が出ていた。夏の暑さが梅雨前から始まり、梅雨もはっきりとせず猛暑が何日も続き、残暑という範疇を越えていつまでも暑い日が続いたと思ったら、いきなりさむくなり驚く。秋は痩せ細り、すぐに冬が来る。春もまたはっきりとせず、いつの間にか終わる。
実感としては二季となる前に春夏冬の三季となり、やがて春も痩せて二季となるのかもしれない。春秋が全くなくなる訳では無いが、過渡期の現象として季節とは考えられなくなるかもしれない。
偶然だがこの傾向は文学や芸能の世界ではすでにあった。古今和歌集の四季の部立の歌を見ると圧倒的に春秋の作品が多く、内容的にも深い。夏冬はその隙間を埋める程度の位置づけのように見える。しかし、現在のポップスの歌詞を四季で分類すれば夏冬が圧倒的に多く、春は卒業や桜の歌が大半で、秋の歌はかなり少ない。気候変動を先取りしていたのである。これには因果関係はないと考えられるのであるが。
秋の語源が満足するという意味の「飽き」に由来するかどうかは分からない。ただ、収穫期の秋は食料確保という点においては理想的な季節であったはずだ。古代中国から秋の憂いの概念が取り込まれて一層複雑な感情となったが、秋が精神的に大切な季節であったことは間違いない。
その秋が日本の気候から消滅しつつある。自然現象の変化が生態系に及ぼす影響は大きいが、それとともに精神文化も甚大な影響を受けることになる。
私は近眼でそれに老眼も加わっているから、眼鏡がなければ遠くは見えないし、眼鏡をかけると近くが見えない。実に不便である。近視の方はほぼ変わらないが、残念ながら老眼は少しずつ進行している。
面倒なので眼鏡をかけずに過ごすこともある。1メートル先の風景はぼやけてよく分からない。特に人の表情は判別できない。だから、人のことを察して振る舞いを変えるということはできない。不便だが気楽でよい。余計な気遣いは要らなくなる。
大切な情報を幾つも見逃すことにもなる。見えていたことが見えなくなることで、失うことは多い。無意識のうちに視覚から得ていた事実は捕捉できないものとなる。ただ、雑多な情報に振り回されることもなくなるとも言える。
なるべく多くのものを見て、外界の変化を見落とさないようにするのは本能としてのあり方かもしれない。さらに昨今の情報至上主義の世相にあっては「視力」は必須、不可欠のもので私のような考え方は否定されるはずだ。
でも、あまりにも多くを見ようとし、精神をすり減らすより、ときには見えない時間を作った方がいいのではないか。眼鏡を外すことによって私はあまりに生々しすぎる現実にフィルターをかけるのである。
デジタルが世界を支配する時代において、生の感動がますます重要になっている気がする。自分の情動に従って行動するという生物にとって当たり前のことができなくなっている。それが現代の問題点なのだろう。
デジタルの世界は現実の描写をなるべく自然のままに再現することを目指す。ただ、どんなに技術的進歩があったとしても、作りものは作りものであって、それ以上のものではない。懐に飛び込んでその世界のありさまを見ることの大切さは変わらない。
ネットで検索して、あるいは人工知能に答えを生成させてそれで分かったように考えてしまうことには、致命的な問題を感じる。身体の動きを伴わない認知行動がどのようなものなのかを考えなくてはならない。