投稿者: Mitsuhiro

人間の限界

 イスラエルやパレスチナの問題に触れるたびに、人間の限界を痛感してしまう。相容れない民族が近接するときにいかに危機を逃れるのか。それが現生人類には解決できないのである。

 理解できない相手がいる場合、戦いを選択するのは非常に愚かな手段だ。双方が傷つき、禍根を残し末代まで争うことになる。争うことを生き甲斐にし、同胞の死をも快感とするのなら話は別だ。そんな民族は実はいないはずだ。でも、主義、宗教、信念などの違いで簡単に争いが始まり、勝敗を決めることが自己集団の目的であるかのように振る舞ってしまう。争いは争いを呼び、その間に起きた憎しみは新たな憎しみを呼び出す。

 そのような闘争を目にすると、戦わないことがあたかも悪のように思えてくる。結果として無駄な殺戮を繰り返し、多くの悲劇を生み出す。戦わずして自らの利益を守る方法を人類はまだ獲得できていない。ために結果的に同乗する船を傷つけ合い。やがてその船そのものを沈め、全体の死を迎えることになってしまう。こうした見通しは誰にもできるのに、結果として避けることができない。

 中東だけの問題ではない。人類の知恵の段階として、こうした不幸は今のところ避けられないようだ。民族の利益のために人類全体の運命を想像できるほど進化はしていないのだ。それを思い知らされることに痛切な悲しみを感じざるを得ない。

 私の人生のスパンでこの問題は解決しそうもない。未来はどうなのだろう。未開な21世紀は無駄な争いをしていたと後生に嘲笑されるならばよいが、この愚を繰り返し、全体の終焉に近づいていくシナリオが待っているとしたら残念でならない。

日本語の文章の可能性

 日本語の文法構造上、文末の形が固定化しやすい。です、ますを使えばほとんどが「す」音で終わるし、過去が絡むと「た」音が並ぶことになる。それを単調と考えるのか、押韻のような美しさと考えるのかは感性の違いだ。

 私自身は何も考えていないつもりだったが、これまで書いてきた文章を見ると、文末の音の繰り返しを避けている。繰り返しがいけないわけではない。ただ、変化をつけると文が書きやすい気がするのだ。ほとんど気のせいである。

 日本語の文章は音韻的な単純さと引き換えに、表現方法、表記方法などが他言語と比較して可能性が高い。複雑なニュアンスも表しやすいのではないか。文章を書きながら、その可能性をもっと活用してもいいと考えている。

朝は氷点下

 ここ数日、朝の冷え込みが大変強く、氷点下になることもある。風が吹くと体感温度はさらに下がるから結構辛い。全身の疲労感倦怠感を覚えるのはなぜなのかと思えば、おそらく朝の保温のために体力が注ぎ込まれることにあるのだろう。

 筋肉の低下という問題に直面している。すぐに筋肉痛を感じるのはよくない。極力歩き、座らず、階段は歩くという方針で運動の代わりにしているがやはり、それなりの活動はいるようだ。何かやらなくてはとは考えている。

存続

 古典文法に存続の助動詞がある。「たり」や「り」がそれで〜ている、などと訳す。この「り」は元は「あり」であって、そういう状態で存在しているという意味を持っていたのが、状態の存続の意味として使われるようになったらしい。過去の助動詞の「けり」もこれに関係するようだ。

 存続という概念は実は結構高度な判断からなるのではないか。今あるものに時間的な幅を意識して把握するのは手続きがいるように思う。

大雪予報

 強い寒波が到来している。すでにかなりの降雪があった地域もあるようだ。関東南部は雪の予報はないがこれからしばらくは最低気温が氷点下になる日が多いらしい。体感的にはいつ雪が降ってもおかしくない寒さだ。

 よく言われるように雪の備えのない地域は、ちょっとした雪でも大きな被害が出る。かつては降雪地域で暮らしていた私も最近は縁遠くなってしまった。あの頃のことを思い出して、せめてその日のためのイメージトレーニングだけでもしておくことにしよう。

七草

 新暦の七草が実態に合っていないことは明らかである。でも、いまはハウス栽培の七草もあるし、フリーズドライやレトルトの七草粥もある。新芽の生命力をいただくという主旨からは外れるが格好はつくのだ。七種類がなにであるのかを気にするより、多種の新芽を食して自らの命の糧とすることに意味がある。自然に感謝し、この厳しい季節を乗り切りたい。

悪夢誘引

 上方系の落語に「天狗裁き」というのがある。それがたまたまラジオの寄席番組で演じられていたので聞いてしまった。「てしまった」というのはその後の結果に関わるのである。深層心理の恐ろしさというか、自分の精神管理の未熟さというかそういうものに悩まされてしまったのである。

 「天狗裁き」はある男が妻に起こされ、いまとても幸せそうな顔をして寝ていたがどんな夢を見ていたのかと問われることから始まる。男は何の夢も見ていないというと、そんなはずはないと妻が立腹する。その様子を側聞した長屋の隣人が夫婦喧嘩の仲裁をする代わりにその夢を聞かせてくれという。男は夢など見ていないというと、その隣人も立腹し喧嘩になりかけているところに長屋の大家が通りかかり仲裁すると、私にはその夢の内容を聞かせてくれと言う。男は夢など見ていないというとこの大家も激怒して話さないなら長屋を出て行けと言われる。男は奉行所に訴えると、奉行はくだらないといって裁きを中断し、人払いをした後に私にだけは夢の内容を教えてくれるなと耳打ちされるが、男はもともと夢など見ていないというので拷問される。その中で意識が異界に飛んで天狗が現れ、そなたの痛みを救いたい、その代わりに夢の内容を教えてくれという。男は夢など見ていないとうろたえているときに、妻の声が聞こえ、あなた何の夢を見ていたのと問われる、とそんな内容であった。少し違うかもしれないが。

 よくあるパターンの落語であるが相手の格がだんだんと変わりながら、結局同じことを繰り返すのが面白い。最後が夢落ちになっているのもよくできている話だ。この話を聞いていろいろ感心してしまった。

 そこまではよかったが、その後私が本当に眠りにつくと悪夢が次から次に浮かんで寝苦しい。それを打ち消そうといろいろ努力しても、そう思うたびに悪条件が積みあがっていくような展開になっていったのである。悪夢はそれだけで精神を疲弊させるが、この時の夢は波状攻撃的ダメージを与えるものであった。夢に苦しむのは久しぶりであったといえる。

 この夢は落語で聞いた話の反芻を行ううちに脳内で起きた一種の暴走なのだろう。私にはこういう夢でのアレンジがとても多い。それを覚えていて文字にでも書ければ面白い話でもかけそうだが、大抵の場合起きてすぐに忘れてしまっている。あるいは覚えていることもかなりとのすり合わせの上で修正された末の形である。楽しい落語が悪夢を誘引してしまったいう話だ。悪夢を逆夢として跳ねのけて明日からは生きていくことにしている。

教育ビジネスの隘路

 教員生活を長く続けていてよく言われるのは効率的に短時間で効果を上げよと言うことだ。具体的には模擬試験の偏差値を上げることである。偏差値が少しでも上がれば褒められ、下がると烈火の如く避難される。実におかしな世界だ。

 考えなくてはならないのは、それでいいのかという現状批判だ。私のようなロウトルはある程度好きなことが言える。開き直りと受け流しの技も備えている。その上で言いたいのは、細かいことに拘りすぎると本質を見失うと言うことだ。

 不本意なやり方で業績を上げて意味があるのだろうか。短期的に数字を上げてそれに意味があるのか。私は大いに疑問に思う。数値目標を掲げることは大切だが、短期的な結果だけであれこれ言うのは無意味だ。

 次に何をすればいいのかを考えることが大切なのに終わった記録に拘り過ぎては前に進めない。教育に商業主義が重なったときおかしな誤解が生まれる。教育の専門家なのにどうしてこんなに根本的な間違いを犯すのか。

初めてのことのように

 細かいことを気にするなという言葉がある。確かにそれは処世訓としては的を射ている。ただ歳を重ねるとその金言は時に害悪になる。細かいことを気にするべきだろう。

 小異を捨てて大同につけというのは大抵の場合正解だ。些細な違いに気を取られて本質を失うのは愚かである。でも高齢者にとってはこの言葉は毒にもなる。歳を重ねると物事の分節化がかなり概括的になる。過去の経験知からこれはこのようなものだろうと決めつけてしまう。おおよそそれは間違いではないから、ますますその傾向は強くなる。でもよく考えみよう。同じことは二度と起こらない。そしてたとえ似ていたとしても背景の要素がまるで変わっている。

 だから、私の最近の金言はこれまであったことを初めてと考えよということだ。私のいまの経験を大切にして過去の経験知を敢えて後ろに回せということなのである。これには相当のかっこ悪さがある。でも、要領よく無難に切り抜ける代わりに何も得られないよりは、失敗があってもリアルタイムに現状と向き合える方がよほどましなように思えるのだ。

 おそらく、こんなことを言ったら、それは余裕がある者の意見であり、本当に困窮したらそんなことを言っている暇などないと一喝されそうだ。その点には異論はない。ただ、何もせずに暮らすよりは、何かをした方がいいのかもしれないいう形に人生を捉え直したい。真新しい明日を生きるために。

教員はいなくなるのか

 年の初めには過去を振り返るよりも将来を考えることが多い。ただ、私のような年齢になると未来を考える際に過去の経験を参照しすぎる傾向にある。前例にこだわりすぎてはならないと自戒するものの、やはり過去の例からものを考えなくては何も始まらない気がする。教員という仕事が将来なくなるという人がいる。AIの教育ヘの応用ができれば一斉教育をする教員という人間よりはるかに効率よく教育ができるというのである。これは半分当たっていて、半分間違っている。だから教員の未来予測については意見が分かれるのだろう。

 確かに一斉教育の弱点は個々人の能力や特性に配慮が届かないということにある。教え方の緩急も人によって調節するべきだし、少し厳しくいった方がうまくいく人と、自由にやらせた方が成果が伸びる人がいる。これは人次第なのだが、それにいちいち対応できない。いまでも優秀な教師はこのことを知っていて生徒に適切な助言をしている人もいる。でも、それがすべてうまくいっているのかといえばそうでもない。まぎれもなく生徒と教員との相性という要素もあるからだ。

 ならば柔軟にカリキュラムを個人向けに変えていくAI教師の方がうまくいくかといえばそうとも限らないから厄介だ。機械任せで学習するよりは結局、自分の力でやる方が身になる。また分からないことは教員に質問して解決したほうがはるかに理解が早いのだ。コンピューターで学習してうまくいく生徒もいるので一概には言えないが、私の経験上では大抵はうまくいっていない。私たちは大人も含めて情報機器の扱い方を習得できておらず、自分の能力を上げるための補助として使いこなせていないのである。

 この先の教員の役割はもちろん個々の生徒の精神的な補助をしたり、疑問点を先回りして考え、質問に備えるといったことがある。そして何よりも生徒の学習意欲を高めるあらゆる工夫をする必要がある。また学校という集団社会の中で個々人の役割を考えさせ、決して他人と同列になることが幸せの目的ではないということを知らせる必要がある。ある大学に入学せよというのは分かりやすい目標だが、それは多くある目標の一つにしか過ぎない。それよりも自分が何を学びたいのか、それが今後の人生にどのような意味を持つのかを個別に説明する存在であらねばなるまい。

 学習するのは個々人だが、学びに向かわせるのにはコーチがいる。それが教員の仕事なのだろう。そういう風に変わっていけば教員という仕事はなくならないだろうし、むしろこれから人材不足で積極的に求められるようになる。これから教員になる人には可能性のある仕事であること言うことを伝えたい。ただ皆さんの恩師と同じことをしていては先細りになるかもしれない。学ぶことが好きでそれを他人に伝えることができるか否かが肝要なのだ。