投稿者: Mitsuhiro

自己満足上等

 高温の日々が続いているせいで疲労が蓄積している。暑さのために集中力が失われ、ときに目眩までする。このままでは大きな損失に繋がる。いまは調節が必要だ。

 でも、おそらくもっと大変なのは心の問題なのだろう。9月病などと言われるが、これは中高生だけの話ではなさそうだ。最近、何事にもうだつが上がらないと自覚している私などもその未病者の資格が十分にある。

 周りが自分を評価してくれていないときには、特に落込みがちだ。しかし、誰にも気づかれなくても他人にはできないことをやり続けるのだという気概は持っていたい。すぐに結果を求めるのが最近の風潮だが、そんなうわついた評価はこちらからお断りするべきだろう。

 他の人にはできない何かを愚直に続けるしかない。たとえ誰にも評価されなくても、少なくとも自分は満足できる。それでいいのだ。自己満足できる何かを続けていく。そこに中断の合図がでたら、そこで身を引けばいいだけだ。

二桁になったのに

 9月10日とは思えない猛暑である。身体が暑熱順化した後なので耐えられるが、それにしても暑すぎる。こどもの頃の土用の陽気だ。

 はるか南海上で台風の素が発生しており、沖縄に影響を与える可能性があるという。そのために起きる気流の影響で今月末まで残暑?が継続するらしい。まだ暑さとの闘いは続く。

 このところ休みなしで働き、久しぶりの休日だが、この暑さだと外出も躊躇われる。程よく過ごせる日はまだ来ないのか。

別の物差しがある

 自分らしい表現の仕方ができないと実力が発揮できない。他人の決めたやり方に沿って物事を進めるのは、許容範囲にあるものならば楽でよい。いちいち何をやるのか決めなくてもいいからだ。

 でも、それが自分のやりたいことなり、適性なりから大きく外れているときにはかえってその人の存在を小さくしてしまう。いつもあの人は消極的だとか、能力的に劣っているとか言われている人も、やり方を自分で選べるようになるととたんに才能を発揮することがある。

 やりたいことと、取るべき方法と、その結果とはなかなか良いふうには組み合わされない。なすすべはない。が、少なくとも一つの物差しだけで自他の能力を評価することはよしたほうがいいようだ。見方を変えて違う自分を、別の他人を見つける方がいい。

引き潮の周波数

 引き潮の奏でる永遠のような周波数の波が何かを急かしている。私はその気配を感じることすらだんだんできなくなっている。かつては胸踊る場面でさえも色褪せたものにしか映らないことがある。

 このまま、引いてゆく海の音に溶け込んでいけばいいのだろうか。波の音をかき消すような叫びをあげれば何かが変わるのだろうか。

 よくわからないままに結局毎日を過ごしている。それで精一杯だから、それでいいのだ。そう思い聞かせて思考停止の状態にしている。

党首選挙

 自民党の総裁選挙にはどれだけの候補者が出るのか。政策で競っていただくのは大いに結構だが、なくしたという建前の派閥がまた影で力を発揮するのだろう。そのまま首相になることになる人材だから、全うな方になっていただきたい。

 立憲民主党も代表選をするらしい。野党としては存在をアピールする手段として行うのだろう。政権交代が可能と国民に思わせることが必要だが原状はそれを感じない。公明党も代表交代のようだ。連立与党の存在価値をアピールしたいのだろう。

 民主主義には選挙は不可欠だが単なる話題づくりならば意味がない。先日の都知事選のように売名や商売の機会に過ぎないものを繰り返していると確実に衆愚に陥る。分かりやすく意味のある主張をしていただきたい。

 

法師蝉

 気のせいかツクツクボウシの鳴き声をあまり聞かない。晩夏によく鳴くのでこの蝉が鳴くと夏休みも終わりだと感じたものだ。

 私の住まいの近くだけの現象かもしれないが、ツクツクボウシを聞くことがとても少なくなっている気がしている。これも気候変動の影響なのだろうか。それともあまりに忙しく蝉の声を聞き取る余裕がなくなっているせいなのだろうか。

残暑継続の予報

 9月に入っても暑い日が続いている。月間予報では向こう1ヶ月も残暑が続くそうだ。果たして残暑という言い方が当てはまるのか。過去の季節の概念では捉えられなくなっているのは確かだ。

 10年くらい前にテレビの天気予報の中で、将来日本には夏と冬しかなくなるかもしれないと予報士がコメントしていた。そのときは誇張に過ぎると思ったが、そうでもないようだ。物凄く暑い夏と、豪雪もある冬という嬉しくない組み合わせが増えている。

 歳時記では春と秋の季語が多く夏冬は正月を除けばかなり少ない。古今和歌集の部立でも春秋が厚く、夏冬は薄い。伝統に背く現実が迫りつつある。

ゲルマニウムラジオ

 中学生のころ「初歩のラジオ」という雑誌を時々買っていわゆる電子工作をした。色々なキットが売っていて、理科系に進む以前の中学生でも始めることができた。

 最初に作ったのがゲルマニウムラジオだ。おそらく多くの人がここから始めている。このラジオは極めて少ない部品を繋げるだけで電源もないのにラジオが受信できる。イヤフォンから聞こえるたよりない音はそれでも十分に感動できた。

 私にとって幸運だったのは父がそこそここういうことに興味があったようで、工具箱の中にはんだ付けをするための道具が揃っていたことだ。回路の意味は分からなかったが、雑誌の通りに部品を揃えてはんだ付けすれば音がなった。それなりの達成感が生まれ、他にもいくつか電子工作をした。そのまま続けていればエンジニアへの道もあったかもしれない。私にはそれはなかった。他にもやりたいことが山ほどあったのだ。

 理科系は理論の学問なのに、工学は実践を伴い、個人的な努力が反映される。私にとっては興味の糸口はは十分にあった。でも、それよりももっと興味が惹かれたものがあったために、それ以上の深みにはたどり着けなかったのだ。人生はほんの少しの差で大きく変わる。

 ゲルマニウムラジオで受信できたときの感動を今一度思い出したい。驚愕と歓喜と幾多の好奇心の虜となったあの日のことを。

八咫烏

 日本サッカー協会のシンボルマークの八咫烏(ヤタガラス)が記紀神話に基づくものなのか、「淮南子」などに登場する三足烏に基づくのかでちょっとした論争になっているという。私見ではどちらも正解であり、不正解でもある。この話には日本文化の本質に触れる問題がある。

 自国のアイデンティティを自前のものにしたいという心理はわかりやすい。でも日本という国名自体が輸入された漢字とその字音でできている。ちなみに中華人民共和国の人民や共和国は明治の日本人が作り出した翻訳語だ。アイデンティティの中核に当たる名前自体が借り物でできている。

 それは決して価値を落とす要因にはならない。文化というものは交流の中で発展するものであり、そこにルーツの正当性を競っても意味はない。私たちの文化には多数の異文化がすでに溶け込んでいる。それを切り離したら、存在すらできない。

 八咫烏がどこの生まれなのかを考えるより、なぜ3本足のカラスが瑞兆とされたのかを考えるべきだ。なぜカラスなのか。なぜ奇形とも言える形態なのか。そして日本がなぜ他国の感性を取り入れたのか。

 他国の文化を取り入れ、和風化することに長けた我が国の文化的風土は、結果的に独自の文化を常に創出し続けている。寛容かつ着実な文化への意識がある限り、次の展開も期待できる。保守は大切だが適度な革新も忘れない。それが日本文化の強みだと言える。だから、八咫烏は中国由来であり、日本由来でもある。そのどちらかではない。

短波放送

 中学生のころだったと思う。短波放送を受信して聞くことがブームになったことがある。海外の放送局の日本語放送があり、それが聞けたことが一種の自慢の種になっていた。

 中国や韓国、北朝鮮などの放送は簡単に聞けた。アメリカのVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)やラジオ・オーストラリアのワライカワセミの声などは聴けただけでも感動した。モスクワ放送はソ連時代のもので、どこか重苦しい音楽が印象的だった。当時はラジオもアナログでラジオのつまみをほんの少し回すことでチューニングをしており、わずかな調節で聞こえたり聞こえなかったりした。それが楽しみだったと思う。

 私はついに挑戦しなかったが友人の中にはベリカードという受信証明を発行してもらい、それをコレクションしている人もいた。短波は電離層の屈折を利用してかなり遠くの電波を受信することができるが、中波にも夜間には越境が起こりやすいので、国内の遠隔地の放送局に受信証明をしてもらうこともあったようだ。

 いまはインターネットを通したサイマル放送が一般化しているので、このような楽しみはなくなってしまったのかもしれない。ただ、少し余裕ができたらまた短波ラジオでも買って雑音の中から遠隔地から届いた電波を聞き取る楽しみを味わいたいと思っている。