投稿者: Mitsuhiro

耐久戦?

 アメリカとイスラエルの始めたイランへの武力介入のため世界経済は大混乱が発生している。イランは徹底抗戦を訴えており、戦争は長引きそうだ。当事国の対立は深刻だが、それ以上に世界経済は大きな影響を受けている。

 石油から精製されるガソリンや軽油を不可欠のものとする流通業者らはすでに深刻な痛手を受けている。中には業務を停止せざるを得ないところまで追い込まれているという。石油から作られるのはプラスチックも含まれ、その中には医療の現場で欠かせないものもあるらしい。そうなると人命に関わる一大事なのである。

 当事者の主張も報じられているが、もうこれは彼らの問題だけではない。世界中の多くの人を苦しめることになっているのである。耐久戦の様相だが、世界中の人々を質に取るのは止めてほしい。

 

アクアライン

 初めてアクアラインを通過した。東京湾を横断する海底トンネルと海上架橋の複合だ。よくもこのようなことができたと思う。内房への時間短縮は素晴らしいものだった。どのくらいの耐用年数があるのか。非常時はどうするのかなどいろいろ気になった。

説経節の理不尽な美意識

 俊徳丸などの説経節の収められている文庫本を読んだ。学生時代、強制的に読まされたときには何とも支離滅裂な刺激的な展開だけを追求した作品かと思っていた。この齢になって読み返すと何とも哀れ深い芸能であったと気づいた次第である。

 説経節の主人公達は理不尽な逆境におかれ、それがストーリーの中で必ずしも好転しない。むしろ残忍な結末に報われない事実を突きつけられるのである。中には死後神格化されたことをもって悲劇を回収するものもある。現代人には理解しがたいのは、人生の中で精算がなされなければ意味がないと考えるからであろう。

 説経節がジャンルとして残ったのは、当時の価値観にかなっていたからだろう。能楽や歌舞伎に展開したのは基本的な精神が共通するからであり、それこそが現代人には分かりにくいものなのだ。非常に刺激的な展開、換言すれば非論理的な話の推移は現代の価値観による判断だ。説経節をライブで聴いた時代の聴き手にとっては、同時代の多数派の考えに基づく自然なものだったのだろう。

 理不尽にして大胆な、それでいてかなり図式的な考え方は当時の人々の思想を考える材料になる。私はいまは素晴らしく過去の価値観は間違っていたとか、未発達だったとかいう判断を避けたいと思う。当時の価値観と現在の価値観どちらが優れているのかなど軽々に言えない。古典研究者の概念設定として、芸能には自分にはできないカッコ付きの理想が語られているのだ。

自転車にブレーキランプを

 単なる思いつきに過ぎないのだが、自転車にもブレーキランプをつけたほうがいいのではないか。車道を走ることが条件付きで義務付けられたいま、来月からは罰則も適用されると言うのだから後方に停止を知らせるランプはあってもいい。前方灯のように常時点灯する必要もないので、さほどの電力消費もないし、太陽電池などを活用すればセルを回すときに起こる負担もないはずだ。

 狭い道路脇を走る自転車には危険が多い。そのリスクを少しでも減らす工夫は必要だと考える。停車を手信号でやるためには片手運転となり、危険性を増やす。ブレーキランプは市販されていて、充電式やモーター連動型、ブレーキレバー起動型から加速度センサーで自動点灯するものなどいろいろある。これらをもっと普及させた方がいい。現状では数千円程度だが、命の安全に役立つものであれば出費としては大きくない。普及すれば価格は下がるはずだ。

 自転車の事故は実はかなり多い。歩道を高速で走るのは論外だが、車道を走る際にさまざまななトラブルに遭いそうだ。対策の一つとしてブレーキランプの装着を提案したい。

小説を教えることの意味

 現在の高校の学習要領では近代以降の文学作品を学ぶ時間がかつてと比較して少なくなっている。高校1年生が以前学んでいた国語総合は、教科書の大半が現代文編と古典編に分かれており、現代文の中に文学的な文章も収められていた。ところが、現在の現代の国語は評論文ばかりが収められており、小説や随筆、詩歌は言語文化という古文漢文が中心の教科書に収められている。

 現場としては古典の方が時間がかかり、成績もすぐに伸びる傾向にあるから、古典の時間を削って小説を読もうという方針は取りにくい。だから、羅生門とか山月記といった定番に触れることなく卒業してしまう生徒が増えているのである。とても残念なことだ。

 小説など読むより論理的な思考を高める方がいいというのがカリキュラム設定者の考えだろう。ただ、この方面に関しては急速に発展している人工知能ができることだ。それを操るためにはより高度なロジカルシンキングが必要なのは事実だ。でも、だからといって一意に定義できない文学的文章を切り捨てるのは危険である。書かれていることを額面通りにしか受け取れない人に未来はあるのだろうか。新しい世界を創造する力はあるのだろうか。

 小説のテーマは多くの場合明示されず、何を読み取るのかは読者の環境や経験に影響を受ける。ならばまったく自由な読みが可能かといえばそれは違う。あくまで作者が設計した世界の中で、登場人物たちの行動を把握しなくてはならない。高校の国語で問えるのはここまでであるが、そもそもそういった世界観の把握自体が小説を読み慣れていなければできないのだ。

 現場の教員はこの危うさに気づいている。行間を読む能力はやはり大切でこれが欠落すると人格形成上大きな損害が起きる。多くの国語の教員がそう考えているのを反映したのか、教科書会社は現代の国語の中に資料扱いという言い訳をつけて小説などを組み込む改定を行っている。東大が小説の問題を出し始めたのも何かのメッセージではないかと考えてしまう。

 文学を教えることの意味は人工知能がリードする世界にあってますます増していると言いたい。

抜けている何か

 日々の生活の中で、つい見失ってしまうことがある。とても大事なことなのにあっさりと忘れてしまう。違和感を覚えながらもそのまま過ごして、あるときふと異常を感じるのである。一度気づいたら気になって仕方なくなる。

 何かが足りないと思うとき、つい冷静な判断力が失われることがある。余計なことをしたり、逆に必要な措置を取らなかったりする。精神的にいう抜けている状態はさまざまな失敗の温床となる。

 ただ、すべてが良くないわけではない。日常に追いつめられている人にとっては何かを抜かすことは大切な生きる知恵なのだろう。私は抜けている何かを敢えて求めないことも大事だと考えている。

人工知能が生成する美人と平均顔の関係

 AIが生成する画像にはどこか共通点があるように感じる。男女問わず、どこかで見たことがありそうでどこにもいないず容貌である。日本人の顔のデータを並べてその平均をとったいわゆる平均顔というのがある。不思議なことに平凡にはならず、むしろかなり魅力的な顔立ちになる。

 このことを、論理的には忸怩たるものがあるが、AIに質問してみると、平均顔は個々の個性が消されるだけではなく、欠点のように感じられるものも消去してしまうので、結果的に理想形に近づくのだそうだ。つまり、我々には実は素晴らしい一面を本来持っていて、それが組み合わされるより理想的な形になるということなのだ(ということで合っているのだろうか)。

I’m not AI.

 さらに人工知能は美人、美男子の生成を指示されると、その平均顔に少し盛るものがあるのだという…例えば目を少しだけ大きくするというのは常道だとか。だから、AIの生成する日本人の美人はどこかで見たことがあるように見えて、どこにもいない存在になるのだという。うべなるかな。

 最近はいわゆる超美人、美男を見るとAIのようだという褒め言葉があるそうだ。AIに見間違えたというのは実はおかしな表現だと思う。人々の理想を具現化したのがAIで、そこに映し出されたのは現実ではない。それを現実と比較すること自体が間違っているのである。

 現実の積み重ねから生まれる平均顔と、それをもとにしながら最後はスパイスを加えてしまう人工知能とそれを享受する私たちのあり方に、哀れを感じてしまうのは私だけだろうか。

雨後の虹

どのような天候が好きですか ?

 北陸住んでいた頃はよく虹を見た。誤解している人が多いが北陸の冬は雪ばかりでは決してない。目まぐるしく天気が変わり、雨が降ったと思えば雲間から日が指してまた曇りに変わる。雪が降るときは雷鳴も伴うこともある。実に忙しい天気の移り変わりがある。

 こういう天候では実は虹がよく見える。空気中に水蒸気が充満しており、陽光が当たれば虹のもとはすぐにでき、一瞬のうちに架橋は完成する。そしてかき曇ればどこかに消えてしまうのだ。

 北陸に住んでいた頃は、この激変に手を焼いたこともある。でも、なぜか今は懐かしい。私の脳裏にはかなり脚色された虹を観るストーリーが繰り返されることがある。

渡辺先生

最も影響を受けた教師は誰ですか ? なぜですか ?

 私は教員でありながら生徒に影響を、しかもいい影響を与えたと思える実感がまったくない。授業にしても今日はよくできた、満足だと思ったことはない。それなりに準備はしていくのだが、思い通りに進められたことはないし、その錯覚を味わったこともない。結構自己嫌悪の連続なのである。

 生徒としての経験でもっとも影響を受けたと言えるのは、小学校の渡辺先生である。転校生ですべてが刺激的で、しかも臆病だった私を助けていただいたのである。心的なダメージを最小限に抑え、何とか環境の激変を乗り越えられたのはひとえに先生のお陰だと思っている。

 特に水泳の思い出は印象的だ。転校前の横浜市の小学校は新設のためプールがなかった。だから水泳の経験がほとんどなかったのである。転校先は水泳が盛んで、泳げる距離やタイムによって独自の階級が作られており、その級は水泳帽に刺繍されて可視化されていた。そこに無印の私が入ったのである。小学生にとっては封建社会の最下層のような感覚があった。

 渡辺先生はそんな私を個人指導してくれた。水面に顔をつけることから、力みを抜いて浮かぶところまで、水泳の授業がある度に付き合ってくれた。クラスに他に泳げない児童はいなかったから完全なお荷物なのだが、最後まで付き合っていただいた。お陰で何とか25メートルは泳げるようになった。いまはゆっくりならある程度長い時間浮いていられる。そんな自信が持てるのも先生のお陰だ。

 この自信はプールだけではなく、人生のさまざまな場面で生きている。先生は一昨年お亡くなりになられた。年賀状を送り続けていたが、必ず返事をくださっていた。それが娘さんから先生が逝去されたことを書いたお返事をいただいた。心の中で涙し、私の恩師が自分に残したことの大きさに感謝したのである。

 先生と呼ばれる仕事を勤めるのもあとわずか。尊敬されるとは思えないが、せめて生徒のために自分なりの誠意を尽くす瞬間をたくさん持ちたいと考えている。

古典の私訳

 古典文学の現代語訳をやってみようと考えている。高校で教える逐語訳でもなく、学者の訳す正確さ至上主義でもなく、作家の恣意的な訳でもないものを追求してみたい。とはいえ、結局は自分の基準によるものでそれが一番というものではない。

 私は研究者時代と教員時代とで古典文学の扱い方を大きく変えた。前者は人とは異なる解釈の可能性を探ったが、後者は誰かが決めた解釈の範囲内に収まるように個性を矯めて時の多数派に属することを求めた。そしてその後者の時間の方が長くなってしまったので、文学作品がまるで大学入試の問題文のようにしか読めなくなってしまった。

 でも、それは文学の読み方は狭める行為である。古典はいろいろな解釈に耐えていまに至っている。いつていさの解釈だけで評価されたならば、もう古典文学の生命力は消えかけているとも言える。だから、敢えて自分の読みを残すことには意味がある。いわゆる名曲がさまざまな指揮者、演奏者によって演じられても価値が失せないように。

 今の仕事もあと少し。そろそろやりたいことを始めていきたい。このサイトにも少しずつ掲載するつもりだ。お暇な方はご覧いだければ幸甚である。