投稿者: Mitsuhiro

エイプリル・フール

 エイプリル・フールに面白い嘘を言ってやろうとはいつも思う。誰かを困らせるのではなく、笑顔にさせる嘘をつきたい。これは実に難しい。

裁判に負けた人が大統領になったり、闇献金の慣習を正すために就任した首相の金銭感覚がおかしかったり、憧れのアイドルが裏でとんでもないことをしていたり、最新の技術で建設されていたはずのビルがものの見事に倒壊したり、この世はまるで嘘みたいなことばかりだ。この虚偽性に勝てる嘘は中々考えられない。

 私はこれまで嘘をついたことがないから、嘘のつき方が分からない。このくらいが今日言えることだろう。嘘の道を極める必要がある。

値上げの春

明日から値上がりする商品がある。アルコール飲料の値上げは痛いが、これは私にとっては自戒にもなるからまだいい。困るのはトイレットペーパーやティッシュなどの生活必需品の値上げだ。生活必需品の値上げは生活を直撃する。チーズなどの乳製品やソーセージなどの加工食品も値上げが決まっている。

資本主義社会では値上げとともに賃上げが連動しなければうまくいかなくなる。それがうまくできていないから経済は停滞する。少子高齢化は確かに大きな不安材料だが、それ以上に金回りをしない仕組みになっていることに問題がある。海外への投資は結構だが、その金が国内に循環しなければ意味がない。富裕層には日本で金を使うことをお勧めする。さもなくば近い将来、多大な損失が出るだろう。

 アメリカが関税をかけることでしか未来を展望できなくなっているのも困ったことだ。資本主義が制度疲労を起こしているというのは間違っていないだろう。この影響もこの後やってくる。国内経済を軽視するこれまでの政策は見直しを迫られている。

自分の目で見ること

 自分が見られる世界は限られている。だから、見渡せる範囲のことを世界と思うのかもしれない。この見渡す範囲は情報機器の発達によって広がったかのように思える。インターネットによる情報の伝達は画面上だけではなく、しばらくすれば五感にわたる様々な感覚をも伝えることが可能になるかもしれない。

 でも、やはりどんなにその技術が発展しても、自分が関係することができる世界はやはり限られている。機器の力を借りて分かったかのようなつもりになれても、それを実感として掴めるのかといえばやはり少し違うのかもしれない。私たちはこのことを忘れがちだ。

 人工知能の発展とともに私たちが直面している世界の捉え方はまた変化していく可能性がある。自分が目の前にあるものを本当に自分の神経とか感性といったもので感受することをやめてしまうのではないかという懸念である。自分の受け取り方は間違っているとか、ほかの受け取り方と比較して劣っているのではないかと考え出すと、もう自分でものを見ることもしなくなる。すると目の前にあるものでも自分では見なくなってしまう。そういうことはもうすでに起きている。

 本当に大切なのは何かを子どもたちにちゃんと考えさせたい。私の課題の一つがそれである。

桜咲き始める

桜が咲き始めた。こうなると次々に咲いてあっと言う間に満開になる。桜の時期はいつも忙しいので、落ち着いて味わうことが難しいが、この齢になるとそれも何とかできるようになる。

 いわゆる桜の名所より、何気なく見つけた町の中の木の方が感動する。ただ桜は思うより手がかかる。以前、借家の庭にあった桜は手入れをしなかったために、虫が湧いて大変だったことがある。

 花の咲くまでにいろいろなストーリーがあったことを想像するべきなのだろう。

桜咲き始める

 桜が咲き始めた。こうなると次々に咲いてあっと言う間に満開になる。桜の時期はいつも忙しいので、落ち着いて味わうことが難しいが、この齢になるとそれも何とかできるようになる。

 いわゆる桜の名所より、何気なく見つけた町の中の木の方が感動する。ただ桜は思うより手がかかる。以前、借家の庭にあった桜は手入れをしなかったために、虫が湧いて大変だったことがある。

 花の咲くまでにいろいろなストーリーがあったことを想像するべきなのだろう。

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ミスマッチ

 普段は組み合わすことがないものを、ふとしたきっかけで一緒にしてみると実にうまくいくという経験はあるだろう。ミスマッチという語の裏の意味はすでに市民権を得ている。

 そういう試みができるのには、余裕と思い切りのどちらか、または両方が必要だ。失敗を恐れず組み合わせてみるか、破れかぶれでやってみるか。成功する確率は低いが、挑戦を重ねた上で獲得したものは大きい。

 ミスマッチから生まれた新機軸もたくさんあったはずだ。民族学でいうブリコラージュのようなものも一種の新しい取り合わせを生む機会だ。失敗は成功の素であり、やってみたらすごかったはよくある話なのだろう。

 ならば、既存の考え方に囚われず、常に試してみるという精神は必要であり、そのように心掛ける必要がある。効率性しか口にしない昨今の状況ではこうしたことは無駄としか考えない。それでは新しい可能性は開花しないのだ。

AIで文章表現の評価はできるか

 生成AIを私はある程度使う。ただ、私の使用領域に関してはAIの能力はいまだ水準以下でそのままでは使えない。例えば古典文学に関する内容は眉唾物というより虚偽と言えるものが多く、使い物にならない。開発に日本人が関与しないとこういうことになる。

 教育界では生徒に人工知能を使わせることについて批判的な人が多い。ただ、教員が勤務時間の短縮のためならば活用すべきだと考える。たくさんの解答に採点だけではなく機械の力も借りなくてはならない。

限られた時間で採点し、返却まで済ませるのはAIの活用が待たれる。いまのところその水準にはないが近いうちに文章の評価や添削までやってくれる機械が生まれそうな気がする。このとき大切なのは適切に指示ができる国語力なのだろう。機械任せにするためにはその機械よりも豊かな言語環境が必要だ。

暑さのせいに

 気温が上がり、汗ばむほどの陽気になった。暑さでいろいろ滞りそうだった。もう少し経てば何でもない温度であっても身体が慣れるまでには時間が必要なようだ。仕事が、うまくできなかった日は気分転換に限る。次はうまくいくと勝手に決めて今日は暑さのせいにする。

立ち回る

 うまく立ち回る人を目の当たりにしたとき、尊敬するときと軽蔑するときがある。すでに立ち回るという日本語には幾分の批判精神が含まれている。だから、私の立場も自ずと知れてしまう。

 いわゆるコンピテンシーについて述べようとすると、どうしても羨望もしくは嫉妬の気持ちが見え隠れしてしまう。気質に比べてコンピテンシーには後天的要素があるとされるが、それでも生まれつきの側面の方が大きく作用するように思えてならない。立ち回る力はなかなか鍛えることが難しい。

 私のように年季がいったものは特にそうだが、要領よくやれと言われてもやれるようにしかできない。何でできないのかとき言われても説明不可能だ。できないからできないというしかない。

 無駄な抵抗をさせていただけるならば、それでも私のやり方はありではないかと言いたいのだ。不器用な人にしか見えない風景を見ることができることは、世の中全体の福祉としては益となるはずだ。負け惜しみ的な言い訳だが。

 ならば、私の立ち回り方は、できない人間が見ている風景を皆さんにお伝えして、できる人の暴走を抑えることにあるのかも知れない。貴方の見ていない世界がある。そんなに世界は単純ではありませんよと、余計なおせっかいを言うことが、私の役目なのかもしれない。