投稿者: Mitsuhiro

重陽節

 新暦の重陽の節句は秋の気分はまったくない。まして今年の場合は残暑というより猛暑そのもので風情も何もない。古代中国では奇数を陽の数としており、一つの数字な奇数の中では最大の9が重なるこの日は逆にあまりに陽が強すぎて不吉と考えられたらしい。その邪気をはらうための行事がこの節句の由来という。

 今年の場合、旧暦9月9日は10月10日になる。その頃になればおそらく秋色深まり空気も変わっているはずだ。この節句に欠かせないのが菊の花である。菊に薬効があるのかは分からないが、重陽の節句に菊の花は浮かべた酒、もしくはそれを浸して作った酒を飲むとよいとされていた。

 何を信じてよいか分かりにくい世の中だが、伝統的な行事は科学的根拠はなくても何か別の意味で大切なものがあることを考えさせる。

説明しよう

先日読み終えた本に気になる表現があった。私の感覚では「なぜなら」という接続詞を使うところで、ことごとく「説明しよう」という表現が使われているのだ。これはある種の語りでよく使われる表現で、不可思議な現象を後付けで有意義にするときに多用されたものである。私の世代では納得するというより、そうきたかという設定の妙を感じさせる言葉だ。




 説明することは自分の言動を理論化することに役立つ。単なる一過的な思いつきではなく、確固たる意見なのだと披露することが説明の本義だ。説明することによって自らの意見の価値が確認できるし、他者を説得することができる。また批判を受けてより良い意見に修正できるきっかけとなる。

 だから「説明しよう」を日常的に多用することは悪いことではない。他者の賛同が得られるか否かは分からない。でも、そのための努力をすることは自分自身にとってもかなり意味があることだ。

 最近はこの説明する努力が軽んじられている。人工知能がもっともらしい説明をしてくれるので、それ以上の可能性を考えることをはなからしなくなっている。「説明」よりも「結果」が優先すると考えられているからかもかもしれない。

それならば私は若い世代に「説明しよう」を流行り言葉にすることを提案したい。自分の考えを他者に認めてもらうことは容易ではない。それによって自らの考えが深まり、他者の批判が強度を高める契機になるのならば、無駄な努力などではないのだから。

直接体験がものを言う

手触りは特別な感覚である。直接触れるということ自体が貴重であり、その場にいるという事実が大切になってきていると言える。

ネットで検索すれば、最近はAIが期待する答えを先回りして答えてくれる。大変便利ではあるが、あくまでも機械がやってくれることなので、達成感は得られにくい。それ以上の知的欲求を喚起されないのだ。どうもこの欠落は情報の知識化を妨げるようだ。

これからの時代にはどれだけ直接的な体験を積んできたのか、それに関わる別の事象を類推できるのかという能力が大事になるかもしれない。経験から培われた感性が判断力を形成する。人工知能にプロンプトを送る際に必要なのはテクニックだけではない。

体験が大切というとこれにもさまざまな問題が指摘される。経験を積めるだけの余裕がある者とそうでない者との格差が出てしまうからだ。豪華な旅行に何度も行ける人とそもそも労働以外の時間がない人では差が出てしまう。

大切なのは経験の表面的な差ではなく、その中から何を感じとるかなのだろう。日常の中からもそれは可能だが、感じたことを言葉にし、記憶に止める力は教育によって獲得できるはずだ。

学歴があればいいというものではない

 学歴を詐称して窮地に立たされている政治家がいるという。詐称することはもちろん良いことではない。無論人を欺いてリーダーになることは許されるべきではないことだと思う。ただ、たとえば政治家に学歴は不可欠なのだろうかと考えれば話は別になる。

 学歴を積んで政治学なり法学なり社会学なりを修得すれば為政者としての資質を身につけることはできそうだ。多くの政治家はこの方法で基礎的な知識を身につけているはずだ。ただ、ならばよい政治家はランクの高い大学卒であるべきかと言われれば、意見は分かれるはずだ。もちろん、誰もが憧れる大学の卒業生ならば選挙で注目されされやすく、当選の確率もあがる。でも、政治家に必要な包容力とか実行力は学歴とは別の要素である。歴史を見てもわかるように自らの能力が低くても、能力の高い人を心酔させ、その能力を政治に活用できるように引き出すというリーダーとしての能力が大切なのだ。

 そもそも学ぼうと思っても家庭環境がそれを許さず進学できないというケースは多いはずだ。学力がないから大学に行けなかったのだと短絡するなかれ。そもそも学力をつける環境がなく、他からのサポートも受けられなかった人はいくらでもいるのだ。その中には自堕落な生活をしている人もいるだろうが、中にはこの矛盾を何とか変えていきたいと願う政治家候補が生まれているはずだ。私たちがリーダーに求めるのは学歴などのいわば過去の栄光だけではない。これから何をしてくれるのかの方が遥かに大切なのだ。

 学歴を偽る政治家がいるのは、それがないと認められないという事実があるからなのだ。人を判断するのは難しい。高学歴、有名大学卒業という分かりやすい物差しに頼ってしまいがちということである。詐称することは許すべきではないが、学歴だけで人を判断することを反省しなければならないと考える。

創作活動?

 脳波を測定することにより、思っていることを映像や音楽、文章に変換する研究がなされているそうだ。鼻歌を譜面にする音楽ソフトは知っているが、脳波ならばもはや歌う必要がない。心地よいメロディーが浮かべば、それがそのまま再現される。

 頭の中に思い浮かんだ旋律が楽曲となり、映像が絵画となり、心中思惟が文章になるならば、その出力のために身につけなくはならなかった高度な技能の修練を飛ばすことができる。誰もが創作者になる手段を得るといこうことだ。

 だが、人工知能のテクノロジーを借りたこの創作方法が果たして作者の作品と言えるのか疑問が残る。AIは既存の楽曲の展開を分析して、合成することで曲を作るはずだ。もちろん人間も同じことをしているのだが、その度合いがかなり違う。絵画や文章もパターン化されたものの組み合わせからなるだろうから、個人の作品と言えるのか分からなくなる。

 恐らく創作の定義自体が変わりつつあるとしか言えない。機械が提案する多くのパターンから何を選び取るのかが、芸術の中心的活動になってきているのだろう。創作とは何かを考えなければならない。とりあえずやってみるしかあるまい。ブログ記事を人工知能に書かせることだけは止めておきたいが。

子どもパイロット

今までで最も家から遠い場所に行ったときのことを聞かせてください。

 距離ではなく精神的な隔たりとしての長距離旅行といえば福岡から東京への小学生の頃の一人旅だろう。父の転勤で福岡市に住むことになった私は、夏休みになぜか一人で東京へ行くことになった。東京には叔母の家があったのでそこを訪ねる旅だ。なぜ一人旅になったのかは覚えていない。恐らく親の配慮なのだろう。

 福岡空港から飛行機に乗ったが、一人旅ということでワッペンを渡された。スチュワーデスのお姉さんがいろいろ世話してくれたのだが、残念ながらこの辺りの記憶が曖昧だ。恐らくとても良い緊張していて記憶の形成を妨げたのだろう。僅かな記憶はそのワッペンを安全クリップか何かで服に付けて、しばらくは宝物のように大切にしていたことだ。

 子どもにとっては初めての経験は負担が大きい。緊張感もあったと思うがこの点も忘却の彼方だ。余計なことを考えない分、案外簡単に切り抜けられたのではないだろうか。飛行機に乗れたことだけで十分満足していたに違いない。

 大人になって一人旅は当たり前になった。どうやって暇を潰そうかということばかり考えて、鉄道も航空機も単なる移動手段のように考えてしまう。子どもパイロットの時のときめきを思い出すべきだろう。それができれば旅はまた楽しくなるはずだ。

脚本家の出番

最近のドラマなり演劇のストーリーはかなり凝っていてかえって生の感動を得られない。これは私だけの感想なので根拠のない言説である。でも、そんな世間擦れした私でも感動のツボに入ってしまうことがある。これを提示できるのがプロの脚本家なのだろう。

私の場合、趣向を凝らした複雑な筋より単純に感情移入出来るものの方が好みである。そのためにはありそうでない展開を組み合わせ、受け手の感情を揺さぶることが求められる。日常の連続のように見えて、少しずつ創作の意図に引き込み、最後に飛躍する。そういう展開は感動しやすい。

人工知能に条件を指定してストーリーを作らせたところ、設定や展開は一応できていたが、感動させる飛躍の幅が大きすぎる気がする。無理矢理結末にもっていったという感があるのだ。この点の塩梅はやはり脚本家の出番なのだろう。

プラス2.36

今年の日本の夏の暑さは平年より2.36℃高く、観測史上最高なのだそうだ。昨日も9月の始まりとは思えない猛暑で気候変動が夢物語のように語られていたことが遥か昔日の感がする。

パリ協定の目標値が産業革命時から1.5℃の上昇に抑えることであったと記憶している。夏だけの日本の観測地とは条件が異なるが、どうもこの人類の悲願は達成できそうもない。僅かな気温上昇が氷河を融解し、海面上昇が多くの人々の生活圏を奪う。誰のせいか分からないが気がついたら、人間が住めない地域が増えていたということがSFレベルを越えて現前している。

ならばお前からエネルギーを節約する生活に変えよと言われても現実的ではない。車に乗りたいし、遠くの産地の美味しい食材もほしい。できる範囲で何ができるのかを考えた方がよいとしか言えない。

いまだに温暖化人為説は陰謀だとか非科学的だとか、地球史的には今後寒冷化に向かうとかさまざまな言説があるが、いまできそうなことを試してみることは必要だろう。

不器用な現実

 結果的にうまくいくということもある。それはそれで評価すべきだと思う。最近は完璧な展開から理想解に達することを求め過ぎている気がする。実社会はもっと不器用なものであり、不規則でもある。

 情報化社会に人工知能の技術も加わって私たちは効率化とか省力化とか、そういう無駄を排除する考え方に染まってしまっている。どこかの成功例を検索してその通りにやろうと思っても、条件がいろいろ違う自分の人生にはそのまま援用することはできない。できないとあたかも自分の能力が劣っているかのように考えて、ますます惨めな気持ちになっていく。

 手本を知らない誰かに求めるのはやめた方がいい。いろいろ違うのにその通りにできるとは考えない方がよいということだ。向上心は身近な目標に求めるべきなのだろう。そして自分を含めた私たちを幸せにする方法を追求するべきなのだ。

 他者を出し抜き自分だけが優位に立とうとするやり方をこのところの社会は奨励してきた。自分の利益になることは徹底的に求めるくせに、対立する考えは無視したり攻撃の対象にする。これではその場では勝てるかもしれないが、結果的に幸福感は持てず、周囲の人も不幸にしてしまう。このやり方に違和感を覚える人が私の感覚だと少しずつ増えてきている気がする。

 目先の利益で行動することが結果的に何をもたらすのかを分かってきたならば、安易に他者と比較したり、非難したりするのが得ではないことに気づく。不器用な現実に立ち向かうならば、それなりの覚悟と寛容さが必要だ。失敗を重ねてその結果ようやくたどり着いた解答が間違っているかどうかはそんなに簡単に評価できるものではない。

食洗機のし残したもの

ファミリーレストランに行くと、価格の安さには驚くとともに企業努力には感心するが、やはり一言言いたくなることもある。恐らく機械で洗浄したものをそのまま客にだす食器類にはよく見ると細かい洗い残しがある。衛生基準的にはクリアしていてもやはり気になりだすとどうしようもない。自分で拭いて使えるようにしている。

 恐らく将来のこの国の姿はもっとこうした傾向が強くなっていくはずだ。おもてなしの国といっても何がおもてなしなのか分からなくなり、機械に頼って省力化して効率化を上げれば成功だとされる。客側の基準も下がり、職人技的な接客は超高級店のみのものとなり、多少の無作法は容認されるようになるのだろう。

 そうならないようになる道はある。人工知能がより高度化されるといわゆる文系的人材はもちろん、理系的な人材の多くが不要になる。彼らが就くのは機械では実現できない人間的な仕事だ。細かな顧客のニーズに対応して、ケースバイケースの対応をするサービス業務が辛うじて生き残る。いまは外国人労働者に委ねている労働の多くも、将来の日本人の働き場所となる。そのためには待遇改善が欠かせない。職人技に対する評価がこれまで以上に高まる時代がくるはずだ。

 逆にいまは高給取りの職の多くが人工知能などに代替される。汗をかかなければ収入が期待できない時代がこの後すぐに出来しそうである。農家や芸術的な工芸職人がエリートになる時代になるのかもしれない。

 恐らくそういう時代に私はもう生きていない。ただ、いまの常識がいつまでも続くとは思わない方がいいとは後輩に伝えたい。