投稿者: Mitsuhiro

梅雨再来

 天気予報によればこれからは梅雨末期のような天気になり、過去に例がないほどの降水があるそうだ。強烈な文言の羅列は最近の報道では珍しくなくなったので、文字面ほどの刺激はない。ただ、今回はかなり注意した方がいいようだ。

 盆休みのシーズンといっても移動自粛要請がある中では盛り上がらない。天候が悪いのは外出を控えろという戒めなのか。ならばほどほどに降ればよい。天災を起こす必要はない。

 人々の気持ちが荒れて来ているのが心配だ。やり場のない憤懣を蓄積している。ここには慈雨をお願いしたい。

現状把握

 このところ新型コロナウイルス感染者の数が非常に高い水準を続けており、数値に対する感覚が麻痺している。以前は3桁になっただけで一大事と考えられていたがいまはそれが目標だ。

 ロックダウンの議論が出てきているがわが国で行われることは相当難しい。重傷者の数が増えているとはいえ、幸いにも私の関係者には一人もいない。つまり深刻さに関する実感が湧かないのである。

 社会生活を止めても予防効果があるのか否かについてもまだわかっていない。接触しないことが感染を予防するという事実もどのくらいならば許容されるのかも想像している段階だ。

 恐怖を拡散する必要はないが、ここらで事実を整理していただくのはどうだろうか。政治家の皆さんは支持率低下の恐れがあるが、ここは勇気を出していまできていることとできていないことを明らかにしてほしい。現状を把握できれば無謀な行動は抑止できる。そこから国民の行動は決まってくるのだろう。

IR

 横浜市長選挙の最大の争点はIR建設の是非にある。現市長は推進派であるがいかなる結果になるのだろうか。市民ではない私に発言権はないが何とか建設を阻止していただきたい。

 IRがもたらす経済効果はかなり大きいらしい。継続性もある。税収を上げるには最適解かもしれない。ただ耽溺性の高いカジノをなぜ横浜に作らなくてはならないのか。財政面以外の理由が見つからない。

 他の発想をしてほしい。横浜のような潜在的資源のある地域が取るべき方法ではない。どうしても作りたいならば、無人島にでも作るのがよい。環境破壊をしないと誓って。

勝手な共感

 運動不足快勝のため近くの公園を走っている。周回できるように設計された走路にはさまざまなランナーが通過していく。私もその一員となって重い身体をゆする。

 走っているうちに、勾配差し掛かって苦しくなったりら周囲の視線が気になってペースをあげたりする無意識のローテーションができる。それをおそらくトップランナーも味わっているのだだろうと勝手に考える。

 そういう思い込みが身体を前に運ぶ。これはなんなんだろう。私は重い身体をじたばたさせながらいつもこういうことを考える。

オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

スポーツの不思議

 私たちはスポーツをしたり、見たりするときに不思議な気持ちになっている。それは、自分が置かれている現実のかなりの要素を無視して直前の現実にのみ集中できているということかもしれない。

 草野球でもなんでもいい、バットを持ったときはただ打つことだけに集中する。そしてヒットを打てば単純に喜び、掠りもしなかったときは悔しがったり、相手の投球の凄さに感心する。そういう素直な反応はスポーツという枠組みの中においては素直に行える。

 それが社会生活ではどうだろう。様々利害関係の中で、自分の行動が如何に評価されるかということをいろいろな方向から考えてしまう。様々な言い訳と、その後の対策について考える。失敗が許されず、失敗した人に手を差し伸べることもしない。それが現実社会だ。

 オリンピックのような高度な競技レベルでなくても、私たちはもっとスポーツをするような気持ちを持つべきなのかもしれない。勝つこともあれば負けることもある。負けてもまだ次がある。そういう考え方ができれば救われることがいくつもあるのかもしれない。

台風が接近中

 東京は朝から曇天である。風はないがかなり湿度が高い。南海上を台風が通過するらしい。

 オリンピック開催中は台風の通過は少ないと考えられていた。最近の気象は過去のデータがあてにならない。これまでそうだったとしてもこれからも同じかどうかまったく分からない。

 海外からこのサイトをご覧いただいている方もいらっしゃるらしい。少なくともデータ上は世界の各地からのアクセスがある。だから、念のために書いておくが、日本の台風は結構恐ろしい。あまりに頻繁にある現象なのでそれなりの対策はあり、滅多に被害はないがそれでも毎年災害が発生し、犠牲者も出る。オリンピック選手はまず安心だろう。

 日本はいろいろな場所に人が生活し多様な生活をしている。それが日本の文化を豊かにしている要因の一つだ。台風や地震にも負けることがない、健気な民族の暮らす場所なのだ。

敬意

 相手に敬意を払うということは自尊心がなければなかなかできないことなのだろう。相手を罵倒したり、自分の優位ばかりを主張する人が増えているような気がするが、どうもその背後には自分の存在に対する自信のなさや他と比較されることへの恐れがあるように感じられる。

 いわゆるヘイト的行為を繰り返す人に共通するのは自尊心のなさだ。何らかの集団に帰属していることをみずから確信している。つまり、自分は一人ではない、もしくは自分と同じような考えを持つ人が多数いて当たり前だと考えているようだ。

 敬意を持てというがそれはまずは自分の今の位置を顧みることから始めなくてはならない。自分の置かれている環境が分かれば、他者を無根拠に軽蔑することはできないだろう。

開催国の誇り

 東京オリンピックは無観客が前提となっているため、テレビやネットを通してしか見ることができない。これならば他所の都市、他の国の開催と変わることはない。海外の方々が東京オリンピックにどれくらい関心を持っているのか分からないが、東京にいても大会が見られないことの悔しさだけはお伝えしておきたいと思う。

 開催国として日本の選手が好成績を挙げていることは喜ばしいが、他の日の記事に書いたように私はこの大会にナショナリズムを持ち込みたくはないという立場である。同じ言葉を話す選手が活躍するのはうれしいが、あくまでそれは個人の努力によるものであることは忘れてはならない。

 開催国としての誇りを持てるとしたら、様々な記録を東京大会で更新することができるということにある。世界新記録が生まれると、選手の努力に報いることができたという事実に開催国の国民として誇りを感じる。また、東京で史上初のメダルを取った国があれば、それも誇りだ。できれば日本の選手に栄冠を取ってほしいが、そうでなくてもいい。競技するための最高の環境を提供できたことを誇りとしたい。

芸術の目

 情報技術の発展により、知識やスキルはあっという間に共有され、結果として便利だがつまらない世の中を作っている。こういう状況に今の日本は対応できておらず、イノベーションも起こせない。だから、敗北感と閉塞感が募りる。考えてみよう。日本文化で世界的な評価を得ているものは独創性に富んだものであり、多くはそれ以前の伝統に根ざしていえる。アニメが江戸時代以前の日本の絵画と地続きなことは例えば浮世絵を見れば想像がつく。

 ゲームの世界の背景にある漫画やアニメの世界は、組織的なくびきから逃れてきたアウトロー的な存在であり、その中には反社会的なものやエログロ、ナンセンスも許容されてきた。その寛容性から新しいものが生まれたのだ。こういう風土は作ろうと思って作れるものではない。管理しようとすればますますつまらないものになる。多様性の中に可能性を見出すことをしていかなくてはならない。多くの駄作の中に光るものが出てくるのだ。駄作に分類したものも実はそうではない可能性もある。

 情報技術は芸術の世界にもさまざまな利益をもたらしているが、逆に大切な要素を削ぎ落としつつある。作品はこうあるべきだという価値観を共有することは、逆に言えばそれ以外の可能性を見えなくしてしまうのだ。そのためには芸術活動をしている皆さんには自分の創作を信じていただきたい。また多くの人が芸術家を、それができなくても創作活動を目指すべきだ。芸術の目をもつことが今後の世界を救う方法だと確信している。