少年サッカーのコーチを見る機会があった。小学生の男の子たちが大半で、女の子もいた。
コーチは乱暴な言葉を使わず、具体的に何をすればいいのかを指示する。ボールを頭より高く蹴り上げてみよう。どうしたら上がるのか、その力ぐあいを覚えておこう。できた子どもには賛辞を送り、できない子にはさらに言葉をかける。できなくても続けさせ、明日はできるようになるという。
彼らの方法には学ぶべきことが多い。ボールを蹴るのはあくまで子どもたちだ。それを蹴らせることにコーチの存在価値がある。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
少年サッカーのコーチを見る機会があった。小学生の男の子たちが大半で、女の子もいた。
コーチは乱暴な言葉を使わず、具体的に何をすればいいのかを指示する。ボールを頭より高く蹴り上げてみよう。どうしたら上がるのか、その力ぐあいを覚えておこう。できた子どもには賛辞を送り、できない子にはさらに言葉をかける。できなくても続けさせ、明日はできるようになるという。
彼らの方法には学ぶべきことが多い。ボールを蹴るのはあくまで子どもたちだ。それを蹴らせることにコーチの存在価値がある。
今日は単なる空想である。オリンピックが無観客試合となったのは残念だった。そこでコロナ禍収束後のイベントとしてこんなのはどうだろう。
VRの技術を発達させることが条件だが、東京オリンピックの映像をVR化してしかも実際に競技が行われた会場で投影する。あたかも本当の競技を再現したかのような錯覚が得られる。それだけでも観戦できなかった無念さを癒やすことができるかもしれない。ほんの少しだが。
そして、本当の競技もするといい。同じように優勝できる人もいるかも知れないが多くは新しい勝者が誕生するだろう。それも面白い。私達はスポーツを見ることで、しかも同じ時空を共有することで感動を得る。実は勝敗は二の次だ。懸命に勝利に向かって戦う人と心身の同化が一瞬でもできればいいのだ。
東京オリンピックではそれができなかった。メディアを介して疑似的に行うことはできても現場にいなかったということは大きい。せめて東京オリンピックを再現することができればいい。もしそれを複数おこなえば、運営費補填にも僅かな貢献ができるのではなかろうか。
日本の文化は閉鎖的だと表現する人がいる。恐らく正解であり、間違いだ。結果的には大きな間違いだ。
日本にはユニークな文化現象が数多く見られるという。独自、唯一無二というのは言いすぎかもしれない。どの地域にもそういった特徴がある。ただ、かなりユニークであるのは確かだ。その意味では閉鎖的な一面があるかのように思える。
気をつけなくてはならないのは日本文化の特徴としてあらゆる局面で融合という過程に持ち込んでしまうことがある。有形の文物もそうだか、思想や制度にもそういう面がある。敵対的排除というのが少なく、取り込んでしまうのだ。
変わっていくことがこの国の特徴だと評する人は多い。不易流行などという人もいるが、流行の占める範囲がかなり多いといえる。変わらない何かがあるという幻想がようやく国民性を支えている。
だから、決して保守的ではない。また、意図的に革新を求めているのとも違う。百年後の「日本人」はいまとは姿かたちも考え方もまったく違うかもしれない。でも、相変わらず日本人論を展開しているだろう。百年前の先輩がいまの我々に対して考えたかもしれない予想と同じように。
オリンピックは終わり、パラリンピックも無観客開催に決まった。興行としてのオリンピックはかなり危機的な状況であり、今後の経済状況が懸念される。会場のいくつかは取り壊されると聞いた。せめて次の大会の前までは練習および国際試合の会場として活用してほしい。もっともこのウイルス騒ぎが収まったならばということになるが。
準備期間にはレガシーという言葉が流行った。長期的に使える施設を造るという意味だった。物理的な社会財はいつまで使えるかあやしい。むしろ維持費の問題で早めに消え去るのが世の常だろう。メイン会場だった陸上競技場の維持費が年間24億円であり、補助グラウンドがないために国際大会には使用できないということが問題になっている。そんなことは始めから分かっていたことだ。これを活用するためには多目的に使っていくしかない。専用球場に慣れつつある日本人がプロスポーツを楽しむにはいろいろな意味で使い勝手が悪いらしい。神宮球場や秩父宮ラグビー場の改修も計画されていたと思うがどうなるのだろう。
使わないよりは使った方がいい。立地条件はいいので、スポーツ以外のイベントも何でもやるしかあるまい。競技場という名前もいっそのことやめて、イベント会場として使うのがいいだろう。レガシーになるためには固定概念に縛られないことが大切だ。そこで新しい文化が始まれば本当の意味でのレガシーになる。
西日本の大雨はまだ続くようで心配だ。この時期の天気ではない。
降り続く雨量が記録的なものになりつつある。一部地域では年間降水量の半分が1週間て降ったという。異常という域を超えている。
天災は避けられない。ただ、被害を軽減する努力は必要だ。また、困ったときは助け合う。それがこの国に住む者のさだめだ。
京都をはじめいつくかの地方で送り火の行事が行われる日である。この状況だから実施は難しいだろう。ただ、行事の意味は考えておきたい。
盆行事の中核は先祖の霊魂を招き、時間を共にすることであるという。遠来の祖霊をもてなした上で今度はまた送り返す。それが日本人の考えの基底にあるのかもしれない。
そう言えば東京オリンピックの開会式や閉会式もこの考えに沿って考えると分かりやすくなる。死者への鎮魂というモチーフが何度かあった。なにしろ盆踊りまであったのだから。
祖霊を祀ることは現在の生活の反省でもある。私自身この盆に何もできていないことを反省している。それが何かの歪みをもたらしているのではないかと。
終戦記念日の今日、日本各地は大雨で非常に不安な状態にある。すでにかなりの犠牲者が出ており、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりだ。朝から携帯電話に避難指示のエリアメールが警報音とともに届いている。
その中でも私の住む街でも正午に太平洋戦争の犠牲者に黙祷をささげることを勧める街頭放送が流れてきた。2021年は終戦から76回目の記念日にあたる。先ほどの放送にもあったが、二度と戦争が起こらない平和を願うという文言に反して世界ではいまも戦争が続いている。日本では戦争は起きていないが、平和の価値を観念的にしか理解できない世代、ー私もその一人だー が増えている。
ある番組で沖縄戦に向かった戦艦大和の駆逐艦雪風の元乗組員だった方の経験を知った。敵戦闘機に襲われた時の恐怖や、反撃の機銃を撃ち続けているうちに人間的な感情が消えていく経験の恐ろしさ、大和沈没後の人命救助の際の悲惨な状況など、90代のその方にはいまだ鮮明にその状況が思い浮かぶというのだ。
終戦記念日という言葉に安心してはいけない。戦争は終わっていない。終わったと思ったときにまた始まってしまうのが戦争なのだろう。この連鎖を乗り越える叡智を身につけなくてはならない。
梅雨末期の天候にいきなり戻り、気温も低下している。決して低くはないのだが、これまでの異常な高温と比較すると寒冷にさえ感じる。私たちの体感はあくまでも相対的なのだ。
これは人間の宿命なのだろう。何かと比較することでしか表現できないのだ。基準をどこに置くかで見え方はまったく変わる。自分が目にする風景が必ずしも万人に共有されている訳ではない。
天気の話は分かりやすいが、世の中の多くのことはもっと複雑だ。相対的に物事を考えるのは体感温度と似ている。恵まれている人が少し不自由になると、不幸を感じる一方で、努力してようやく勝ち取った何かを幸せに思うこともある。それが些細なことであっても。
今を基準にして未来を考えること自体は悪いことではない。ただ、ときには生活の地平から離れて冷静に自分を見つめる必要もありそうだ。
東京オリンピックをめぐって様々な善意の報道がある。選手同士あるいは選手とスタッフ、周辺の人との交流など様々だ。
オリンピックは日本のおもてなしの方法を体験していただき、世界に拡散する機会だった。それがきわめて限定的なものになってしまったのは残念としか言いようがない。
私は日本人が道徳的に優れているなどとは思っていない。ただ、原理原則よりもその場にある人を大切にしようとする心の傾きがあることは事実であり、それこそが現代社会に求められている何かの一つではあると確信する。
国単位に考えることは間違いかもしれないが日本の文化が培ってきたことを世界に説明する意義は大きいと考えている。