投稿者: Mitsuhiro

Another station, another story.

 通勤電車や旅行中に電車に乗るとき、時々思うのは駅ごとに物語があるということだ。それぞれの駅にまつわる歴史があり、その上で人々が重ねていくエピソードがある。

 仮に住まいを今とは別の駅の近くに構えていたらと考えることがある。別の道を歩き、別の店で必需品を買う。別の学校に通い、別の病院のお世話になる。そういうことがいくつも繋がるのだろう。

 この駅の近くに住んていたら、あの駅ならとさまざまに考える。するとそれぞれに違った人生の選択肢の可能性が浮かび、逆に実現しなかったバリエーションが考えられる。本当にこれで良かったのかという反省も起きるが、もしかしたらこうだったかもしれないと考えるのは楽しい。

 駅はそういう可能性を想起するためのきっかけであり、テレビのチャンネルのようなものだ。

花水木

 通勤の途中の街路樹である花水木が見頃になっている。歌謡曲で有名になった割にはこの名を知る人は多くはない。

 花水木の花にみえる白や桃色の部分は萼なのだという。蘂のように見えるのが実は花でそれだけ見ると地味だ。アメリカヤマボウシとも言われ、かつて日本がアメリカに桜を送った返礼として渡来した。今は各地に広がり、自治体の花木となっている事例も多い。日米の友好のしるしだったことになる。

 一青窈のヒット曲ハナミズキはよく考えてみると難解な歌詞で失恋の歌とも片思いか、何かに対する鎮魂なのかわからない。そのすべてなのかも知れない。一つの植物にまつわる話は複雑であるものだから。

新緑

緑はいろいろ

 4月も下旬となった。このところ気温差が激しく、今朝も少し肌寒い。ただコートを着けずに通勤できていることを思うとやはり季節は進んでいる。

 通勤電車の車窓から見える緑も輝きを増している。新緑を感じる季節だ。やがて万緑となり、緑陰を楽しむ時候が続く。都会に住んでいても生活の指標はわずかに残った緑にある。さらに躑躅の赤や、花水木の白が輝く。昔のようにウツギやオウチは見かけないが、それでも初夏を感じて心は踊る。

 木の絵を描こうとしていつも失敗してしまう。葉をまとまりで処理してしまおうとするからだ。樹木の緑は一枚ずつの葉の集まりだ。それを忘れると絵は描けない。

見える化

見えるか?

 すでに定着している見える化という言葉にはかなり抵抗がある。可視化と言わずなぜ中途半端な漢語を使うのか。見えるようにするならまだいい。ただそれだと可視化することの重要度が伝わらないのだろう。

 カシカでは意味が伝わりにくいのも確かだ。カシがそれほど市民権を得ていないから、わかりにくい。それで見える化が登場する。

 新しい概念は日本語に置き換えにくい。日本語にぴたりとはまる言葉がなかったり、そもそも概念自体存在しないときはカタカナにして外来語扱いする。コンプライアンス、アカウンタビリティ、コンピテンシーなど私が日々目にし耳にする言葉にもカタカナ語はたくさんある。

 やまと言葉も漢語も離れてしまえば意味の類推力が著しく低下する。それぞれのは語をほぼ一対一で覚えていかなくてはならないのはかなり不便だ。可視と可変、可動と類推可能なのとは大ちがいだ。

 すると私にとって多少気持ちの悪い見える化はまだマシなのかもしれない。少なくとも他国の言葉で代用するのではなく、母国語で説明しようとしているのだから。

自信を持たせる

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 中等教育の神髄は何かと考えたとき私の今の答えは自信を持たせるということだ。何かを判断する、意見を述べるといった局面で必要な思い切りは、一種の自信が裏付けになる。それを保証してあげるのが中等教育の教員の役割である。

 中高生の意見はしばしば矛盾があり、視野が狭い。正論のように見えて実は世間の実情に合致しておらず、本当は成り立たないということもしばしばある。しかし、それをいちいちつぶしていたら現状打破の考えなど生まれ得ない。生徒に接するときにいつも気を付けているのは現状では間違いかもしれないが、将来はこれが標準になるかもしれないという予測をするという心の準備だ。

 年を取ると知識や経験が現状をさまざまに切り取っていく。それは多くの場合有益な生きる知恵となるが、同時にしばしば新しい可能性の機会をそいでしまう。悲しいことだが現実だ。安定的な時代であればそれでいい。しかし、今後の世界はかなり不安定だ。経験則が必ずしも役に立たなくなる。

 そうした時代を生きる世代のためには自ら考える力を与えることが何よりも大切だ。新しいことを考えるには一種の自信がいる。自信を超えた過信もいるかもしれない。学校はその体験をさせる場となる必要があるのではないか。失敗が許され、やり直しが当たり前のように行えるのは在学期間までだろう。もちろん実社会でも失敗は可能であるかもしれないが損害が大きい。間違ってもいいから正しいと思うことを言ってごらんといえるのは教員の特権かもしれない。

 そのためには自信を持たせるための方法を獲得しなくてはならない。教員としてのスキルを再認識する必要がある。独善的な考えを注意深く排し、本人の可能性を伸ばすような指導ができれば教員としての本望だ。自分はできないが生徒にはできる。そういう考えが必要だ。自分の育てている人物は今は未熟でも、将来自分を凌駕する大人物になる。そう信じることが教員の基本的な資質であると信じる。

紙の教科書

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 デジタル教科書に対する不安感は根強い。4月17日の読売新聞朝刊にデジタル教科書全面移行「懸念」86パーセントという記事が載っていた。懸念の原因としては端末の故障や不具合といったハード上の問題が最初に上がるようだが、現場の教員としてはむしろ教育効果の問題の方が大きいと考える。

 デジタル教科書は情報量や検索とリンクした多機能性など可能性が大きい。機器的な故障や、通信障害などは今後改善が進んでいくものと考えらえるし、機器の価格も安くなっていくかもしれない。重い鞄を発育段階の子供に強いるということも軽減される。音声読み上げなどの機能はハンディキャップの克服にも寄与するだろう。

 だが、少なくとも大学に入学する前の子供に万能のデジタル教科書を与えることには弊害がもたらされる可能性もあることを知らなくてはならない。考えるという行為は利便性と必ずしも正の相関関係にはない。すぐに答えが見つかる、わかりやすいという状況は考えるという行為を阻害しまう可能性もあるということである。

 紙の教科書にもいろいろあって、最近の教科書は至れり尽くせりである。かつてなら自分で調べなくてはならないものがほとんど始めから掲載されている。今使っている教科書などはQRコードまでついていてWEBサイトまでいけるのだ。こういう教科書はもうデジタル教科書の一歩手前にある。

 本当は想像力と知的探求心をつかって何もない紙の平面から様々な世界を自分で探し、つなぎ合わせる力を育てるのが教育なのではないか。それをデジタルで近道しようとするのは逆に考えることができない人間を量産することにつながるのではないかというのが私の第一の懸念事項である。デジタル教科書を効果的に使うことはよいが、それだけにしてしまった後の展開は何か恐ろしいものを感じる。杞憂であればいいのだが。

違う頭

違うことをやってみる

 すぐに閉塞感を感じてしまうのは同じことばかりを繰り返しているからかもしれない。違う行動が別の思考を生み出すこともあるのかもしれない。

 最近、何かに行き詰まりを感じている。本当は何が起こるかわからないはずだ。なのにすべてが決まっているかのように感じてやる気が起きない。私の中に定期的に繰り返される悪循環だ。

 長い間同じようなことを繰り返しているというのに、また抜け出す方法が分からなくなっている。恐らく解決策を見つけないままここまで来てしまったのだ。

 恐らくよく言われるようにルーチンを破ることが突破の手立てなのだろう。いつもとは違う頭を使う機会を持ちたい。

減少

人口減少は避けられない

 人口減少が顕著になっているという。東京都も減少が見られた。コロナ禍による首都圏離脱の影響もあるが、構造的な要素の方が主因だ。

 人口減少はこのあとかなり長く続く。子育て支援の政策は一向に効果を発揮しない。子どもは増えず、年寄りは増え、天寿は必ず来る。私も人生の後半にいるのでできることは限られている。

 人口減少は様々な弊害があるという。これまでの国内需要でなんとかやっていくという方法は成り立たない。国際社会でうまく立ち回る必要が出てくる。その準備は大丈夫だろうか。

 ダウンサイジングは難しい。何かを諦めなくてはならなくなる。やめなくてはならないことが出てくると、ついいつも使わないものを捨ててしまう。しかし、使わないと思っていても実は現在の生活を支えているものであったりする。森林の伐採をイメージしよう。森には滅多に行かないがが森をなくすと致命的な問題が出てくる。

 人口減少、少子高齢化は未曾有の事態だ。これをどう乗り切るのか。世界が注目している。

気づかせる方法

気づかせる
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 教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。

 知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。

 教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。

 残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。

 学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。

考え方の癖

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 考え方には癖があるのではないか。その癖を利用すれば効率のいい教育ができるかもしれない。

 新しい学びを始めるとき、私の場合はノートを広げても何も書き始められない。何を書けばいいのかわからないのだ。思考の手順というか、道筋というのが見えていないうちはいろいろな情報がただ並列に広がっていく。思考のテーブルに置ききれなくなってこぼれ出すと学習の意欲が消えて行ってしまう。

 何かを考えるとき、最低限の道順を決めてあると学びが続きやすい。それを助ける役がコーチなのだろう。まずこれをやり、次にこれをやるといった助言だ。自走できるようになったら本人が学びの幅を広げられる。その先はコーチの能力を超えていく。学校の教員ができるのはこの役である。

 ならばコーチは、つまり教員は生徒の学びの癖を知り、学びやすいように助言をすることが職務上の重要事ということになる。そこまで私はできていない。相変わらず、教科書を右から左へと読んで聞かせているに過ぎない。

 教員の仕事は教材を提供して考える空間を作り、最初の二三歩の歩き方を教える。そこに尽きる。考え方の癖は一人一人違うはずだ。それを知ること、そして面談を繰り返すことが学びの発動にはかかせない。しかし、それはできているのだろうか。