投稿者: Mitsuhiro

自己肯定

 ラジオから可愛らしい女性の声が聞こえてきた。曰く、私には才能があるんです、だから私と仕事をすると必ずいいことがあります。冷静に聞くとかなり自信過剰な物言いだ。

 若い世代には自信がない人が多いという。他人からなにか言われると影響されやすく、世間体を気にしすぎる。挫折しやすいなどと。少子化の影響もあって競争の経験が少なく、挑戦よりは現状維持を優先するなどと散々な言われようだ。

 彼らが伸びていくためには適切な自己肯定と失敗を含めた経験が必要だ。先に述べたポジティブなDJもその意味では貴重だと言える。彼女の最初の夢が潰えたときに、それでも再挑戦が可能な社会にすることを私たちは目指さなくてはならない。若い才能を伸ばすことは若くない人々にとっても死活問題なのだから。

少し先

 

未来は分からないけれど

自分に未来を見通す力はない。あればもっとマシな人生を送っているはずだ。ないからいつも時勢に振り回されている。夢や希望を忘れないように心掛けたが、いつも進路変更を続けてきた。そんな愚鈍な者でも感じていた未来がある。

 こどもの頃は当たり前だった買い物かごを提げている主婦の姿が、現代に現れている。エコバッグなどという名前がつき、収納可能なビニール袋だが、この姿が現れるだろうとはかなり前から予感があった。恐らく次は飲み物や液体調味料の量り売りの形態が復活するだろう。

 ブランド品が法外な値段で売られていてもそれを買うことで満足していた時代があった。持っているだけでステータスのように考える人がいた。いまもそのブランド信仰者はいるが若者には少ない。経済的に厳しいこともあるが大量生産で利益を上げすぎたブランド品が、品質やデザインの優位性を示せなくなったことが大きい。数は少ないが価値は高いというものだけが高級ブランドとして認められるようになる。そして長い間使い続けられる。そういうものに価値を感じる時代が来るはずだ。

 我が国の経済力が縮小傾向に向かうことは避けられない。ただし、いまとは別の価値観が生まれ、思うほど貧しくはならないかもしれない。量より質が重視され、質を保つための適度な出費は惜しまないという消費行動が円熟した国家の国民の方向性の一つとなる。

距離感

 渋谷に住んでいたとき銀座は遠いと思っていた。もっと近くの六本木さえかなり時間がかかると思い込んでいた。最近、たまにその地を訪れるとそれらが実は隣接していることに気づいた。

 隣接というのは誇張に過ぎるがそれほど遠くはない。歩いて行ける距離だと知ると少々驚いている。近くに住んでいたときより、離れてからのほうが距離感がつかめたということになる。

 もちろん自分の身体が成長したことや車を運転するようになったことなどは距離感覚に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。ただ、それだけではなく東京を俯瞰する視点が区民でなくなったことによって身についたのだろう。こういうことは多方面にあると考えられる。

みかんの花

みかんの花が咲いている

 近隣の庭木の?みかんの花が満開になっている。ずっと蕾だったのが気づいたら開いていた。その実が目立つのに比べるとやや地味な白い花であるからか気づいている人は少ないようだ。

 花の付き方は良好で今年も多くの結実が見込めそうだ。毎年実がなるのを見ているが木の持ち主が摘果しているのを見たことはない。ヒヨドリやその他の小鳥が甘熟した実をつつくばかりだ。

 毎年、みかん泥棒を試みることを思うが、自制心の方が勝ってできていない。実は相当おかしな味なのだろうなどと勝手な言い訳をつけて見送り続けている。

 ただ、あのときじくのかぐのこのみを見てみたいという気持ちは強い。木もそして自分も健康にあらねばならない。

割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

石楠花

シャクナゲ鮮やか

 近隣の庭で石楠花の花が見頃になった。鮮やかな赤の花である。唱歌に黄昏の色に喩えられたのが有名だが、その黄昏は随分華やかだったことになる。

 躑躅が咲き揃い街のあちこちに彩りの仕切りを作っている。石楠花は群生させるのには向かないのか。独立して植えられていることが多い。主役といった趣きがある。その鮮やかさは確かに目を奪う。

 多忙な毎日が再開した。次は夏まで長い休みは取れまい。折々の花鳥に励まされながら、遅速を恥じて進み行くしかあるまい。

5月病

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 連休が終わると体調を崩す人がいるという。私などは休日の次の日はいつも憂鬱だが、病気という範疇には入らない。逆に言えばいつも半病人だ。

 5月病の原因の多くは生活のリズムの崩れによるそうだ。休みになれた身体がいきなりアクセルを踏むとエンストする。古いたとえだがこれがその本質らしい。だから、連休明けは思い切り連休ボケをかますのがいい。上司に白い目で見られても、エンストよりはましだ。それどころか休養した分、速く走れるかもしれない。監督者は長い目で見てほしい。選手を短期間でつぶすのはあなたの指導力が足りないのだ。

 とはいえ、いろいろと不安になることは多い。まずは焦らず、他人と比較しないことだろう。自分なりのやり方があると信じるべきだ。5月は気候的にはいい。連休で培ったのんびり過ごす方法を維持することが、実は最もよいパフォーマンスを出す方法なのかもしれない。

連休最終日

 あっという間に連休も最後の日になってしまった。遠出はできなかったが何冊かの本を読むことはできたのでよしとしよう。休んでいて気づいたのは日常が多忙過ぎるということと、その中にはやらなくてもいいことが含まれているという事実だ、無駄とは言えないが省いていいものは止めていく覚悟がいる。そう確認したのがこの休みの収穫と言えるのかもしれない。

休めましたか。

都合のいい世界

その機械は現実からの目隠し?
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 メタバースという仮想世界に対してアメリカのメタなどの会社が覇権を握ろうと躍起になっているらしい。とてつもないビジネスチャンスがあるらしいのだ。現実では実現できないさまざまな願望を疑似的に満たしてくれるもう一つの世界を演出してくれるというのだ。

 仮想現実というのはゲームの世界だけかと思っていた。しかし、このメタバースの世界はそのなかで商売を行ったり、教育を受けたりすることができるらしい。疑似的な交友関係や結婚も可能になるかもしれないとか。しかもそれは現実社会では得られない自分にとって都合のいい条件で満たされているというのだ。

 もう一つの世界という言い方は多分間違っている。その世界はたぶん一つではない。個々人が思い描く理想をそれらしく見せてくれるものであるから、人それぞれにメタバースがあることになる。他人との接点を持とうとすると、折り合いをつけなくてはならなくなる。すると共有メタバースのようなまた新たな世界が用意されるのかもしれない。

 こうした都合のいい世界を演出するのは技術力を持った巨大企業だ。前述のメタもそうだが、いわゆるGAFAM(社名変更でこういえなくなったが)などのハイテク産業が新たな世界を構築して商業世界を飲み込もうとしている。日本はコンテンツの面で優位にあるが、それもいつまで続くか分からない。ポケモンもドラゴンボールもアメリカの漫画と思っている人が少なからずいる。私たちはメタバースという新世界を楽しむと言いながら、実は企業にとって都合のいい世界を間借りして現実逃避をしているのに過ぎない。

 メタバースに商機があるのは事実だ。チャレンジする価値はある。ただ、現実社会を捨ててまで没入するべきではない。現実を忘れて仮想世界でいくら活躍しても、それは夢物語に過ぎないのだ。このように考えると、メタバースは宗教にも文学にも見えてくる。現実社会を豊かにする材料としてあるのならば存在価値はあるのかもしれない。

違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。