投稿者: Mitsuhiro

人間としての評価

魅力的な人間とは

 よく言われることだがいわゆる知能指数だけでは人間は計れない。学校の試験のような出題者が予め想定する解答がある問題ならば知能がものをいうが、答えのない問題に関してはそれだけでは対応できない。

 最近、学校に行く意味がないという人がいる。一斉教育をしている日本の学校は無意味だという。学力が高い生徒にとっては退屈な授業であり、低い生徒にも逆の意味で無意味だという。

 確かに従来の講義形式の授業であればわざわざ学校で自分にあっていない授業を受けるより、自分にあった問題集を解く方がよほど有益だ。しかし、この考え方は測定可能な学力だけしか考えていない。

 学びには、自己を制御したり、周囲と調和したりする行動も含まれる。自他を学びに向かわせ、利益を共有する力がいるのだ。これを身につけるのは集団の中に身を置く必要がある。

 学校は知識だけではなく、感情や協同の涵養の場にしなくてはならない。知識の伝達ではなく、伝達される知識に意味があり、それを活用するためには一人ではできないことをしなくてはならない、ということに気づかせること。それが学校の存在意義だろう。

 そのためにはまずテストの点数だけで生徒や学生を評価してはならない。もう少し広範の人間性を視野に入れるべきだ。

記憶の怪しさ

 有名なエピソードに「ショッピングモールの迷子」というものがあるらしい。これは人の記憶が如何に危ういものであるかを物語るものだ。

 成人の被験者に家族から聞いたエピソードとして4つの話を聞かせる。実はそのうちの一つのショッピングモールで迷子になったことがあるというのは実験者が勝手に加えたもので、事実ではない。ところが、4つのエピソードをすべて本当の思い出だと思い込んだ人が全体の4分の1に及んだという。

 記憶は過去だけではなく、現在や未来にも影響を及ぼす。記憶として残っていることが行動の規範になることもあるからだ。しかし、ショッピングモールで迷子になったことがない人が、その経験をもとに何を考えたり行動したりすることがあるということになる。この程度のことなら罪はないが、これをたくみに利用すれば他人の記憶を操作できることにもつながる。

 この実験が知られてから、裁判で過去の記憶を証拠として扱うことが慎重になったという。虚偽記憶とか過誤記憶などと分類される様になったのである。人の記憶はかくして曖昧で移ろいやすい。

 そうはいっても、私たちは記憶の中で生きている。もし、一切の記憶がなくなれば世の中は大変ワイルドになる。安心して歩くこともできない。記憶は私たちが生きる支えだ。

 ならば、この曖昧な世界をどう生きてゆけばいいのだろう。まずは自分の記憶を絶対的だと思わないことだ。他人の記憶も同じだ。その脆くも頼らざるを得ないものをなるべく出し合って、折り合いをつけていくしかないのだろう。これは人が生きることの基本なのかもしれない。

大気の入れ替わり

 気象学的には正しくないのかもしれないが、今日空気が入れ替わるようだ。正確には寒気が到来して、季節が進むのだという。

 この時期になると仕事は一段と忙しくなる。いろいろなことに結果が求められ、その多くは達成できずに悩むことになる。そして、それに妥協しながら冬を迎えていく。そういうことを何年も繰り返している。

 短期的には挫折の連続だが、中長期的には確実に何かを達成できているはずだ。そうでなければ今の自分はないはずなのに、つい今日の失敗ばかりが気になってしまう。

 季節が変わるのはあるいは大切なことなのかもしれない。時間の進行が意識できるし、確実に次の場面に進行したと自覚できる。うろたえることなく前を向くことにしよう。

明日から

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 天気予報によると明日の東京の予想最高気温が23℃、最低気温が16℃という。明後日は最高気温が16℃で最低気温は13℃というから驚きだ。気象庁のデータによると今日の最高気温は29.5℃だったというから、これからは下がる一方ということになる。明日は雨も降るらしい。

 天候が急変したときは体感温度は実際よりも激しく感じられる。明日はかなり寒く感じることになるだろう。汗ばんできていた上着が明日からは身を守る大切なものになる。個人的には暑さよりも寒さの方が性に合っている。しかし、それも程度がある。コロナ騒ぎの中では自由にすることもできない。換気を強制される中で寒さのあまり体調を崩した2年前のことを思い出さなくてはならない。

 季節が変われば感受性も変化していく。気づかなかったことを探し出すことができるかもしれない。

撫子

カワラナデシコ

 なでしこは万葉集でも詠まれている。大伴家持は恋人をこの花に例え、特に大切にしたようだ。

 日本人女性はこの花に例えられることが多い。ナデシコと呼ばれる花は幾つかある。日本の在来種はカワラナデシコとかヤマトナデシコとも呼ばれるもので、鮮やかなピンク色が印象的だ。白に近い花もある。細く分かれた繊細な花びらもいい。山野に自生するが、園芸店でも売っており、鉢植えする人も多い。先に述べた家持には自分の庭に播種したという歌があり、園芸の伝統は古い。

 万葉集の秋の七種にも詠みこまれている。伝統的な秋の花ということになる。繊細そうな花だが、意外に強い。また、完全な自然林には咲きにくく、里山のような環境の方が繁殖しやすい。そういうことも含めて日本女性に例えられているのだろうか。

差別のない国のはずだが

 多くの日本人は自分の国には差別問題はほとんどないと信じている。私もそうだった。もちろん地域的に差別問題が存在することは承知していた。しかし、それは限定的であり、時代の遺物としてやがて消えゆくものと根拠もなく考えていた。

 ところがどうもそうではないらしい。海外からの入国者に対してこの国は非常に深刻な差別をしている。海外からの就労者が低賃金で働いていることは以前から問題になっていた。不法就労も多いらしく、それを逃れるために日本語学校の生徒という立場で入国するらしいのだ。この日本語学校というのがどうも問題がある。

 九州の専門学校の報道は驚きだった。生徒に鎖をかけて拘束したという。いつの時代の話かと疑ったが、我が同胞が外国人にした仕打ちである。日本人は決して差別をしない民族などではない。残念なことだ。

 もちろんこの報道を全面的に信じる訳ではない。誇張もあるかもしれない。むしろそうであってほしいと願うばかりだ。ただ、不景気になって日本人でさえも貧困化が進行しつつある中で、より安価な労働者としてしか外国人を見ない傾向は今後強まる可能性もある。

 日本人は民度が高いとか、高潔とか言う前にこういう不正を糺さなくてはなるまい。これがごく一部の悪質な人の行為ならばいいが、もし他例もあるというならば猛反省する必要を感じる。いまでこそ先進国を気取っているが、今後日本人が海外で同じような目にあう可能性もある。せめて、我が国の態度を改めようではないか。

金木犀

金木犀

 芳香のする樹木として有名な金木犀は庭木としてもよく使われる。この写真は近隣の市の公園に植えられていたもので、かなりの群生になっていた。この花のことを知らない人がいい香りがすると呟くたびに、名前を教えたくなる。この楽しみも今の季節ならではだ。

最後の残暑

 今日も最高気温が30℃近くまで上がった。10月とは思えない暑さだった。予報では残暑の最後のピークは今日でこのあとは少しずつ平年並みとなり、水曜辺りからは肌寒い毎日となるそうだ。

 そうは言っても17時30分前に日没することは確実な季節の進行を実感させる。湧き上がる虫の音に秋の情緒が広がってくるのだ。半袖の生活もあとわずかだという覚悟がまだできないというのに。

 いろいろな秋のを経験してきたが、なぜかその経験は生かされることはない。見事に季節の情感に支配されて、どこかで味わったはずの感動に包まれる。今年もそうなるのだろう。

後押し

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 小学校や中学校の頃の記憶は実はかなり薄れている。自分が中学校の関係者であるにもかかわらず、自らの中学生活は印象が薄い。でも、今でも覚えているのは自分を後押ししてくれた仲間や教員だ。

 人間の記憶というものは残念ながらあてにならない。昨日の朝食のメニューを思い出せないのは決して脳に異常があるわけでない。覚える価値を見出さないものはすぐに忘れるし、忘れたくないこともいずれは消え去ってしまう。これは紙に書いてもビデオにとっても同じだ。記録してもその時の気持ちは消え、記録の読者にしかなれない。

 でも、自分のことを助けてくれたという記憶はなぜが残る。詳細は忘れてしまうが、深い情動というか気持ちの流れというものがいつまでも再現できることがある。私たちの記憶というのはそういうものなのかもしれない。

 教員などをすると、人のためになることをしたいという甘い夢を持つ。知識を授けることで進路を開拓できる力を授けることを目的にする。それも正しいが、勉強は結局は自力で行うものであり、どんなに名講義をする先生に習っても自分で学習しなければ分かったつもりにしかなれない。大事なのは何かに立ち向かうことを後押ししてくれる存在だ。教員でなくてもこれはできるが、教員はそれを職業的にやりやすい立場にある。さらに生徒の皆さんも受け入れやすい。道端の他人よりはアドバイスはしやすいという意味である。

 ならば私たちの仕事はやる気をおこし、困難に立ち向かう勇気を与えることや、失敗したときにそれでもいいのだと慰めることが第一だということになる。私自身、消えた小中学校の思い出の中で、自分を救ってくれた人たちのことは覚えている。中には名前を思い出せない友もいるが、確かに彼らのおかげで今の自分がある。

代弁者

Who is your leader?

 いわゆるオピニオンリーダーという存在が不在になっている今、それでも人は自分の代弁者を探そうとしている。それがどんなに怪しい存在でも自らが代弁者と認めれば、小異は省みられなくなる。これは少し危険だ。

 不安定で不透明な時代にあり、しかも閉塞感が漂う。自分の努力はなかなか報われず、あくせく考えるより、気の利いた発言ができる相手に同調してしまう。そういう状況にいまはある。本当にその人の発言は適切なのか。その発言の背景にあるものはなにかといった基礎的な手続きを飛ばし、巧言令色に飛びついてしまう。

 情報社会はこうしたまやかしを排除できるはずだった。適当な発言をしてもすぐに嘘が露呈するはずだ。しかし、実際はそうではない。情報の洪水の中で個々の見解を吟味することはなくなり、手っ取り早く理解できるコメントを信じ込んでしまう。

 こうした事態はかなり危険だ。心地よい表現はしばしば毒を含んでいる。その時は良くてもそれが蓄積すると社会悪に転じる。独裁者のような存在を生み出した時代はいつもそうだった。現代はそれに近いのかもしれない。

 不器用だが自分で考える人をもっと称えるべきだ。メディアで発言の多い人物の発言を疑うべきだろう。気の利いた発言を繰り返す人物はきっと何か裏がある。彼らは言論で商売しているタレントであることを忘れてはならないだろう。