投稿者: Mitsuhiro

歌枕

 和歌の世界で名所を歌枕という。これは全国各地にある歌に詠むべき地名ということで、平安時代にその概念が確立したようだ。これは単なる地名ではなく、様々な意味が込められている。

 本来地名はある場所を表すストーリーのエッセンスとも言うべきものであり、短い伝説を伴っていたのではないかと考えられている。常陸国風土記の記事を見ればそういう推論があたっている可能性を感じる。地名はその土地の地形や歴史などに由来を持つが、地名となった後は、その地を守護する神のような存在になる。

 地名が記号化した後でもこの印象は残ったようで、王朝歌人が和歌を詠むときにはなんらかの敬意がはらわれていたのかも知れない。それが次第に忘れられ、なぜその地名が歌枕なのか分からなくなったものもある。一方で、地名のイメージが洗練されて実態以上の世界を表すようになったものもある。吉野の桜、龍田の紅葉などは屏風絵の中で高度に芸術化された。

 この古典を学ぶ際に教えられる知識は決して過去のものではあるまい。現代の流行歌のなかに地名が歌われるとき、それは単に地点の名前だけを指すのではない。東京なら東京の大阪なら大阪のイメージが含み込まれている。古代風に語るならば、それぞれの地名に伝説が含まれているということになる。

 地名はいつの時代にも地点の座標にはなり得ない。緯度や経度ではない情報を含んでいるからなのだ。地名を大切にするということはこの点からも無視してはならない。

AI美人

グラビアの美人は子どもの頃からの憧れだ。美人が自分のためだけに微笑んでくれている。そんな思い込みを現実のものにしてくれるのがグラビアの役割だった。

ところがこの神聖な領域がAIに侵略されつつある。生成系プログラムが作り出す誰かに似ているけれども誰でもない美人がグラビアページを奪おうとしているのだ。機械がいろいろなネット上の画像を組み合わせて理想的なグラビアアイドルを生成すると、もう現実の人間は敵わない。

古典文学を学習するようになって美人は時代とともにその基準が変わることを知った。平安時代の絵巻に描かれている美人は下ぶくれの顔ばかりだ。おたふく風邪を美人病と呼んだこともあったという。恐らく栄養不足で痩せぎすばかりの時代においては、ふくよかさは美意識の基準の最上位にあったはずだ。これは日本だけの話ではない。西洋のヌード絵画を見る限り、ほとんどが肥満体だ。肥満すること自体が難しい時代においては希少な存在が美意識に繋がる。

 現代では誰もが肥満体になれる。努力は不要だ。カロリー過剰の食事を繰り返しているうちに立派な下腹を獲得できる。平安時代に生まれたなら確実に美男美女の資格が得られる。

 だから、今の美人は極端にスリムな方に傾く。明らかに健康を害していそうな細さに美意識を見い出す。時代が異なれば憐れみしか感じられない姿を現代では美しいと感じる。メタ認知すればこれは極めて異常だ。

 AIが作り出すグラビア美人はこの伝統的な美人像を根本的に覆す。太っていようと痩せていようとどちらでも構わない。そもそも美意識がないから過去のグラビア写真をデータベースとして多くのアクセスがあるページを無断で借用して合成する。その結果、絶世の美女が出来上がる。

グラビアを見て興奮する前にやらなくてはならないことがある。それは本当に美しいと言えるのか。もしかしたら合成ではないのか。合成はなぜおかしいのか。自分のなかまの誰よりも美しいのにどこか違和感を感じさせるのか。それらを考え直す必要がある。

漢字は書いて覚えるのに

 子どもだけではない。漢字を書けない人が急増している。簡単な熟語をひらがなで書いても恥ずかしいと思わなくなっている。なぜだろうか。

 実証できないが一つの要因に文字を書く機会の減少が関係していることはほぼ間違っていないはずだ。漢字のような複雑な文字は継続的に書く経験を持たなければ忘れやすい。薔薇や叡智のような画数の多い文字は措くとして、日常的に使う言葉の中にも書けない漢字が増えている。

 手書きの文字をほとんど書かないという人は多いはずだ。スマホでほぼ全ての筆記を済ませればペンは要らない。変換してくれるからいいと考えていると漢字自体を知らず選べなくなる。漢字のない日本語はとても貧弱だ。それと同じようにその人の思考も寂しいものとなる。

 大人はぜひ漢字を使う意味を子どもに語ってほしい。そのためにも手書きで漢字を使う機会を作ってほしい。

集中のために

 マルチタスクが苦手な私は職場のなかで少し隔絶した場所に活路を求めている。次々に起きる事態に対応できないから、しばらく別の場所に身を置くことでなんとかしようというわけである。

 少し前ならば協調性のない行動として自ら取らない選択肢であった。しかし、恐らく脳の機能的低下もあって、これまで以上に中断や作業停止に弱くなっている。一度やめたものを復帰するのに能力がかかるのである。

 だから、思い切って自席を離れて仕事することにした。言い訳の仕方もいろいろ考えた。だが、一度やってしまうとあいつはそういう人なのだ認識されて特に断りも要らない。そこでは作業に使うものだけを持っていき、それ以外はしないようにしている。

 これでもう少し仕事ができそうだ。なりふりをかまってはいられない。

タカミネ

 Onceという映画を見たことがある。ダブリンの街角でという副題をつけて日本では公開されている映画だ。ストリートミュージシャンと移民系女性のラブストーリーだ。派手なアクションも、センセーショナルなシーンもない。ある意味純粋な恋の物語だ。

 映画版でミュージシャンの男が弾いているアコースティックギターのヘッドを見るとTakamineの文字がある。日本製ギターなのだ。しかもYAMAHAではなく。映画で見ればお分かりの通り、そのギターは大きな穴が開いており、損傷がはげしい。そのオンボロギターでラブストーリーが展開するところにこの映画の魅力がある。

 私もタカミネギターを持っており、もっとも大切にしている。オンボロになるまで弾き込んでいないのは残念だが。そろそろ出番をあたえてもいい。まだ指が動くか心配だ。

ひとりサマータイム

 信じがたいほどの暑い日が続いている。きょうももしからしたら猛暑日となりそうだ。スマホに表示される気温は朝5時というのに27℃ある。

 そこでサマータイムを個人的に導入することにした。1時間早く始動し、1時間早く寝る。この頃は4時になるともう明るいし、気温も高い。それでも昼間の猛暑に比べるとまだマシだ。寝苦しさもある。そこで早く起きて外に出ることにした。

 鉄道は5時台にならないと動かない。そこで、始発電車に間に合うように出て、終夜営業のカフェでモーニングを頼んで読書する。後は職場があくまで待つのだ。これで学習時間が確保できる。意外にいいアイディアではないか。しばらくはこうした毎日になりそうだ。

猛暑日確定

 まだ6時というのに26℃あるようだ。今日は猛暑日確定である。梅雨前線がやや北にあるためか、空は晴れ、強い陽射しがばらまかれている。

 猛暑日という言葉を聞いたときは極めて異常な気象現象と思った。それがかなり頻繁に起きることになり、熱中症が天災であると認識するようになっている。猛暑日の次の段階の名称も必要になるのではないか。考えるのも恐ろしい。

 幸い今日は屋外の仕事はない。外で働く方は十分に気をつけていただきたい。雇用者には特別な配慮を。長期的にみて人材を大切にする方が利益につながる。

戦争の残すもの

 「戦争は女の顔をしていない」というドキュメンタリー作品を読んでいる。第二次世界大戦においてナチスドイツと戦ったソ連の女性たちの戦争体験を聞き書きしたものである。かなり大部であるが、惹きつけるものが大きすぎて非常に印象的だ。

 ソ連軍には多数の女性兵士やその支援部隊がいた。あまりにも多くの犠牲者がでたソ連軍は女性の動員もせざるを得なかったのだ。ただ、この作品を読む限りかなりの女性は自ら志願して戦地に赴き、中には最前線で戦ったという人もいる。多くは死に、生き残った人たちもその心身が傷ついた。悲惨さは文章からは完全にわからないはずだが、それでも心に迫るものがある。

 女性たちを戦地に向かわせたのは家族を殺された憎しみもあるが、当時の指導者の国民の洗脳も大きい。国家のために戦うことを子供の頃から教えられ続ければ、兵士になるのは当たり前だ。このあたり我が国の歴史に共通するものがある。

 生き残った女性たちの証言は様々でそれが戦争の悲劇を多方面から証すのである。男以上に戦果を上げた兵、同僚の命を何人も救いながらも、同時に多くの死を看取った衛生兵、敵に辱めを受けても屈しなかったパルチザンもいれば、敵兵を憎みながらも怪我の治療をした人もいた。

 戦争はさまざまな悲劇を同時多発的に発生させ、憎しみの連鎖を巻き起こす。敵国だけではなく同胞の仲間からも排除されることもある。だから、やはり戦争は避けなくてはならないのだ。

 この作品の当事国であるロシアがいまも戦争をしていることは大きな皮肉というしかない。現在も多くの悲劇を生産し続けている国があることを傍観するしかないのだろうか。

面白さを伝えられていない

 最近の反省は学習の効率ばかりを追い求め、楽しさを伝えられていないことだ。今の世代には面白さや身近さが大切なのだと最近気づいてきた。方針転換を考えている。

 効率よく上手にやることに関しては最近の世代は非常に長けている。デジタルデバイスを駆使して瞬く間に終えてしまう。ただそれらの多くは作業であり、印象には残らない。過ぎていくだけなのだ。

 本当に残るスキルなり、知識の獲得には先に呼べた自分とのつながりを感じることが必要なのだろう。その表現の一つが面白いということであり、興味や関心を引くということなのだ。

 では、どうしたらそのような教え方ができるのだろうか。流行におもねるのではなく、何か大切な要素がある気がする。それを考えるのがこの夏の課題の一つだ。