月: 2023年2月

トルコ支援

 大地震で甚大な被害が出ているトルコを支援することは日本にも利がある。利益のための人助けは日本人が嫌う価値観であるが情けは人のためならずのことわざに従う必要もあると考える。

 まずは人道的な意味での支援のリーダーシップを取ることだ。地震国としての日本が災害時には助け合うという精神を世界に広めるにはこの機をおいてない。

 次に被災地の情報を収集し、災害時の作業工程を体験し学ぶことだ。我が国には必ず大災害が起きる科学的予知がある。震災は免れないが、被災後の復興の方法を知ることは国益に大いに関係する。

 耐震免震の構造物をトルコに建てることも日本の貢献できる方法だ。東日本大震災でも建築物の倒壊は少なかった。この技術を世界に共有するべきである。もちろんビジネスとして行う必要がある。そうでないと長続きしない。

 震災の多い先進国は少ない。それにはそれなりの役割があるはずだ。トルコやシリアの支援は日本が存在感を世界に示す機会でもある。不況で苦しい毎日だが、禍のあるときには助け合い、自らの贅沢を慎むべきだろう。

小型メモ

 最近は1番小さなサイズのリングメモ帳を持ち歩くことにしている。自分の記憶力にまったく自信かないからである。フリクションペンとともに持ち歩きメモを取る。細かいことは書けないが思い出すきっかけだけでも書いておくといった感じだ。

 と言ってもどの店で何を食べたかとか、下手な短歌の草稿、そしてこのブログのネタになりそうなことばかり書いている。ほとんど有益ではない。

 ただ、メモを取る習慣をつけておくことが大事だという偉い先生の言説を信じているばかりである。困ったことにこのメモをしょっちゅうなくす。スマホのメモは書いたことを忘れてしまう。困ったことである。

人工知能に勝つ

 現時点でもAIの能力はかなり高い。自然な言語で文章を生成する能力を持つ。最近注目されているチャット式のシステムを体験すると、その感がかなり揺るぎないものになる。海外ではこの技術を使って論文を書いたり、絵画のデザインをする人も増え、大学で使用禁止を通達した事例もあるという。

 AIに勝つためにはどうしたらいいのだろう。あっさりシンギュラリティを認めていいものだろうか。

 私のようなものにとってはこの事実は許しがたい。人間には無限の能力があり、機械が模倣しても追いつけない何かがあると考えてしまう。これはほとんど夢に近いものなのかも知れない。

 でも、学校で教えていることはまるで機械と同じだ。もっともこの言い方は間違っている、これまでの教え方をコピーしたのがAIなのだから。ならば、奴らに勝つためにはもっと他の方法を取るべきではないか。

 人間の思考の根本には言葉の意味を考えるということがある。たとえば愛なら愛という言葉の非常に重層的な意味を瞬時に理解し、それらを組み合わせる。また、常に同じ組み合わせではなく、時々間違えていつもと違う取り合わせにする。その中にはこれまでにはない新しい発見が含まれることがある。こんな生物の進化のような非論理的偶然性こそ、人間の思考の大きな特徴ではないか。

 この方面では機械学習は役に立たない。最適解を短時間で出すことを求められているのだから。人間は人間のペースを保たなくてはなるまい。それは間違いを許容し、新しい組み合わせを認める審美眼である。学校ではこれを教えなくてはならない。

 今の敎育がAIの手下になることばかりを推進していることに深い危惧を覚えるのだ。もっと間違えよう。新しいものに敬意を持とう。実はそう教えたい。

翻訳されやすく

 長く続けているといいこともある。このブログは私の日々の雑感を書き連ねているので、そんなに役に立つ情報はない。あくまで一人よがりの考えが並んでいる。それなのに時折、海外からのアクセスがあり、リアクションをいただけることもある。うれしいことだ。

 その方のサイトを訪問すると当然ながらその国の言葉で書かれている。英語ならなんとか読めるが、ロシア語やイタリア語、スペイン語になるとお手上げである。そこで機械翻訳を使うことになる。

 ラップトップのパソコンでブログを読むと、翻訳の提案が飛び出すので、それに従うと大体の意味は分かる。明らかにおかしい日本語は推測で解釈する。細かいニュアンスは読み取れない。これを割り切ればスペインの教育関係者のブログも読める。

 自分の日本語が機械翻訳でどのように訳されているのか心配になってきた。私の文章は多分に生硬、不明瞭なところがある。故意に曖昧な言い方をすることもある。これを訳せるのだろうか。

 そこで考えた。ときにはやさしい日本語を使い、極力機械翻訳でも誤訳されない文章を書くべきではないかと。今日の文章などはそれに当てはまるまい。本当は英語、イタリア語などで書ければいいにこしたことはないが、せめて分かりやすく書くことにしようかと思う。そういう文を書くときは断りを入れることにしよう。

 その前に誤入力、誤変換をなくさなくてはなるまい。老眼にはきつい作業であるが。

観梅

 近隣の公園に観梅に行った。五分か六分といった咲き具合だが、十分に楽しめた。

 毎年訪れる場所だが、ここ数年では人出が多く、なおかつ余裕がある雰囲気がある。コロナ自粛時代が終わりつつあることを表しているかのようだった。

ピッチクロック

 アメリカのプロ野球、MLBでピッチクロックというルールが加わった。これは投手がボールを受け取ってから走者がいないときは15秒以内に投球しなくてはならないというものだ。時間短縮とテレビ等での視聴者拡大のために導入されたようだが、いまのところ改悪のように思える。

 野球が時間がかかるスポーツだということはかつてから言われてきた。ほかの団体球技と違って試合時間の大枠が決まっていないため終了時間が読めない。だから、放送メディアにとっては厄介で扱いにくかった。サッカーやバスケットボールなどある程度終了時間が読めるスポーツにはそれがない。

 投手がボールを受け取ってから、捕手から送られるサインを確認し、自分の意見と照合して投球する。場合によっては気の短い打者をじらす方法をとるため、捕手が待てのサインを出すこともあるそうだ。これで時間が使われる。野球が好きな人はこの駆け引きも含めて楽しむことができる。相撲でいう立ち合いの駆け引きだ。わずかな間を使って相手の調子を狂わす。

 打者もそうだ。わざとゆっくりと打席に入ることで投手の調子を狂わせる。今回のルールでは8秒という制限が設けられ、プレシーズンマッチで遅延行為のため三振という例がすでに生まれているという。だから打者側からの駆け引きも限られてくる。

 ルール変更があるならば、過去はよかったなどと言っていられない。高校野球のようにテンポのいい試合にも私たちは慣れているので、プロがこの方法をとっても違和感はない。ただ、チームが考え、観客に考えさせる戦略的なスポーツである野球の醍醐味が減少したことには間違いない。もっと頭の回転を速くする必要があると言われればそれまでだが、情報処理優先病はこういうところまで侵食してきているのかと考えてしまう。

 むしろ、チームによる作戦を遂行する際に監督の指示をいちいち伝達することはできなくなるかもしれない。フィールドに立っている選手が即座に判断し、次のプレーを決めなくてはならなくなる。組織の在り方が変わる可能性もある。

 コロナの影響で制限されていた様々なことが変わったスポーツ界であるが、これもその一つなのかもしれない。日本のプロ野球でも早晩これに習うことは明らかであり、これから野球選手になりたい皆さんには指示待ちではなく、自主的な思考が必要になると考えていただきたい。

ブランド

 デパートはかつては特別な空間だった。いろいろなものが同じビルの中で手に入るというだけではない。少し高めの価格設定でほとんど割引もしないが、デパートで買ったというだけで満足できる何かがあった。ブロの接客や、高級感のある包装の仕方などがそれを支えていた。

 デパートにいま行くとその感覚は薄い。生活雑貨や衣料や家電の量販店が階ごとテナントとしていることろも増えた。こうなるとショッピングモールと区別はない。一つの建物に限定される分、むしろ大型のショッピングモールよりはるかに見劣りしてしまう。販売員も他とは変わらないので、デパートの優位性というか異空間性というべきものはほとんど失われている。

 デパートがデパートして生き残るにはやはり、この特別意識をいかに演出するべきなのかを考えるべきだろう。ほかにはない商品を扱うという方法もあるが、いろいろなものがコモディティ化している中では高級ブランドも実は需要が少なくなっている。必要なのは買い物空間としてのブランド化である。そこに行くと特別な購買体験ができるという経験を商品化するしかない。そのためには接客のプロや商品選びのプロが必要だ。人件費がかかり、その結果商品の価格も高額になる。でも、量販店や、ネットショップでは得られない特別な体験を演出できれば存在する価値がある。

 買い物という行為そのものに対してどれだけこだわることができるのか。世の中が安く手に入ればそれでいいと考える風潮があるなかで、あえてそれに反する商法を行うことで存在意義を見出せるかもしれない。

侵攻1年

 ロシアによるウクライナ侵攻が今日で1年目になるという。おそらく現地の人たちにとってはとても長く苦い毎日を過ごしているのだろう。当初はもっと短期間に解決するかと思っていたが、ロシアの執拗な攻撃と、それに対抗する国々の軍事支援のために戦闘は長期化し、いまだに解決の糸口は見えない。

 ロシアの立場からすればウクライナ国内のロシア系住民の救済という大義名分があるようだが、どうもそれだけではなさそうだ。資源にあふれるウクライナの国土を少しでも獲得することや黒海の貿易権を確保したいという伝統的な政策もある。ただ、かつてのように国境線の変更は容易ではない。二国間の衝突に見えて、実は親ロシアと反ロシアの世界的対立である。21世紀の世界大戦はこのような形で行われるということなのも知れない。

 国家権力者の暴挙は許しがたい。前線の兵士たちは今日も傷つき死んでいっている。戦争のために経済状態は悪化し、国際的な活躍をするべきタレントの人生の可能性を奪い続けている。芸術やスポーツの方面の停滞も人類にとっては損失だ。もう終わらせてもいいのではないか。

 ここまで対立してしまい、被害を拡大した以上、怨恨はどうしても残る。ただ、これ以上の犠牲者を出さないためにもロシアには停戦に応じてほしい。またウクライナの傷は世界的な援助で癒す必要がある。戦犯国にすべとを負わせるとどうなるのかは第一次大戦で世界は学んだはずだ。

 日本はこの戦争を機に、軍備拡大の方面に進んでしまっている。隣国の急成長や、意味不明のミサイル連射を見せつけられているからある程度は仕方がない。ただ、防衛は武器だけでなく、言論の面でも強化すべきだ。世界に通用する交渉人を育成すべきだ。この方面で世界貢献しよう。

バスを待つ

 バス利用者にとっては当たり前かもしれないが、私のように電車にしか普段乗らない身にとってバスを待つのはかなりスリルがある。

 都会のバスならいざ知らず、地方都市のそれも郊外を走る路線は1時間に一本か二本あればいいほうだ。前に住んでいた町など1日二往復しかなく。朝駅に向かうのと夕刻戻ってくる便しかなかった。こういう路線はざらにあるはずだ。

 すると乗り過ごすという意味が変わる。時刻表通りにバスが来るとは限らないから少し早めにバス停に着き、定刻を過ぎても待ち続けることになる。何かの事情で定刻ぎりぎりにバス停に着き、なかなか来ないときは、もしかしたらもう通り過ぎているのではないかと心配になる。他にハスを待つ人が誰もいないときは特に不安だ。

 こういう来ることは分かっていてもいつ来るのか分からないという存在は人生の様々な場面に似ている。幸せも不幸せもいつかは我が身を通り過ぎる。その中には病も死も含まれる。時刻表は非常に大雑把だが必ずやってくることには相違ない。

 時々バスに乗るときいつもこのことを思う。