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運動不足

 人にものを教えることを仕事にするといろいろなことに気づく。その一つが自分自身の未熟さへの痛感がある。いかに思う通りのことができていないか。それを苦々しく思う毎日だ。

 朝から日の沈んだ後まで働いても、得られないことが多い。仕事が作業として感じられる日は徒労感に苛まれる。こういうときはしばしば失敗する。だからさらに負のスパイラルに陥りやすい。

 何が足りないのかを考えてみるに、やはり業務の効率化を求めるあまり、余裕を失っていることに原因があるとみた。多くの方が指摘されるように軽い運動などを挟むといいらしい。

 こういうことを始めるにはきっかけが必要だ。今日は机上のパソコンに運動のためのブレイクの時間を知らせてもらうことにする。

リテラシー

疑うことも大切だけど

 よく聞く言葉にリテラシーがある。読み書きの基本的なスキルのことらしいが、そういう意味で使われることは少ない。上に何か言葉を冠してそれを理解し使いこなせる力という意味で用いられる。

 情報リテラシーはその中でも大変よく耳にする。情報が商品となっている現代において、情報をいかに受け取り、理解し、活用するかは生活に直結する。現代人は情報交換の手段はたくさん持っている。ただ、それを活用できているかと言われれば甚だ怪しい。

 ソーシャルメディアに実はウクライナでは戦争は起きていないという発言が出た。現地の人からの証言もあるという。たくさんのリアクションががあり、中にはだからマスコミは信じられないと憤るものもあった

 真相は現地に行かなければ分からない。だが世界の報道機関がこぞって戦場を報告している中で、すべてが虚偽であるというのはどうしても無理だ。それに同調してしまう人が少なからずいることに恐怖を感じる。

 東日本大震災のときの数々のデマも記憶に新しい。地震を意図的に起こした者がいるなどと言っていた人もいた。あの規模の地殻変動を起こすためのエネルギーがどの程度いるのか考えた方がいい。

危機的状況にあるとき人は情報の扱いを誤る。それを未然に予防するにはリテラシーを磨くしかない。ただこれが結構難しい。私も偉そうなことを書いているがしばしば騙されている。

 基本に帰って自分の判断力をつけることがまた求められているといえる。

できないことをする人

 自分ができないことをする人に対する賛辞を忘れてはならないと思うことが増えた。その背後にある時間の濃密さを僅かながら考えることができるようになったのかも知れない。

 どうしても自分の能力ではできそうもないことをやってのける人にお会いすると感動することが多い。職人と呼ばれる人の中にはこうした技の持ち主がいる。世の中が効率化や平準化に向かう中で。自分なりの信念を貫いて仕事をする人は特に惹かれる。

 技の裏にはそれを完成するまでの長い努力があり、それを維持するための継続的な意志がある。実はその見えない時間の塊に私は感銘するのだろう。

 そういう人たちが必ずしも評価されていないのが現代の問題点ではないか。もっと正しいものの見方をしなくてはならないとつくづく考える。

3月

3月です

 今日から3月が始まる。私の職にとっては年度末であり、色々な変化が一気にある。

 なかなか終わらないコロナ対策の日々、始まってしまった大国の関与する戦争、花粉症への対応とまずは基盤にある問題を切り抜けなくてはならない。

 それに加えて業務のまとめと引き継ぎ、非定期の案件の対処などやるべきことが多い。何から手を着けるべきなのか。考える暇もないほどだ。

 もし10年前の自分なら残業や休日業務などで切り抜けたはずだ。いまはその体力が足りない。その日できても後が続かない。いまはできることからやる。できなければ諦めるという体たらくだ。

 でも、結果的にはその方がいいのかも知れない。ゴールを欲張らず、大切なことだけを完全にしたほうがいい。そう考えることにした。

理想的な第2の職

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 そろそろ第2の人生を考えなくてはならない。私の場合すでに大きな転職を経験しているので実際には第3の職かもしれないが。

 私はもし経済的な支えが担保されているならば、地方に住み、才能があるが経済的な困難を抱えている子どもに希望を与える職に就きたいと思っている。志を同じくする人がいればその配下になることも厭わない。日本は教育立国であり、それがなくなればすぐに滅びていく。現在の「先進国」気取りはすべて先輩たちの努力の賜であり、その恩恵で我々はかりそめの優越感に浸っている。

 お客様気取りでサービスばかりを要求するようになってしまったいまの日本人には教育が最後の砦だ。もちろんエリート教育も大切だ。しかし、恵まれた環境になくても学問さえ積めば現状を打開できる。利他的に生きることでみなが幸せになれる。そのリーダーを養成するということは何よりも大切ではないか。

 現在の自分は日々の生活に追われ、夢や希望を大切にせよと他者には語りながらも、自身は挫折感に日々苛まれている。まずはこれを変えたい。私には資金もないし、若くもない。これから何かを始めるにはあまりにも条件が悪い。だが、それでもできることはあるはずだ。

 そういうことを実践している方がいれば、お話をお聞きしたいと思っている。そろそろ次のことを真剣に考えなくてはならない。まだできる挑戦はある。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

筆圧

万年筆のすすめ

 私は決して字が上手くはないが書くことは好きであり、手書きする機会は一般の人よりは多いほうだと考えている。最近、痛感しているのは筆圧が肝心であり、それを意識するには万年筆で書く機会を作ることだということだ。

 筆圧を調節することは意外に難しい。鉛筆やボールペンなどは筆圧の加減をあまり意識しなくても書ける。ただ、多くの場合筆圧が強すぎると筆先の制御が難しく意図した字画が書けない。結果として下手な字と認定されることになる。

 筆圧に敏感な筆記具を使うようにすればこの事実に気づくことができる。一番いいのは毛筆だろうが、すぐには用意できない。筆ペンもよいがいつも筆ペンを使う人は少ないだろう。万年筆はその点、日常使いができるのでよい。日本のメーカーが作っているものの中には筆のようにしなるペン先を持っている製品もある。

 万年筆で字を書こうとするといつもより力を抜かないと上手くかけないことに気づく。すると、いつの間にか力が抜ける。この感覚を他の筆記具でも援用すると思い通りの字画が書けるような気になる。これが大事だ。

 安い万年筆もたくさんある。インクが途切れず出るものであれば、上記の目的は達成できる。私がようやくたどり着いた境地だ。

再起

再起はいつでもできる

 日本ではいまが入試のシーズンだ。すでに受験が終わり、結果も出たものもあるかもしれない。その中にはうまくいかなかったものもあるかもしれない。私もそういう経験をいつくも重ねているので、それなりに残念な気持ちは理解できる気がする。もちろん本人でないと分からないことのほうが多いはずだが。

 試験の結果は人生の方向を変える。それだけに結果にこだわるのだ。でも、よく考えてみれば方向はその時に変わっただけのことであり、それでも前に行きたいのなら行けばいいのだ。隘路は少々進みにくいが目標がもっと遠くにあるならば辿り着けるかもしれない。

 別の向きを見たことで開ける風景もある。あるいはそちらの方がよかったということもしばしばある。多くの場合、それは後になって気づく。

 試験の結果を人生の分岐のように言う人は多い。以上のような訳でそれは半分正解で半分は当たっていない。落ち込むより次を考えた方がよい。試験ですべてが決まるような時代はかなり前に終わっているのだから。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。

自分のために

 オリンピックの長所は国や地域の一体感を実感できることにある。選手に自らの共同体の代表という意識があり、仲間のことを思う意識がある。これは同時に短所にもなる。

 成績が伸びなかったとき、失敗してしまったときなどに必要以上責任を感じるのは止めた方がいい。わざと手抜きをしたならばその責めを負うべきだが普通はそのようなことはない。勝敗は時の運であり、勝つ人がいつも勝つとは限らない。

 まずは自分のために競技をするべきであり、外部がどう言おうと気にしないことだ。口さがない発言をする人ほど実はさほど深く考えていない。刺激的なことを言った事自体に自己満足しているのにすぎない。それに付き合う必要はない。

 スポーツの話だけではない。失敗に寛容な社会を作らないと衰退してしまうということはそろそろ多くの人たちの共通理解になってもいい。最近、失敗を嘲笑する人が増えているように思う。

自分のために走るべきだ