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音読のすすめ

昔から言われていることだが、音読には一定の効果がある。受験生の頃を思い出してほしい。頭の中で記憶しようと思ってもなかなかできないが、声に出してしかも声量をあげて読むと頭に入ることがあっただろう。これは個人的なものかと考えていたが、どうも科学的にも証明されているらしい

国語の教員の立場でいうと受験世代の古典学習にはとくに音読をお勧めしたい。古典文法は覚えるまでは結構面倒だ。なに活用のなに形かなどという試験を出されて嫌になってしまうことがあるだろう。それで古典を嫌いになってしまったならばもったいない。文化的には国家的損失だ。

声に出して読もう

文法の約束を覚えることはもちろん大切だが、その前に音読を繰り返しておけばある程度は感覚的に読むことができる。口と耳が覚えてくれるという比喩は言い過ぎではない。英語学習でも聞くことと話すことが大事だと言われる。それと変わらない。英語はその気になれば街中に溢れているし、メディアからも流れてくる。古語はどんなに探してもそれを話す人は周囲にはいないだろう。ならば自分が発声するしかない。

受験の必要がない私のような世代の方々にも日本語の文章を音読することをお勧めしたい。特に名文と評価されている文章や、古典文学の文章の音読は意識的に行っていただきたい。日本語のあり方を考える基準になるだけではなく、自分の表現方法を見つめ直し磨き上げる良い方法だ。その他、いろいろな効果があることは先に引用したサイトの情報を参照されたい。

手元に中学や高校の教科書があればそれがいいと思うが、それがなければ好きな作家の文庫本でも一冊買って音読するといいと考える。古典に関しては個人的には読みやすく面白く、平安文法でもその後の時代の文法でもなくいわゆる日本の古文の標準の文体を持つ「徒然草」がいいのではないか。細かい意味は分からなくてもいいので、声に出して読むことだ。昔の言い方で言う素読をおすすめする。

コロナの時代で声に出すことが忌避される風潮にあるが学習に関しては声出しは意味があると信じる。社会的距離を保った上で音読する学習者が増えることを望む。

自称語

 古典を読んでいると自分の名前を一人称として使う例がたくさんある。ごく普通のことだったようだ。この言い方には実は隠れた効果があるのかもしれない。

 現代において大人が自分の名、それもファーストネームを使って一人称としたらかなり奇異な感がある。教養がないか、自意識過剰なのではないかと考えられるはずだ。その前に失笑されるに違いない。私たちにその習慣はない。幼い子どもを除いて。

 一方で別の意味から自分の名を自分で呼ぶことを推奨する場面がある。苦境に陥ったとき、自分を励ます方法として。自分の存在をメタ認知して俯瞰した自分から眼下の自分対して呼びかける方法なのだという。

 ドラマの登場人物などが台詞としてそのように言っていることはよくある。でもいざ私にもできるかと言えば、何かどこかに抵抗がある。

 自分の名前を読んでみる練習がいるのかもしれない。はじめは違和感ばかりだがそのうち自然に言えるはずだ。おそらくそれが天上の自分が完成したことを意味するのだろう。少し試してみたい。

煽るだけではなく

 オミクロン株の爆発的な感染は身近に迫っている。知り合いの中にも感染したという人が増えてきた。以前はニュースでは騒いでいるが周囲にはいないというレベルだったが、今は身近な危機である。咳がでるたびに自分も感染しているのではないかと思う。精神的にはすでに健康ではない。

 などと書いてしまうと、この文章の趣旨と異なってしまうが、あまり危機を煽りすぎるのは問題だといいたい。確かに未知のウイルスの展開には注目していかなくてはならないが、すでにその道を歩いている以上、これ以上脅しを入れても意味がない。ぬかるみはあってもしっかり歩けば必ず次の場所に着くのだということを確認していかなくてはならない。

 マスメディアは煽りの記事でアクセスを増やしている面がある。また個人のソーシャルメディアも不安を垂れ流すことで、その周囲もまた不安に陥る。不安なのは確かだが、それ以上の希望も積極的に発言していかなくてはなるまい。

 近年、不安が遠因となったと考えられる凶悪犯罪が散見されるようになっている。罪は憎むべきだが、それを醸成している世情にも原因を考えるべきだ。長い平和の期間に私たちの耐性は落ちている。もっと大変な環境で生きている人々はいる。

笑うことも必要だ

 やせ我慢も大切だろう。そしてそれよりも明るい方面を開拓するものの考え方も身につけていかなくてはならない。苦しい時こそ笑顔になれとは先人の教えだ。そういえば人を笑わす技術というものを教える機会はほとんどない。教わるものでもないかもしれないが、何もなければ生まれないのも確かだ。もっと笑いに注目してもいいのではないか。もっとも、誰かを笑わさなくては減点などというシステムができたら本当に笑えなくなるが。

脳の体力

 昨日まで何度考えても分からなかったことが、今朝ははっきりと理解できる。そういう経験がたびたびあるようになった。特に近年はその経験が多い。

 悪戦苦闘して結局答えが出なかった経験は、よく考えてみれば午後のことが多い。最も仕事をしなくてはならない時間帯に効率が落ちてしまう。

 恐らくその原因はいくつかある。誰でもそうだと思うが、やらねばならないことが複数ある時、個々の事例に対する注意力は低下する。飛び込みでやるべきことが入るとさらに混乱を極める。午後はそうなることが多い。

 加えて、これが一番の要因と考えるのだが、脳の体力の問題である。朝にはあった体力が昼過ぎには消耗している。だから同じことをやっても捗らない。足の疲れならばすぐに実感出来る。それが脳の働きとなると自覚するのが遅れる。脳で判断しているのに脳のことが分からないとは皮肉な話だ。

 だからやはり古人の伝えの通り、やるべきことは朝やるべきなのだ。歳を重ね体力が落ちるとそれを実感する。若い人も恐らく同じだろう。気づかないだけだ。夜の方が捗るという人もいるが、自己暗示にかかっているのだろう。暗示をかける余裕すらなくなった私はやはり朝に賭けるしかあるまい。

もっと簡単に

コンピュータを毎日使う日々が来ることは私が中学生の頃は想像できなかった。一部の科学者とか、特殊な職業の人だけが使うものであると考えていた。それが今は誰でも使う。おそらく一人一台では済まない。多くのコンピュータを使っている。

いわゆるパソコンというものはその中の代表だが、これに関してはいまだに操作が難しい。かつていちいちRUNなどと入力して始めていた頃に比べれば雲泥の差だが、それでもまだ難しいのだ。加えていま高齢者が使いこなせるパソコンがあるかといえばかなり難しい。自分が歳をとって分かったのだが、画面の文字の小ささだけでもう難しくなる。キーを叩くことも障害が出始めると難しくなる。音声認識もしわがれた声でどれほどできるのかが問題だ。

PC操作はいまはできても

コンピュータが人間の要求に答えられるようになるためには一段と開発が必要になるだろう。今はAIによる補完という考え方が主流になっている。衰えた認知力や記憶力、運動機能などをAIが予測して提供するというものだ。これにも様々な問題はあるが方向性としては間違っていない。杖か車椅子のような役割を果たすものを開発していく必要がある。

杖に例えたのは、あくまでも歩くのは人間であるということを言いたかったまでだ。車椅子の比喩もしかりである。あくまでも主体は人間でありそれを補助する道具としてコンピュータが活用されなくてはならない。

化けの皮

 これからは専門が一つという人よりも二つ以上の専門がある人が求められる。ある人が語っているのを聞き、最もだと思った。しかし、専門が二つというのは敷居が高い。

 でも、この専門という定義をどこに置くのかで話は変わってくるのかもしれない。資格があるというのは自分以外の認証であり客観性もある。ただ、自分が専門だと主張すれば専門になりうる分野もあるのではないか。ならば、多少大げさでもいいからこれもできると言ってしまうのも手ではないかと考えた。

 そういうはったりはすぐに化けの皮が剝がれる。しかし、はがれる前にその皮を自分のものにしてしまえば何とかなるのかもしれない。私の職業以外の専門は何だろう。まずは化けの皮を張る所から始めようと考えている。

少し郊外に

 私の住んでいるところは急速に人口が増えている。人口減少の時代に逆行しているのは、都心へのアクセスがほどほどよいのと、鉄道会社のイメージ戦略が成功しているからだろう。私は脱出を考えている。

 確かに便利なのは助かる。ブランド品やそれに準じるお洒落なアイテムも容易に見つかる。ただ、それが本当に必要なのだろうか。もっと大切なのもはないのだろうか。

 通勤の束縛がなくなればいっそのこともっと郊外に移りたい。関東地方である必要もない。そこそこのインフラがあればいい。いまはそんなふうに考えるようになっている。

 そのためには準備と蓄財だ。そろそろ真剣に行動計画を立てることとしたい。

成人

成人の日は私にとってはもう刺激のないものになっている。成人の定義がまったく現実とあっていない。精神年齢的にはもっと上の年齢を設定すべきだと思うし、経済的にはもっと下でもいい。早く独立して稼げるような仕組みもあればいいと思う反面、しっかりと人格形成をしたほうがいいとも思う。つまり成人の境は非常に曖昧で難しい。

日本の少子化は全く収まりそうもない。この後の時代には大量の高齢者がなんとか自活をして生き、そして力尽きていく。若者はその煽りをうけて苦しい生活を続けるか、もしくは画期的な方法でこれまでにない社会を作る。私は後者になると考えているが、そのためにはあまり年寄りが出しゃばらないほうがいい。

Sasin TipchaiによるPixabayからの画像

新成人には申し訳ないがいまの日本では黙っていても幸せになれるような状態ではない。自己開拓で新しい時代を作るしかないのだ。起業独立を考え続けてほしいし、過去にとらわれてはならない。誰も知らないことを始める必要がある。

ただし、踏み外してはならないのは利他的な観点だ。自分さえ良ければいいというのは成人の先輩たちが犯してきた大失敗だ。一見良さそうに見えるが実は致命的な結末がある。他者を不幸せにする方法はすぐに自分に跳ね返る。だから、自分を含めた周囲の人を幸せにするという視点を持ち続けるべきであるし、その範囲を広げていかなくてはならない。

だから独立することがだけが能ではない。場合によっては協働し協力することが必要になる。お互いが目的をもって協力すれば相乗効果でより素晴らしいものが生まれるはずだ。もちろん意志をもった者同士が意見を言い合えば衝突もある。それを乗り越える方法も確立していくべきだ。

みなが幸せになるためには何が必要なのか。今何が足りないのかを考えればそこに自立の緒がありそうだ。実は私自身もそれを常に探している。成人になるというのは社会や世界を考えながら生きるということではないかと考えている。



孝行のこと

古典の世界では親孝行が一つの普遍的テーマになっている。儒教の影響だろう。親孝行は無条件の命題だ。だから若い世代がいかなる犠牲をはらっても親に奉仕することが美徳とされている。

では実際にすべてがその理想にかなった人ばかりだったかといえばもちろん否である。孝行話が称揚されるということはそれだけ孝行をすることが困難であったことの裏返しであったはずだからである。姥捨伝承のような棄老伝説はそれが極端化したものであろうが、現実にはそこまではいかなくても完全な高齢者庇護が実現できるわけはあるまい。厳しい現実がこれまでもあったのだ。ただ孝行が社会全体の徳として認識され、実現できるか否かは別として行動規範として共有されていたことは事実だ。

それでも自然のなりゆきで老人が他界し、後継者がその後をつぐという人生の循環がなされているうちはよい。個々の人生には厳しい局面があるが、社会全体としては安定が保たれているのだから。現代の高齢社会のあり方を考えると、孝行するべき若い世代が極端に少なく、老いていく世代が多すぎる。孝行は理想を超えて、非現実的なファンタジーになっていく。もう孝行の幻想からは逃れなくてはならない。

近世の孝行譚を読んでいると共通するのは滅私の考え方である。自分の快楽を犠牲にしても親に尽くそうとする人の姿が描かれている。それを支えていたのは儒教的な精神環境だろう。今の私達にはその考えはない。それぞれの個人には幸福を追求する権利があると考えられ、誰かのために自分の人生を差し出すことは好まれない。これでは社会はバラバラとなり強者が弱者を踏み台にして利益追求をしていくことになる。現代生活はそれを具現化しているともいえる。

自己をなくさず、自分本位にもならないという選択はあるのだろうか。自分の幸せを追求することはすばらしいと考える段階ではこの道は開かれない。他人のことを考えるより、自分の将来を考えることに精一杯だからだ。

そのためには私達の考え方が進化しなくてはならない。個々人の幸せは一人の幸福追求では達成できないということを知識ではなく行動で実践できるようなるべきなのだ。地球環境の問題はそれを可視化する。自分さえ良ければいいと思ってやっていることが、やがて環境そのものを破壊し、自らの首を占めることになるのだ。

孝行の対象が自分の親だけではなく、地域や共同体、世界全体に及ぶようにしなければ私達は立ち行かないのだということを毎日の行動で示せるようにならなくてはならないのだろう。すでに知識としては獲得できている。しかし行動は別になっている。自分の人生をすべて捧げる必要はないがだれもが自分以外の存在のために何らかの行動を常に続けること。それができるようになれば、人類の歴史はまだ安泰かもしれない。多くの生物が進化に行き詰まり絶滅したことを考えると、人間が同じ轍を踏むことも考えられる。ただまだ分からない。

エッセンシャルワーカー

 コロナウイルス感染者が急増して再び世間は自粛モードに戻ろうとしている。オミクロン株の影響なのか今回は感染力が強いらしく、医療機関従事者の感染も多いと報じられている。最近のキーワードにエッセンシャルワーカーというのがある。どうも社会インフラの基盤を動かす人たちのことをいうらしい。

 医療や福祉、衛生関係の仕事についてはこの定義があてはめやすい。警察、消防なども同様だ。他にも運輸、流通なども含まれる。世の中は相互依存の関係にあるので何がエッセンシャルなのかは実は分かりにくい。

 教員も含まれるらしい。確かに教員の罹患はいろいろ面倒なことになる。特に真面目に教育している教員ほど他に替えがたい。学校が止まれば、家庭にも影響するから、社会にも多大な影響がある。

 誰もがエッセンシャルワーカーだとは思うが、教育関係者である以上、健康管理には留意しようと考えている。

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