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タスク制限

同時にはできません

 マルチタスクを夢見ることは諦めて、一つずつ愚直にこなすことを心掛けたい。人は誰でも多動に向かないというが私は特にこの方面の能力が低い。タスクを制限するすべを考えなければならない。

 いろいろな仕事を同時にこなす人がいる。かっこいい。しかし、これができる人とできない人がいる。私は後者だ。ただ、運悪く私の仕事は基本的にマルチタスクだ。授業をしながら、生徒の生活を管理し、保護者と連絡し、部活動の顧問を引き受け、学校の運営にも駆り出される。教員の多忙さは個々の業務の重さというより同時にいろいろなことをバラバラに、しかも短い期限内でこなさなくてはならないことから生じている。

 だからマルチタスクを完全に拒否することはできない。せめてマルチの度合いを下げることに工夫を凝らすべきだ。やることに優先順位をつけるのがいいと言われる。最近はやるべきことをリストとして書き出し、順番を考える。ただ、それでも飛び込みの仕事が次々に入る。

 マルチにならないための方法は結局仕事を断る技術を得るしかなさそうだ。他の誰かがやることになるのが心苦しいが、引き受けてできないよりは組織としては幸せだ。

分岐

あれこれ考える

 マインドマップの作成アプリを試してみた。自己分析のツールとして、アイデア創出の手段として使われるものである。限りなく分岐していく図を見ると思うことが色々ある。

 考えが分岐するとはどういうことなのか。ある考え方の元に複数の可能性を考えることだ。正と負の関係もあれば並列の関係もある。並列といっても対等な枝分かれもある一方で、枝の太さが異なるものもある。不思議なことにその区別は無意識に行われる。

 脳内のイメージを樹形図に描くことはあくまで手段に過ぎない。実際はかなり複雑である。少なくとも二次元では表現し難い。だが、マインドマップを使うと分かったような気になれるのは確かた。言語化と図式化のもたらすものが大きいからだろう。三次元にすると複雑になり、明瞭さがなくなる。

 考えが分岐する原因は何かを考えることがある。なぜこうもああも考えるのだろう。考えることができるのだろう。その謎を考えることが人間のあり方を考察することに繋がるということなのだろう。

成長

 

育てるとは

 花を育てたり、動物を飼っている人はよく理解しているはずだが、成長の仕方には個体差がある。どれもが同じように育つのではない。人もそれと変わりない。

 育苗の例でいえば、揃わないものを間引くという作業がある。経験上、この時期までにこの段階に達しないものは結実しないといった知識がそうさせる。ただ、それは統計上の確率であって、実際の結果は誰にも分からない。

 人に対しては動植物ほどには露骨に差別はできない。でも、今の時期ならこのくらいできるのは当たり前だという考えが潜在している。できないことに苛立ち、ときに叱責する。でも、成長は個人差があるものなのだ。

 教育を生業にしている身としては至極当然のことであるのに、時々忘れてしまうことがある。だからときに花を見て思い出さなくてはならない。

新人教員諸君

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 今年初めて教壇に立つ新人教員に申し上げたいことがある。私は何事も続かない不出来な人間だが何の因果か教員だけは続いている。男子校、女子高、共学校、中学、高校、短大、大学で教えたことがあるという変な教員だ。あなたの身近にいる先輩に比べると大したことはないが、年配者の戯言につきある勇気があれば以下の文章を読んでいただきたい。

 教員というのは基本的にはサービス業だ。ただ、お客様は神様ではない。後で神様になるかもしれない人材を育てる役割だ。この辺を間違っている先輩は多い。生徒や保護者の言いなりになっている。私はそれは違うと思う。基本的にずるい性格なので、それとわからないように小出しに、本人や親にあなたは神様ではないということを言っている。こういうことが堂々と言えるのは教員だけかもしれない。

 それでもサービス業である限り、自分が頂点であると決して思ってはいけない。あくまでも生徒やその保護者をレベルアップさせるための触媒の役割を果たすべきだ。私はこのことを悟るまでにかなり時間がかかった。教員はそこに喜びを見出すべきであり、安易な自己満足をするべきではない。

 今の日本の教育システムはご存じの通りかなりの矛盾をはらんでいる。多くの生徒を平均的に扱うことを前提としながら、個性の重視などと言われる。これは初歩的な矛盾だ。個性を重視するならば一律に生徒を扱うことは間違っているのかもしれない。私は矛盾の多い社会への適応の機会を与えるのが学校であり、その矛盾の権化が教員だと考えている。制服の着方、髪の色、言葉遣いなど個性を生かせば他人に合わせなくてもいいだろう。でも現状の日本社会ではそれではうまくいかない。国際社会においても決めるべき時に外してしまうと取り返しのつかないことになるようだ。

 自分と気のあう仲間だけで暮らせる世界があればいい。しかし、現実には正反対の価値観を持つ者たちとの共生を強いられるのが社会というものだ。国際社会ではその差異のぶれがとても大きくなる。それでもそこに対応する必要がある。自分が常識と思うもの、正義と信じるものが、他者にとっては非常識な悪徳であったりする。それを教えるのが、正確には体験させるのが学校だ。教員はその現場に常に立ち会う存在だ。

 教員は理想ばかり語るという批判は伝統的なものだ。自分はできないくせに理想ばかり言うのだ。それはかなり当たっている。でも諸君も躊躇なく理想を語るべきだ。今の時代、損得勘定なく理想を言える存在がどれだけいるだろう。教員はその意味では自信家であっていい。

 ただし、自分の理想が必ずしも世間の常識とあっているとは限らない。また間違っていることも多いと心得るべきだ。これは生徒にも伝えるべきことだが、教員に限らず誰のいうことでも正解ばかりだとは言えない。むしろ常に間違い続けていると言える。間違った時には素直に認め訂正すべきだ。それができるのも教員の特権である。

 教室を一人で任されるとつい自分がルールになりやすい。しかし、自分の存在は既述したとおり一個人の意見にすぎないことを忘れてはならない。自分とは違う立場の人間はいるし、その方がいいかもしれない。矛盾しているようだが、理想は語るべきだが、その理想は常に吟味すべきだ。そのためにも同僚とは常に意見交換をした方がいい。話が通じそうもない上司がいれば、積極的に接触すべきだ。異業種の人と話す機会があればもっといい。きっとあたらな価値観を教えてくれるはずだから。

 新人教員の皆さんには長く教員を続けてほしい。昨今は全く人気のない職種となってしまったが、これほど面白い仕事はない。職場環境の改善は少しずつ進むはずだ。あきらめずに続けていけば職員ではなく職人としての教員になれるかもしれない。私もそれを目指している。

キャラ変

新しいクラスでもあなたはあなた

 新年度、新しい環境に変わる時期だ。人によっては自分の立ち位置をどうするかで迷う人がいる。私は結局ありのままの自分を続けるのでいいと考える。

 生徒ならばクラス替えが、社会人でも配置換えや転職で自分の立ち位置に迷うことがある。浮いたらどうしようとか、似たような人がいたらどうするとか迷う。これはいつになっても思うことであり、新人だけの悩みとは言えない。

 浮くとか、キャラが被るとかいうのは結局他人を基準としている。他者の目を通して自分を考えることは間違っていない、ただ、先程の心配は他人は自分をどう見るのかという予想によるもので、いわば取り越し苦労だ。他人がどう思うのかなど誰にも分からない。

 だから無理にキャラ変をする必要はない。他人に合わせるのではなく、自分の存在を他人に認めてもらうことで十分だろう。無理をしても苦しい。恐らく他人はそんなに厳密に人間観察をしてくれるものでもない。なるようになる。

 もし、この際違う自分になりたいというなら試してみてもいいかもしれない。逆はお勧めしない。ただ、苦しいだけだ。

嘘は

嘘もつきよう

 エイプリルフールの日だ。ウィットの利いた嘘は楽しいが冗談が通じない相手がいるこを忘れてはなるまい。

 嘘はどろぼうの始まりという。どろぼうとは悪人の代表のことであり、盗人だけではない。倫理に反する行為だといいたいのだろう。

 一方で嘘も方便とも言う。目的達成のための嘘は場合により許されるという訳だ。確かにこの論理は現実世界にはいくらでもある。近代社会のあり方も、様々な嘘から成り立っている。多数決原理というのも巧妙な嘘が内包されている。

 だから、これは嘘だと明かした上で堂々と嘘を言うことが必要になるのかも知れない。エイプリルフールはその一つだ。

ひらめき

ひらめきは飛んでいく

 突然何かをひらめくことがある。画期的な考えだとその時は思うが次の瞬間には忘れている。こういうことは誰にでもあるのではないか。それを言葉にし、さらに形にできる人は極めて少ない。

 いいとひらめいたことをすぐに書き留められるものがあればいい。私の場合、このブログがある程度その役割を果たしている。ただ、文に整形する間にどんどん大事なことが抜け落ちている。そもそも言葉にならないものを言葉にする時点で取捨選択がなされ、バリのような部分が削ぎ落とされてしまう。

 ひらめきを形にしたものはときとして難解で稚拙に見える。しかし、それを恐れてはいけない。思いつきは考える以上に生なましい。それを益なるものにするのには多くのどうでもいいものを生み出さなくてはなるまい。

感受性

 残念ながらかつてのような感性は失われている気がする。これはある程度は仕方がない。しかし、歳長けてもできる方法もあるのではないか。

 箸が転んでもおかしいという譬えがある。箸でなくても鉛筆でもなんでもいい。日常とは異なる風景が意図せず起きたことに対して喜怒哀楽を感じることは誰にでもあるが、若い頃は概してそのハードルが低い。素直に状況に対応できるからだろう。

いつもと違う1日にする

 ある程度歳を重ねると、経験を類型化して把握するようになる。今起きていることを過去の出来事の変型として捉えそれ以上の反応はしない。だから感情的な反応は起こりにくい。前に見たことしたことと考えてしまう。これは生きるための知恵のようなものだ。いちいち心を震わせていたら消耗してしまう。

 感性の繊細さはこの生きる知恵とトレード・オフの関係にあるのかもしれない。子どものような感性には憧れるがまったく同じになったとしたら気が変になりそうな気がする。世間はあまりにも複雑であり、いちいち相手はしていられない。鈍くなるのは大人として世の中に折り合いをつけているということなのだ。

 それでも、ときには何かに囚われず世界を見てみたい。私の場合、少しだけアルコールを飲むとそんな気分を味わえる。しかし、恐らくそれは幻覚だろう。極めて有効期限が短く、大抵の場合は飲みすぎて何もできなくなる。言葉は悪いがこれはある種の薬物を投与するのと同じで害の方が多そうだ。

 ではどうすればいいのだろうか。一つには瞑想がある。ただ、良い方法を知らない。大がかりの物がいるものならば続かないし、やる気にならない。深呼吸や座禅もどきのようなものは時々やる。それなりの効果はあるがこれも長続きしない。大掛かりでも簡単すぎてもだめなようだ。

 それよりは、意図的にルーティンを壊すことの方がいいのかもしれない。いつもと別の見方をするように行動を変えるのだ。やり方を変えたり、行き方を変える。非効率になることは間違いないが目的は生産性ではない。新しい発見ができればそれでよしだ。

 習慣を変えるのは実はとても難しい。私たちの行動や思考の多くは反復される日常の中で形成されている。それを逸脱することは言動の基準を失うことである。でもこれを行うことは大切なのだ。

 感受性を取り戻し、磨くことは新鮮な体験に裏打ちされる。この体験の方を自ら演出していくことが感性の涵養に繋がる。

3G終了

携帯電話も世代交代

 KDDIの携帯電話ブランドauは今月いっぱいで3G回線を廃止することを発表している。私は数年前に4Gの折り畳み式電話に変え、一昨年末からスマートフォンにしている。かなり後追いの部類に入る。スマホの便利さは十分に享受しているので、今更逆戻りはできないがガラケーと呼ばれる3G携帯電話がなくなることは残念な気がする。

 初めて携帯電話を持ったのはいつだっただろうか。確かパソコンを買い替えた時のおまけとしてついてきたのだと記憶している。液晶画面が小さく、メールが送れるといっても非常に限られた機能であった。最初に受信した迷惑メールは「メルトモナロ」で何のことか分からなかった。携帯電話の会社の名前自体も変わり、スマートフォンの登場で世の中は急変した。いまや電車の中でスマホを持っていない人はわずかであり、すっかり魂を操られている。

 いまは5Gの普及期であり、すでに次の世代の構想も明らかになりつつある。単なる一対一のコミュニケーションツールではなくなっただけではなく、人間の思考や行動全体を操作することも可能になっている便利で魅力的で恐ろしく破壊的な道具をどのように扱うのか。これからも注意していかなくてはならない。

当たり前のありがたさ

 今の生活が必ずしもよいものとは思えない。むしろ理想形からはほど遠い。どうしてこんなことをしているのかと嘆くこともある。ただ、それでも毎日を過ごせることのありがたさを再考してみたい。

 

明日の夕日も見られるか

 震災で命を落とした人の大半は、地震の発生する直前まで普通の毎日を過ごしていたはずだ。無情にも突然の災禍が命を奪った。誰にも予測不能なことだった。新型コロナウイルスでなくなった人も、パンデミックが命を奪うとは誰も思わなかったはずだ。戦争もまた然りだ。

 明日のこの時間も生きているという保証は実は誰にもない。無常の世には何の約束もなく、未来があるというのは希望に過ぎないのだ。

 それでも私たちは比較的安心していられる身にある。当たり前のように行ってきますといい、そこには必ずただいまが続くと信じている。信じられる社会がある。当たり前といえる環境にあることに感謝すべきだとつくづく思う。