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メンテナンス

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 印象的な物言いで恐縮だが、最近メンテナンス不足による小さな事故が起きる可能性が増えているように思う。一度完成させたものは常に管理しなくてはならない。そのためには技術的な問題もあるが、第一は人の目である。それが人材不足や意識の変化によっておろそかになっている気がする。

 過去に作られたインフラは更新の時期を迎えているものがある。景気が低迷し、メンテナンス作業に手が回らなくなったものは放置されているものがあるようにしてならない。熟練の職人たちが大量定年の時期を迎え、経験が生かされなくなっているのも原因のようだ。その分を機械制御で管理すると言われているが、コンピュータには与えられた指示以上の行動はできない。愚直なほどの意識がなければ予測不能の事態に備えることは難しい。

システムの保守には注意を払うべきであるし、そこに従事する人にはもっと敬意を持つべきだと考える。効率主義のなかでひそかに切り捨てられるものがこの部署であるとしたら、突然の崩壊に備えることはできない。

少し先

 

未来は分からないけれど

自分に未来を見通す力はない。あればもっとマシな人生を送っているはずだ。ないからいつも時勢に振り回されている。夢や希望を忘れないように心掛けたが、いつも進路変更を続けてきた。そんな愚鈍な者でも感じていた未来がある。

 こどもの頃は当たり前だった買い物かごを提げている主婦の姿が、現代に現れている。エコバッグなどという名前がつき、収納可能なビニール袋だが、この姿が現れるだろうとはかなり前から予感があった。恐らく次は飲み物や液体調味料の量り売りの形態が復活するだろう。

 ブランド品が法外な値段で売られていてもそれを買うことで満足していた時代があった。持っているだけでステータスのように考える人がいた。いまもそのブランド信仰者はいるが若者には少ない。経済的に厳しいこともあるが大量生産で利益を上げすぎたブランド品が、品質やデザインの優位性を示せなくなったことが大きい。数は少ないが価値は高いというものだけが高級ブランドとして認められるようになる。そして長い間使い続けられる。そういうものに価値を感じる時代が来るはずだ。

 我が国の経済力が縮小傾向に向かうことは避けられない。ただし、いまとは別の価値観が生まれ、思うほど貧しくはならないかもしれない。量より質が重視され、質を保つための適度な出費は惜しまないという消費行動が円熟した国家の国民の方向性の一つとなる。

距離感

 渋谷に住んでいたとき銀座は遠いと思っていた。もっと近くの六本木さえかなり時間がかかると思い込んでいた。最近、たまにその地を訪れるとそれらが実は隣接していることに気づいた。

 隣接というのは誇張に過ぎるがそれほど遠くはない。歩いて行ける距離だと知ると少々驚いている。近くに住んでいたときより、離れてからのほうが距離感がつかめたということになる。

 もちろん自分の身体が成長したことや車を運転するようになったことなどは距離感覚に大きな影響を及ぼしているのは確かだ。ただ、それだけではなく東京を俯瞰する視点が区民でなくなったことによって身についたのだろう。こういうことは多方面にあると考えられる。

5月病

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 連休が終わると体調を崩す人がいるという。私などは休日の次の日はいつも憂鬱だが、病気という範疇には入らない。逆に言えばいつも半病人だ。

 5月病の原因の多くは生活のリズムの崩れによるそうだ。休みになれた身体がいきなりアクセルを踏むとエンストする。古いたとえだがこれがその本質らしい。だから、連休明けは思い切り連休ボケをかますのがいい。上司に白い目で見られても、エンストよりはましだ。それどころか休養した分、速く走れるかもしれない。監督者は長い目で見てほしい。選手を短期間でつぶすのはあなたの指導力が足りないのだ。

 とはいえ、いろいろと不安になることは多い。まずは焦らず、他人と比較しないことだろう。自分なりのやり方があると信じるべきだ。5月は気候的にはいい。連休で培ったのんびり過ごす方法を維持することが、実は最もよいパフォーマンスを出す方法なのかもしれない。

違う仲間に説明する力

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 ソーシャルメディアが普及しても文章表現力が上がったと言われないのは、「ともだち」にしか配慮がないからだということになる。自分と同質の人たちに「いいね」をもらうための発言は、説明という面倒な作業をする機会にはなっていないのだ。

 インターネットが普及する前のことを知る人がどんどんいなくなっているような気がする。かつては文章を頻繁に書く人と、ほとんど書かない人に分かれていた。筆まめ、筆不精などと言われた。そしてその比率は筆不精が圧倒的多数を占めていた。

 ネットが普及してみなが文字によるコミュニケーションを強いられることになった。手紙文のような作法はなく、話し言葉のように書けるのは魅力的だったが、もともと文章表現力がなかった人々がいきなり文章を書き始めたから意味不明なものになったり、書き手の意図しない解釈がなされて多数の悲劇を生み出すことになった。ネット上の誹謗中傷は精神的な要素が大きいが、その中にはそこまで人を傷つけるつもりはなかったのにという言い訳をする人もいる。さりげなく批判の意見を述べるという表現法はかなり高度なものである。皮肉めいて発言するつもりが全力の罵倒のようになってしまう。筆不精がいきなり大筆で心の字を書くと半紙をはみ出してしまう。

 国語の授業にはいくつかの目的があるが、その一つに自分の考えを適切に表現するということがある。口頭表現でも文章表現でも同じだが、口頭での言い方は国語以外でも指導はできる。対して文章の方は国語授業が主に担当する。指導の際に大切なのは読者の設定だろう。誰に向けて書いているのかをはっきりさせることが肝要だ。隣の同級生に対してなら、ある程度の俗語や仲間内の符牒も使える。同世代なら知っていると期待できる知識は説明しなくていい。それが5歳年上の人ならどうだろう。さらに親世代ならそういった共通理解は期待できない。さらに別の地域、別の国と環境を異にする人々に説明するとなると違ったものにせざるを得ない。

 自分とは異質の環境や生活様式にある人にどのように説明すればいいのかという問題意識を持たせるのが国語の教員の仕事である。もしかしたら多国語への翻訳は機械がある程度やってくれるかもしれない。昨日の投稿は機械翻訳にしてはまずまずの英語になっているように感じる。でも、どのように説明するのかという問題は人間が考えなくてははならない。用語の問題、具体例、論理展開、わかりやすさ、親しみやすさなどの調節は当面人間の仕事だ。

 生徒諸君に「ともだち」に「いいね」させる以上の文章を書く能力を自覚させ、身につけさせる。それを目標にしていきたいと考えている。

分からないことが前提

分からないことだらけ

 なんでも検索すれば分かると考えてしまうのが現代人の発想法のようだ。確かに手元のスマホで検索すれば説明が即座に出てくる。音楽を聞かせれば曲名や演奏者の名前が瞬時に分かるし、昨日は道端の花を映像検索して和名や学名を知ることができた。検索可能な世界観はこのようにしてできあがっている。

 しかし、本当は検索などできはしない。同じ花でも株ごとにみんな違う。音楽は同じ音源であろうといつどこでどのような目的で聞くかによって意味が変わる。記号化された世界は、その網目があらすぎるといい加減な把握になる。結果として大切なものを取りこぼす。

 分からないことが世の中にはたくさんあることを再認識するべきなのだ。誰か別の人が調べたことで世界が説明しつくされている訳ではない。検索しても分かったつもりになってはならない。分からないことだらけの毎日こそが現実であり、それ故に私たちは豊かな可能性のある日々を生きているのではないだろうか。

Another station, another story.

 通勤電車や旅行中に電車に乗るとき、時々思うのは駅ごとに物語があるということだ。それぞれの駅にまつわる歴史があり、その上で人々が重ねていくエピソードがある。

 仮に住まいを今とは別の駅の近くに構えていたらと考えることがある。別の道を歩き、別の店で必需品を買う。別の学校に通い、別の病院のお世話になる。そういうことがいくつも繋がるのだろう。

 この駅の近くに住んていたら、あの駅ならとさまざまに考える。するとそれぞれに違った人生の選択肢の可能性が浮かび、逆に実現しなかったバリエーションが考えられる。本当にこれで良かったのかという反省も起きるが、もしかしたらこうだったかもしれないと考えるのは楽しい。

 駅はそういう可能性を想起するためのきっかけであり、テレビのチャンネルのようなものだ。

違う頭

違うことをやってみる

 すぐに閉塞感を感じてしまうのは同じことばかりを繰り返しているからかもしれない。違う行動が別の思考を生み出すこともあるのかもしれない。

 最近、何かに行き詰まりを感じている。本当は何が起こるかわからないはずだ。なのにすべてが決まっているかのように感じてやる気が起きない。私の中に定期的に繰り返される悪循環だ。

 長い間同じようなことを繰り返しているというのに、また抜け出す方法が分からなくなっている。恐らく解決策を見つけないままここまで来てしまったのだ。

 恐らくよく言われるようにルーチンを破ることが突破の手立てなのだろう。いつもとは違う頭を使う機会を持ちたい。

気づかせる方法

気づかせる
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 教えることというのは情報の伝達ではないことが分かってきた。ある情報を他人の記憶に移すという行為は大切だが、この方面については人体以外の道具が補ってくれる。伝統的には筆記をすることで記録が残るし、最近ではコンピューターが膨大なデータベースを構築し、なおかつ瞬間的な検索も可能だ。情報の蓄積が知識というのは、大きなものの一部分を指しているに過ぎない。

 知とはどのような行為かを改めて考えると、現実には目の前にないものや現象を考え、何らかのイメージをつかみ取ることではないかと考えられる。その際に過去の歴史や、自らの経験が役に立つ。しかし、それらの情報はあくまで考えるための材料であり、知的行為はつねに現在行われるものである。

 教育の場面も先人の巨大な肩の上にの乗るだけではなく、そこでどのようにものを見て、何をつかみ取るのかを経験させることが必要だと考える。文法、語彙の知識、理論や法則、歴史上の事件などを駆使して自分なりの世界の捉え方を試してみるというのが学校という場所なのだろう。

 残念ながら、私自身は単純な知識の蓄積が学問だと考えてこれまでの人生の大半を送ってきた。学術論文を書くときにわずかにそれを超えた実感を持ったが、多くは他人の用意した快適な空間の中でなにも疑問を持たず、新たな提案もせずに生きてきた。平和に生きるためにはそれが必要だが、それだけでは閉塞的な状況からは抜け出せない。

 学ぶということは教員の伝えることを吸収したうえで、それを乗り越え、批判して、自分なりのやり方を試行錯誤する段階にいたることであると気づかせなくてはならない。それには教員が用意した知識の再現を評価のゴールにするのは間違いなのだろう。

考え方の癖

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 考え方には癖があるのではないか。その癖を利用すれば効率のいい教育ができるかもしれない。

 新しい学びを始めるとき、私の場合はノートを広げても何も書き始められない。何を書けばいいのかわからないのだ。思考の手順というか、道筋というのが見えていないうちはいろいろな情報がただ並列に広がっていく。思考のテーブルに置ききれなくなってこぼれ出すと学習の意欲が消えて行ってしまう。

 何かを考えるとき、最低限の道順を決めてあると学びが続きやすい。それを助ける役がコーチなのだろう。まずこれをやり、次にこれをやるといった助言だ。自走できるようになったら本人が学びの幅を広げられる。その先はコーチの能力を超えていく。学校の教員ができるのはこの役である。

 ならばコーチは、つまり教員は生徒の学びの癖を知り、学びやすいように助言をすることが職務上の重要事ということになる。そこまで私はできていない。相変わらず、教科書を右から左へと読んで聞かせているに過ぎない。

 教員の仕事は教材を提供して考える空間を作り、最初の二三歩の歩き方を教える。そこに尽きる。考え方の癖は一人一人違うはずだ。それを知ること、そして面談を繰り返すことが学びの発動にはかかせない。しかし、それはできているのだろうか。