今日はちょっとしたトラブルが相次いだ。こういう日はなぜか時々ある。運が悪い日と言えばそれまでたが、なぜか自分が原因ではないのに禍に巻き込まれることはある。
ただ人のために何ができたなら少しはよかったのではないか。くよくよするべきではない。自分が何か大きな困難に陥る前の警鐘であり、予行演習と考えることにしよう。
日々の思いを言葉にして
タグ: 自己啓発
おそらく20年ぶりにかつて暮らしていたところを訪ねた。いろいろなところが変わっていたが、一番の違いはそこに暮らす人々の姿だった。自分がいなくてもその地は風雪に耐え、情勢に対応してきた。それを確認したことだけでもうれしい。
私にとってその地での暮らしは様々な思い出の重なる場所であり、懐かしくも苦々しくもある場所である。その地に多分の未練を残しながら振り捨ててきた。というより、自分以外の要因で街を出ざるを得なかったのである。だから、そのころの自分のふがいなさを振り返る場所でもある。
子どものころから転居が多かった私にとって、このような久しぶりの訪問の経験はこれが初めてではない。でも、そのどれもが心が大きく動く経験となっている。この後もこのようなことがあるのだろう。そして、また呟くに違いない。あの頃は若かった。楽しくて辛かったと。そして今まだ生きていることに少し感謝するはずだ。
私は日常の大半を既定の習慣でこなしている。いちいち考えなくてもいいからだ。どこに財布を入れるのか、電車の時刻、車両、立ち位置もほぼ決めている。習慣化の恩恵は大きい。
ただしこの方法だと臨時の対応ができなくなることがある。普段とは違う行動をしなくてはならないときに立ちゆかなくなる。これも困ったことだ。私には定期的にこの失敗があり、そのつど狼狽している。
ルーティンだけでもだめで臨機応変の事態も対処できるようにしなくてはならない。そのためにも労力や金銭のコストをかけてもいつもとは違うことを敢えてする日を作らなくてはと考えている。木曜日はいつもと違う道を歩くなどから始めている。これも大きなルーティンといえばそれまでだが冒険の木曜日とでも銘打てば少しは脳の活性化に役立つだろう。
木曜か金曜のブログにご注目あれ。
価値観とか美意識とかそういう形がないが大切なものを見直そうと考えている。形あるもの、もしくはそのものに形はなくても何かに置き換えることが容易なものはデータ化され、コモディティとなりつつある。大切なのはそういうものだけではない。
名状しがたいもの、名付けても十分に言い尽くせないものは価値判断の外に置かれていた。しかし、実はそういうなにかこそが自分の物の見方なり行動様式の根底にあったものである。形がないものが多くを支えている。だから、いままでとは違う判断をしなくてはならない。見えないものこそ、他者と比べられないことこそ大事にしなくてはならない。
すぐに比べたがる。比べる基準がグローバルに存在するかのような幻想を抱くのが現代社会だ。それはあくまで便宜的なものであり、基準を作ったものの有利を保つための手段に過ぎないということを私たちは様々な事例から感じ取ることができている。もっと自分の価値観を信じ、それを磨く努力をするべきだ。つくづくそう思う。
新機軸をなすためには現状からの逸脱が欠かせない。安定路線を飛び出すことには危険も伴うし、それを冒す勇気もいる。チャレンジということばはそれにふさわしい。しかし誰もがチャレンジできるほど強靭ではない。私のような臆病者にはチャレンジはかなりハードルが高い行動である。
その代わりに試しにやってみるというトライの方が今の自分にはふさわしい。失敗することはあってもいい。そしていつでもやり直す。そのくらいの気持ちの方が続けられる気がする。効率は悪いが試行錯誤することに躊躇しない。そういう態度で臨むことにする。
さまざま毎日の手順についていま再検討をしている。そして無理やり始めたものもある。うまくいくかどうかわからないが、やらないよりはいい。
有言実行という熟語の意味からは逸脱するがこの考え方は結構役に立つ。まず言葉にすることの大切さを見事に言語化しているからだ。
とにかく自分が達成したいことを言ってみる。ここまでは無責任でよい。いろいろなところに吹聴するといい。するともうやるしかなくなる。自分を追い込むことができる。恐らく達成できるのはその幾分かに過ぎないなもしれない。でも、何もやらないよりは遥かにマシだ。
まず理想を語る。思うのではなく、誰かに語るのた。語る相手がいない場合はブログに書くのでもいい。(大体このブログはそのためのものだ。)リアクションがあれば、言ったことをやらざるを得なくなる。そのうち、自分の目標に近づいていく。
大言壮語は悪い意味で用いられる。しかし、大言しなければ何も起きない。私はこのブログもそうだが、リアルな生活でもおおぼらを吹いて生きることに決めている。