いつも張りつめているとできなくなることもある。実力者以上の結果を出そうとするとき、そこには無理が必ずある。無理してでも現状打破しなくてはならないこともあるが、いまはその時てはない。
脱力してから力を出した方が結果的に上手くいくこともあるものだ。急の前の緩は大切だ。8月の終わりは憂鬱になりがちだ。四月病ならぬ九月病も必ずある。それを乗り越えるには敢えて頑張らない選択も必要かと考える。
これは諦めることとは違う。時宜を考えるのだ。
日々の思いを言葉にして
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何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。
意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。
でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。
最近漢字が書けない生徒が増えた。いわゆる学力とは無関係に総体的に漢字力が落ちている。これは印象でしかないので調査が必要だが、先日ある会合でいわゆる進学校の先生方と話をしたときも同じ話になった。もっと言えば読むことはできても書けないというのだ。簡単な字であっても書かせるとおかしなことになるという。
この原因はほぼ断言できる。字を書く機会が激減していることにあるのだろう。子供世代まで現在はスクリーン上で字を読み、書くときもコンピュータを使うということが多い。すると、文字を書く機会がないのである。漢字のような複雑な形をしているものは繰り返し自分で再現しなければ覚えられない。曖昧な記憶でもコンピュータの自動候補選択のおかげで済んでしまうが、詳細は分からなくなる。
最近の子どもたちの学習で最もよく見られるのは赤いシートで文字を隠して用語を覚えるという方法である。それに対応した問題集がシート付で売られている。生徒諸君はこれを使って見事に英単語や歴史用語を覚えている。ただ、この方法は短期記憶しか形成しないようだ。テスト前の直前学習には向いているが、有効期限付きの記憶となり知識として蓄積されにくい。私たちがやるべきなのはやはり手を動かして要点を書きながらまとめるというパソコン普及以前の学習法のようなのだ。
これは漢字や英単語、歴史や科学用語などの語彙のレベルの問題にとどまらない。思考を行う際に自分の言葉への変換というプロセスが欠けてしまっているため、複雑な考察ができにくい。分からなくなったらすぐに検索して他人の考察をつぎはぎするので、提出されたレポートは一見出来上がっているように見えるが、統一感がなく筆者の立場や主張が欠けているものが多い。それも手書きでメモを取り、自分の頭脳で再構成するという段階が抜けているからだろう。
データの検索や分析は機械の助けを借りても、それを使って思考する段階ではやはり筆記用具を使った方法の方がはるかに効率的だ。この方法を使い分けなくてはならない。基礎的な学習段階では要点を手書きでまとめる力の育成に注力したほうがいい。教員の仕事はこの使い分けを教えることにある。
そのためにはテストの形を変えて評価の方法を変えなくてはなるまい。用語を記憶するのではなく、要するにこれは何を言いたいのかを自分の言葉でまとめさせる解答を求めるのがよい。教員の立場でこの理想に想定される反論を考えるならば、理想的だが採点が大変であり、客観的評価が難しいということがある。記号で選べ、アが正解、の方がはるかに簡単だがこれでは「見るだけ学習」の打開にはならない。答えを自分の言葉で考えさせ、それを表現させるためには、思い切って問題数を減らし、記述させた答えを評価するための観点を確立させたうえで時間をかけて採点するしかあるまい。
毎年同じ日に同じ場所を訪ねると懐かしさとともにいろいろ思うことがある。無常観といえばそれまでだが、話はもう少し複雑だ。
日常的な生活空間は常に印象が更新されるので、その変化に気づくことは少ない。建物が建築されたり、取り壊されたりするとその瞬間は変化を感じるが、すぐに時間の流れの渦に飲み込まれ印象が薄くなる。自分自身も常に変化しているのにそれに気づくことはできない。今日の私と昨日の私は細胞レベルでは別の存在だ。それが1年前とか10年前とか期間を長くとればかなり変わってしまう。ベクトルを未来に向けても同じだ。1年後、10年後の自分は今の自分とは異なるはずだ。もっともその時に生きているかどうかは誰もわからない。
こういうことを思い出すのは、同じ時期に同じ場所に旅をしたときだ。同じ風景に同じ空気に触れたとき、自分は変わったのにと思う。実際はその風景も変化している。その変化よりも己の変化の自覚の方が大きいからなのだろう。自分の変化を知ることは辛くもあり、厳しいことも多い。ただそれを知ることで救われることもある。その意味で日常を抜け出すことには意味がある。
かつて軽登山が趣味だった頃、よく言われたのは疲れたときには他人を励ませ、するとその相手は励まされ、自分自身も力が出るものだと。それは登山をする人には常識のようだ。
他者を励ますことで自分まで癒やされるのはなぜだろうか。自分は疲れていないぞと虚勢をはって相手へのマウントを取り、気分的優位に立つから、という解答は合っていない気がする。そういうことではない。
恐らく他者を激励することの行動のうちに、自分を鼓舞する内容が含まれているのだ。あるいは他者を励ます行動そのものが何らかのいい影響をもたらすのかもしれない。
励ますために使う言葉にヒントがあるのかもしれない。人を励ます言葉を見つけた人は自分自身も励ますことができる、それが大事なことなのだろう。
夏休みの宿題には色々な思い出があるが、残念ながら細かいことは忘れてしまった。計画的にやればいいものを結局8月の終わりにまとめてやることになって焦り、家族にも叱られたことしか覚えていない。
宿題は実は何でもいいのだが、形にして残すことが大切だと考える。できれば自ら課題を見つけ、それに対して何らかの考察をし、一定の結論を得ることが夏の宿題にとっては大切だと思う。私は一時期自分が調べたことをもとに自説をまとめることを仕事にしていたので、夏はそれを行う大切な時期だった。最近はそれをすっかり忘れて与えられた仕事をこなすことばかりしている。そこで今夏は自分に宿題を課すことにした。
まずは自分と同じような仕事をしている人に向けて自分の経験をもとにした助言をまとめてみようと考えている。役に立つかどうかは今考えずにおこう。それが今の自分を見直すことにもつながるかもしれない。それをかならず、文章にまとめることを宿題にしたい。宿題だから期限があり、完成度が低くても提出しなくてはならない。それを8月末日としてみよう。
宿題をやらなくてはならないと思うと気が重いが、同時に若い頃の焦燥や達成感が戻ってくると思えば楽しみな感じもする。
予測がつかないのは今に始まったことではない。未来予想のほとんどは外れてきたし、これからも外れ続ける。コンピューターの精度が上がって天気予報は外れにくくなったが全く外れないわけではない。むしろ期待値が高まった分だけ、外れた印象は大きくなっている。
自然現象でさえそうなのだから、人間が作り出したものの行く末など分かるはずがない。自分のことなら分かるだろうなどと考えても無駄だ。自分のことがこの世の中で最もわからないことだと言える。
何があるかわからないのなら、焦らずにその場で状況に対応するしかあるまい。その方が実はもっとも効率的だ。最低限の備えは必要だが、それ以上を持っていても結局使えない。必要なのはものではなく、冷静に対処できる判断力であり、スキルである。いらないものを捨てて、必要なものを大切にすることをもう一度考え直したい。
私の世代は物質的欲望に踊らされすぎた。本当に必要ではないものを無理に買わされてきた。本当は価値などないものに魅力を感じるように誘導されてきたのである。それは本当にいるのか、なくてもいいのではないか。逆に他人には魅力がないものでも大切な物はあるのではないか。再評価をすることで次の段階が見えてくる気がする。
何があるかわからないのだから、何をするかはせめて自分で決めるべきだ。
よく目にするのが脳科学による学習の方法の見直しという論調である。この方面には全くの門外漢なので言われたことをそうかも知れないと信じるしかない。その意味で科学と言いながら私のレベルではオカルトと変わらない。
最近気に入っているのが独り言による自己暗示である。ネガティブな発言が続くと心が不調になり、結果としていいパフォーマンスができない。これを防ぐためにわざとポジティブな発言をするルーティンを作れというのだ。何かで読んだが、「だけど」の白魔法はいいらしい。弱音を吐いてしまったとき、すぐに「だけど」をつけて内容を逆転する。例えば「とても疲れた」と言ってしまったら、すぐに「だけど、いい経験ができた」などと内容を好転させる言葉をつけるといいのだという。実際にはいいことがなくてもこれを言うことで脳が騙されて良い行動ができるようになるというのだ。
苦しいときこそ笑顔でいたほうがいいとはよく聞く話だが、これを一歩すすめて言葉で自分を騙すというやり方だ。いいとことを聞いたと思う反面、私たちは何とも危うい地盤の上に立っているのだと再認識している。何事も気持ち次第というが、論理とともに感情が思考や行動をいかに影響を与えるものであるかを痛感する。
ブログ記事もときにこの手法を取っていることがある。本当はそれほど大したことでもないのに大仰に書きたてるのは自分を励まそうとしているもがきであると寛大な目でご覧いただきたい。
加齢という現実に直面している。一番困っているのは老眼だ。このブログは通勤電車の中で立ってスマホで入力することが多い。変換する際、細かい字が読めず、誤変換してしまうことが増えている。濁点と半濁点、句点と読点の区別は特に難しい。
老眼というのは結局、筋力の衰えなのだという。毛様体筋が弱くなるからレンズの調節ができなくなるというのだ。この筋肉は40代頃から自覚的に衰退を感じ始め50代で多くの人はかなり弱まってしまうらしい。残念だが全ての人に共通する。
ただ、少しでも退化の速度を遅らせるためには、その筋肉を鍛えるしかないという。いろいろあるが、要するに近くを見るのになるべく自分の目を使うことが大事らしい。老眼鏡を使わない時間を増やさなくてはならないということだ。
そこで、私はこのブログは眼鏡なしで書き続けることとする。だから、いままで通りミスタッチが続出するだろう。こっそりあとから書き換えるのもこれまで通りだ。