タグ: 社会

戦争は終わっていない

 終戦記念日の今日、日本各地は大雨で非常に不安な状態にある。すでにかなりの犠牲者が出ており、これ以上の被害が出ないことを祈るばかりだ。朝から携帯電話に避難指示のエリアメールが警報音とともに届いている。

 その中でも私の住む街でも正午に太平洋戦争の犠牲者に黙祷をささげることを勧める街頭放送が流れてきた。2021年は終戦から76回目の記念日にあたる。先ほどの放送にもあったが、二度と戦争が起こらない平和を願うという文言に反して世界ではいまも戦争が続いている。日本では戦争は起きていないが、平和の価値を観念的にしか理解できない世代、ー私もその一人だー が増えている。

 ある番組で沖縄戦に向かった戦艦大和の駆逐艦雪風の元乗組員だった方の経験を知った。敵戦闘機に襲われた時の恐怖や、反撃の機銃を撃ち続けているうちに人間的な感情が消えていく経験の恐ろしさ、大和沈没後の人命救助の際の悲惨な状況など、90代のその方にはいまだ鮮明にその状況が思い浮かぶというのだ。

 終戦記念日という言葉に安心してはいけない。戦争は終わっていない。終わったと思ったときにまた始まってしまうのが戦争なのだろう。この連鎖を乗り越える叡智を身につけなくてはならない。

悪天候もチャンスと

 西日本で長雨の被害が出ていることを聞くと申し訳ないが、この悪天候はある意味チャンスかもしれない。お盆休みになった日本ではこの期間にまとまった休みをとる傾向にある。宗教心はかなり薄いのだが盆は日本人にとっては先祖の供養をするか、もしくは遠隔地の親を訪ねる日か、その代わりに自分たちが楽しむ人する日として定着している。

 何もなければ東京から地方に帰省する人でごった返すこの期間は、今は自粛することが求められている。いっそ悪天候ならば諦めがつく。悪天候もチャンスとなると考えた方がよいだろう。ただあまりにも雨量が多いのが心配だ。一度停滞前線は消えてほしい。

 晴れても外出しないと誓うから。 

現状把握

 このところ新型コロナウイルス感染者の数が非常に高い水準を続けており、数値に対する感覚が麻痺している。以前は3桁になっただけで一大事と考えられていたがいまはそれが目標だ。

 ロックダウンの議論が出てきているがわが国で行われることは相当難しい。重傷者の数が増えているとはいえ、幸いにも私の関係者には一人もいない。つまり深刻さに関する実感が湧かないのである。

 社会生活を止めても予防効果があるのか否かについてもまだわかっていない。接触しないことが感染を予防するという事実もどのくらいならば許容されるのかも想像している段階だ。

 恐怖を拡散する必要はないが、ここらで事実を整理していただくのはどうだろうか。政治家の皆さんは支持率低下の恐れがあるが、ここは勇気を出していまできていることとできていないことを明らかにしてほしい。現状を把握できれば無謀な行動は抑止できる。そこから国民の行動は決まってくるのだろう。

IR

 横浜市長選挙の最大の争点はIR建設の是非にある。現市長は推進派であるがいかなる結果になるのだろうか。市民ではない私に発言権はないが何とか建設を阻止していただきたい。

 IRがもたらす経済効果はかなり大きいらしい。継続性もある。税収を上げるには最適解かもしれない。ただ耽溺性の高いカジノをなぜ横浜に作らなくてはならないのか。財政面以外の理由が見つからない。

 他の発想をしてほしい。横浜のような潜在的資源のある地域が取るべき方法ではない。どうしても作りたいならば、無人島にでも作るのがよい。環境破壊をしないと誓って。

オリンピックの意味

 東京オリンピックが終わった。無観客という極めて異例の大会運営はこれからのスポーツイベントに様々な影響を残すことだろう。観客がいなくてもスポーツが成立するのかという根本的な問題を考えるきっかけになる。

 オリンピックが商業主義に取り込まれている以上、無観客はあり得ない。今回はスタジアムに入る人が制限されていたのではあるが、メディアを通して観客となった人は世界中にたくさんいる。その存在があるからこそ、メディアが商業的に成立し、そこで生まれる利益がスポーツイベントの運営には欠かせない。

 もし本当の無観客、もしくは無料試合を実施したらどうなるだろう。世界的なスポーツイベントはおそらく成立しない。そこにドラマは生まれないし、感動を物語ることもできない。オリンピックは残念ながら政治や商業に取り込まれることで成立しているといえる。

 スポーツが文化として成立するするためにはやはり何らかの共同性なり、共有性を維持しなくてならない。勝手にやってくれでは文化は育たない。しかし、何でもできるわけではない。国際競技として継続するためには割り切らなくてはならない様々なものがある。東京オリンピックはこの問題を再確認させてくれるものであった。

スポーツの不思議

 私たちはスポーツをしたり、見たりするときに不思議な気持ちになっている。それは、自分が置かれている現実のかなりの要素を無視して直前の現実にのみ集中できているということかもしれない。

 草野球でもなんでもいい、バットを持ったときはただ打つことだけに集中する。そしてヒットを打てば単純に喜び、掠りもしなかったときは悔しがったり、相手の投球の凄さに感心する。そういう素直な反応はスポーツという枠組みの中においては素直に行える。

 それが社会生活ではどうだろう。様々利害関係の中で、自分の行動が如何に評価されるかということをいろいろな方向から考えてしまう。様々な言い訳と、その後の対策について考える。失敗が許されず、失敗した人に手を差し伸べることもしない。それが現実社会だ。

 オリンピックのような高度な競技レベルでなくても、私たちはもっとスポーツをするような気持ちを持つべきなのかもしれない。勝つこともあれば負けることもある。負けてもまだ次がある。そういう考え方ができれば救われることがいくつもあるのかもしれない。

台風が接近中

 東京は朝から曇天である。風はないがかなり湿度が高い。南海上を台風が通過するらしい。

 オリンピック開催中は台風の通過は少ないと考えられていた。最近の気象は過去のデータがあてにならない。これまでそうだったとしてもこれからも同じかどうかまったく分からない。

 海外からこのサイトをご覧いただいている方もいらっしゃるらしい。少なくともデータ上は世界の各地からのアクセスがある。だから、念のために書いておくが、日本の台風は結構恐ろしい。あまりに頻繁にある現象なのでそれなりの対策はあり、滅多に被害はないがそれでも毎年災害が発生し、犠牲者も出る。オリンピック選手はまず安心だろう。

 日本はいろいろな場所に人が生活し多様な生活をしている。それが日本の文化を豊かにしている要因の一つだ。台風や地震にも負けることがない、健気な民族の暮らす場所なのだ。

知的進化

 インターネットでの誹謗中傷の事例を見るたびに、人間はまだ情報社会に対応できていないことを痛感する。Society3.9くらいの存在なのだ。

 人類は情報という目に見えないものに振り回されており、いまだ使う方にまわっていない。使われている。メディアの影響力について理解していないし、理解していない存在が他人を傷つけているという事実も判断できない。隣りにいる人に接するようにメディアの先のひとに接し、リアルとバーチャルの区別ができない。

 語弊がないようにしたいが、かくいう私も同じだ。先の例えで言えば私は情報社会に全く適応できていない。3の前半にいる。ただ人間はいずれはこの状況に対応していくのだろう。何を言われてもされてもそれが本心からなのか、それとも感情に任せた戯言なのかを瞬時に見分ける能力を獲得するのだろう。

 あるいはその能力を獲得しないという進化を選ぶのかもしれない。つまり、人を信じないという方向だ。これは困る。私たちの身体的な進化はかなり限界に来ているのかもしれない。大脳をこれだけ発達させた人類に残された可能性は、情報を理解する能力を向上させることだろう。

次々廃業

 利用していたレストランが次々に廃業に追い込まれている。コロナウイルスの影響は大だが、それ以外の要因もある。その一つが個性の消失だと考える。

 同じような料理を出していたとしてもその店の雰囲気とか、店員の醸し出すものといった、非定形の要素をもとめて店を選ぶのが人情というものだ。数十円から数百円の違いはそれで十分に逆転可能だった。ところが、最近はどの店に行ってもマニュアル通りの対応しかできず、メニューにも個性はない。どこに行っても同じようなコンセプトであり、効率化のもとサービスも均一化している。アルバイト店員が増えたせいか、臨機対応の変化には対応できない。何よりもその店の店員であることの誇りのようなものが感じられない。

 これは現在の業界の状況からすればどうしようもないことであり、こだわりを続けるのなら価格設定を高くして、少ない客でもなんとかするしかあるまい。そんなことができる店は限られている。

 次々に廃業するレストランをどのように救うのか。この点に対するアイデアはまったくない。。ただ、いつも通ったあの場所にその店がないことに対する失望感は打ち消しようがないのだ。

道具

 ITがどんなに発達したとしても、それが道具であることに変わりはない。そのことを忘れると道具の道具にされてしまう。

 私たちの知っている大工道具や文房具と比べると、電子化された道具はかなり容態が異なる。人工知能のような道具になるともはや人格さえ感じる。カズオ・イシグロの『クララとお日様』のラストシーンの決まり悪さはもう道具が道具と見えないことによるものだ。

 でも、もう一度考える必要がありる。私たちは道具を使っているのであって、道具に使われてはならない。当たり前なことなのだがいつの間にか忘れられてしまっている。

 道具を使いこなすのは身体だけではない。それを使う精神も健全でなければならないのだ。