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失敗しないなら

失敗しないことが保証されているとしたら、何に挑戦しますか ?

 このお題で直観的に思ったのは、それなら挑戦はしないかもしれないということだ。挑戦というからには相応の覚悟を決めて準備し、失敗するリスクを考えてやるはずだ。始めから失敗しないことが分かったいるのなら、何も新しいことを始めなくてもいい。

 私がこれまでやってきたことの大半は失敗し、そのたびに軽重の差こそあれ、挫折を味わいやり方を修正してきた。その中には諦めという選択肢もあったが、第二、第三の道に進んでいまに至るのだ。

 だから失敗のない人生はもしかしたらかなり味気ないものになるのだろう。まあ負け惜しみだと言われたなら何も言い返せないが。

つまずき

 小さなつまずきは誰にでもある。ちょっとした凹凸を予測できなかったり、何か他のものに気を取られていて意識が別のところにあったりした場合に起きやすい。物理的なことだけではなく、精神的なつまずきもまた不意に起きる。

 つまずいたことをなんとも思わないことがこれまでは多かった。よくあることとすぐに忘れられた。それが特定の状況下においてはうまくいかないこともある。いつまでも気になって、さまざまな自己嫌悪にぶつかる。本当はただバランスを崩しただけなのに。あたかも致命的な転倒をしたかのように感じられることがある。こうなると萎縮してつぎの一歩が踏み出せなくなることもある。

 失敗は成功の素とは分かっていても気分というものは簡単には切り替わらない。ネガティブな感情に囚われているときは、些細なことであっても重大事に感じてしまうものである。

 職業柄、人を励ます機会は多いが自分のこととなるとまるで思い通りにならない。落ち込むとなかなか抜け出せなくなる。誰かに相談すればいいのだが、そういう相手がいない。弱みを見せられず誤魔化してしまう私の習性もよくない。

 歳を重ねて少しだけ身についたのは、行き詰まったら一度その件については思考停止をしてしまうのがいい。いつか状況を俯瞰できるときがくるものだ。本を読むように自分の置かれていた状況を自分の外側に置けるまで待てばいいのだろう。さすれば答えが見えてくることもある。その中に諦めるという選択肢も含まれるのだが。

 つまずいたときはまずは、その事実から距離を置き、しばらくしてから次のことを考える方がいい。それが若い人たちに伝えたいことなのだ。

鉄道網の上に立つ首都圏

 毎日利用している電車が事故のため一日中止まった。人為的ミスとシステム上の問題点が重なったようである。怪我人は出なかったというのが幸いだが、おかげで首都圏でも有数の混雑路線が使えなくなった。

 振替乗車をして職場へは遅刻することなく到着できた。首都圏は都心部から郊外へと走る路線が数多く存在するので、迂回ができるのだ。それらをつなぐ路線が大切であると実感した。

 鉄道網が東京圏を支えているのは明らかだが、今回のような事故があって始めて実感できる。今回は一つの会社の2路線のみの障害だったが、同時多発したときどう振る舞うのかを考えておかなくてはならない。

喉の風邪

 ここ数日喉の腫れを感じ、時々まとまった咳がではようになっている。発熱や倦怠感は少なく、その点はいいのだが、声を出す仕事をしているので甚だ都合が悪い。

 周囲を見渡すと同じような症状の人が結構いるようだ。伝染するものかどうか分からない。むしろこのところの日々の気温の変化の違いや日較差に対応仕切れない人が多いということなのかもしれない。

 これからも10月らしからぬ天気が続くというから、気をつけていかなくてはならない。

最後の真夏日なのか

 今日の東京の最高気温は31℃で真夏日になった。最後の真夏日なのかとも思うが、昨年は10月19日に30℃を超えていた。いつまで暑さが続くのか分からない。

 昨日から上着を着て出勤している。かなりの暑さを感じるが上着生活に慣れるためにはならしが必要だと感じたからだ。毎年、この衣更で体調を少し崩すことがある。

 上着を着てネクタイを締めるだけでもやることがかなり増えた気持ちになるのはなぜだろう。タイの長さがうまく決まらないときなどは特にそれを感じてしまうのだ。

 10月も高温傾向だという。汗を冷やして風邪などひかないようにこれからはまた注意しなければならない。

ドリアは日本発

 格安イタリア料理店のサイゼリヤの看板料理であるミラノ風ドリアには時々お世話になっている。小腹を満たす料理でありながら、税込み300円という安価である。実にありがたい。

 ミラノ風ドリアというものがイタリア料理なのかといえば、答えはNoである。ミラノにはこの料理はないし、そもそもドリアも存在しない。もっとも近いリゾットは見た目も製法も異なるものである。

 ドリア自体は横浜のホテルニューグランドの初代料理長のサリー・ワイル氏が即興で作った料理をもとにするようで、米の上にグラタンの様なものをかけることで食べやすさと栄養価を演出したものらしい。ワイル氏はスイス人とのことだが、横浜生まれの日本料理ということもできる。

 サイゼリアがミラノ風と称するのは、ボローニャ風のトッピングをしていることによるが、ミラノはボローニャではないことからいろいろな意味でミラノとは無関係なのだ。ちなみにミラノ風ドリアはサイゼリヤのオリジナル商品であった。

 日本はさまざまな文化を受容し、それを自国風にアレンジすることにかけては無二の技能を発揮する。数々の「風」料理の中でも庶民の味方のこの料理がどこまで今の値段を保てるのか。注目している。

自然にリュックが開かないように

 先日、運転していたらバイクが歩道寄りに突然停車して、降りた運転手の青年が歩道を歩いていた女性のもとに駆け寄るよるのが見えた。少し緊張して見ていると青年は女性の背負っていたリュックのファスナーが半開になっており、閉めた方がよいと告げているようだった。女性は何度もお辞儀していた。

 私もこの女性と同じようなことをかつてはよくしていた。多めに荷物を入れてしっかりとファスナーを閉めないと、少しずつ開いていってしまう。背後にあるので気づかず、ものを落としたり、盗難にあったりする可能性もある。

 そこで私は簡易な鍵を作って留めることにした。百均などで売っている小さなカラビナをファスナーの引手に一つずつつける。なるべく小型の方がいい。私のは4個で税抜100円だ。これをファスナーを閉めた時にカラビナ同士も掛けて置く。すると万一ファスナーが開き始めてもカラビナが止めてくれるのだ。留めるのは簡単で、外すのはそれに比べると少し手間なので鍵としてもちょうどいい。

 カラビナをものを吊るために使っている人は多い。こんな使い方もあるという紹介をしてみた。

自分とは何か

 自分とは何かという問いは誰もが一度は行う。容易に答えが出ないので、多くの場合は思考停止となる。そんなことは分からなくても日々の生活に困ることはない。むしろどうでもいいことをあれこれ考える方が時間の無駄ということになる。

 でも、自分を失うと厄介なことが起きる。現代のように常に他者の発信する情報に囲まれていると、果たして今の判断は私のものなのか、流行りの意見に迎合したのかが分からなくなる。迎合の意識があるうちはまだいい。自己判断を停止したままで周囲の環境に自動的に合わせて、それに違和感すらなくなっている人にとっては、最早自分の判断というものが消えている。彼らに自己責任を問うことはたやすいが言われた方には戸惑いが起きるだろう。私は決めていない。流行りに従ったはずだ。多分そうだと。

 こういう時代には自分が他者に操られる事態を起こしやすい。最近の流行語であるインフルエンサーは、他者への影響力が強い者という意味と心得ているが、この語が流通しているのは真のインフルエンサーが本当は少ないことを意味している。でも、多くは動かせないがいわゆるクラスタクラスの影響はあることになる。

 もし強力な影響力を持つ存在が権力の野望を持って登場すれば、容易に独裁者になれる。現代はその下地が整っていると言える。自分とは何かという厄介な問いを後回しにしているうちに事態は予期せぬ展開をするのである。

 多くの人が是といっても何かおかしいことがあればそれを指摘できる気概は保持しておくべきだ。多くの人にそれは変だけどと言われても、変と言っている貴方が変だと言える自己にならなくてはならない。情報社会において自己を保つのは難しい。でも、それができなければ危険な未来が待っている。

 

気温が下がると

 決して夏の暑さが終わった訳ではないが、今日はかなり過ごしやすく感じた。それまでが暑すぎたために、平年並みが涼しく思えてしまう。

 気温が下がるとかえっていままで気づかなかったさまざまな問題点が見えてくることがある。体調の変化を感じやすいのはこのときなのだろう。

 しばらく大きな行事がないので、ここはペースを崩さないようにしたい。

地元意識

 グローバルな時代であれば細かい差異はどうでも良くなるはずだが、実はそれほど簡単ではない。広範囲の流通を前提とすれば、最大公約数的な商品が大量生産され、個人的地域的な趣向性は優先度が低くなる。コストを減らすために多くの人が妥協できるラインを目指して作られるからである。

 このいわば合格点ギリギリのアイテムに私たちは比較的早く順応してしまう。それは価格とか手に入れやすさの方が選択基準の上位になってしまうことによる。本当に欲しいのはこれではないが、安いからこれでもいいか、といった妥協が容易になされてしまうのだ。

 ただ、この我慢も積み重なるとストレスになっていく。何か違うものに囲まれた日常が陳腐に見えてしまうのである。やはり、本物を目指そうという機運がときどき起こる。ただ、そのために費やす代価の大きさに挫けてしまうことも多い。

 個人的なオーダーメイドが無理でもせめて自分の所属するコミュニティの好むものを得たい。そういう気持ちが地域社会に定着すると、ちょっと高いけれど満足できる品物が集まっている店の経営が成り立つ。その意味での地元意識は意外にも大切なことかもしれない。

 満足できる品物を大切に使い、大量生産、大量消費、大量投棄のサイクルを断ち切ることが未来のこの国のあり方として適している気がする。