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台風接近

大人しくして

 台風が接近している。今回は台風そのものの規模はさほど大きなものではない。ただ、台風が運んでくる雨が災害をもたらすかもしれないと言われている。

 今朝はすでに薄い曇天であり、やや強い風が吹き始めている。時折雨も降って路面を濡らしているが、強風がすぐに乾かしてしまうようだ。お盆の休みを楽しみにしている人も多いはずなので、できるだけ大人しく通り過ぎてほしいと思う。

 8月は年間でもっとも台風が上陸しやすい月だという。最近のように真夏の日々がいつまでも続く気候になると、過去の統計は参考にならなくなるのかもしれない。

登山の意味

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 そこに山があるから。イギリスの登山家ジョージ・マロリーのエベレスト登山に向けた情熱を述べた名言だ。彼が最終的にエベレスト山頂付近で亡くなっていることもこの名言に価値を与えることになってしまった。エベレストのような特別な人しかたどり着けない山ではなくても、人は山に登りたがる。それはなぜだろう。

 高いところへのあこがれは多くの人が共通して持つものだ。高所恐怖症の人は別にみえる。これは考えてみれば高所を特別に感じるからこその感覚であり、あこがれの表現方法が反対の絶対値に振れているのだともいえる。高い場所は日常を超越することであり、そこに快感がある。確かに山は多くの場合それを満たしてくれる。

 しかし、もう一つ大きな要素がある。山頂は限られた面積しかない。その地を占めるということに意味があるのだろう。特別な空間に身を置くことで、確かに自分が生きているという実感が持てる。山でなくてもいいが、人間にとって山頂は特別で限定された空間という意味では象徴的である。高いところならばどこでもいいかといえばそうでもない。山は少なくても人間の一生を単位に考えればほぼ不動の存在である。地質学的には山も動き、海底が山頂になることもあるというがそれは実感からは程遠い。

 エベレストは誰にとっても世界最高峰であり、富士山は日本最高峰だ。万人に共有できる特別な地は、実はそれほど多くはない。マリアナ海溝は世界最深と言われているが、超高性能の潜水艦でようやくたどり着けるかどうかだ。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地だが、それらの信者以外にとっては面倒な歴史を持った場所に過ぎない。万人が認める特別な場所はやはり山頂だろう。特別な場所を踏むことに登山の意味があるのかもしれない。

 古代のことを研究すると山は聖地でもある。山岳信仰はいろいろなところにあるし、多くの民族に共通する。特別な場所は信仰の場所になり、宗教の対象となる。信仰の具合によっては入山禁止になるか、もしくは山頂に立つことを神に求められるようになる。これも登山する要因の一つだろう。

 さきほど生きていることの確認のために山に登るという可能性を述べたが、生きていることを感じる方法はいろいろある。その一つが死との接点に立ち、彼岸に渡らないことである。死の危険を冒しながらも、生き続けることによって生命を実感することができる。いわゆる冒険である。これができるのも登山の意味なのかもしれない。本当の高山では実際に遭難死する人が後を絶たない。しかし、低山であっても日常とは異なる世界を歩くことは一種の冒険であり、生の実感を獲得できる機会になる。

 登山には憧れるし、遭難者のニュースに接すると悲しくもなると同時にどうしてわざわざ命の危険を冒したのかと思うことがある。今回考えたのはそのいくつかの可能性に過ぎない。そこにあるから登るというだけでは説明できない何かがあるのだろう。

制約も

このブログはたいていスマートフォンで書いています。今日は違いますが。
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 おかげさまでブログを書き続けられている。WordPressを始める前から数えると今日で約13年皆勤していることになる。何事にも飽きやすい私が、これだけ続くとは思っていなかった。それなのに読んでくださる方が増えないのもおかしいけれども。

 今日から短い夏休みに入った。いつも思うのだが、ブログを書こうと思っても休みになると進まなくなる。なぜかと言えばいくらでも時間があると思うからだろう。普段は通勤電車の10分程度で文章を書く。最近はレンタル写真やアフィリエイト広告をつけたりすることも多いので文章作成にかかる時間はもっと少ない。話題を決めて一気に書く。結果として内容は薄いがとにかく継続だけはできている。

 ところが休みになると何を書こうかと悩み、ネット検索など始めると全く進まなくなる。いつでも書けると思うといつまでも書けない。電車の中ではたいていはカバンを抱え、混雑する電車に他人の迷惑ならないように身を縮めて立って片手でスマートフォンで入力する。目的の駅はすぐに着くので雑念は捨てなくてはならない。この時のスマホはネットにつながってはいるがネットは見ないただの入力用ディバイスである。だからとにかくでっち上げられる。拙速を尊ぶのである。

 制約をかけて物事を考えることも時には必要である。もちろんいつもそうであってはならない。熟考熟慮する時間があってこそ、でっち上げもできるのだから。この考え方を生かして速読と早書きの時間を意図的に持つようにしたらいい。

デジタルメモ

 デジタルメモといえば手書きのノートパッドのようなものを連想する人は多いだろう。最近は安価なものがコンビニでも手に入る。残念なのは保存や転送ができないことだ。できる機種もあるのだが途端に値段が跳ね上がる。もう一つのデジタルメモがポメラなどのキーボード付きの媒体である。これにはモノクロ液晶と小型パソコン並みのキーボードがついている。メールもネットもできない。ひたすら文字を入力するだけのためのものである。私が今一番欲しいのはこれだ。

 ポメラで入力したデータはQRコード化され、それをスキャンしてパソコンやスマートフォンに転送するという。その発想も面白い。最新機種はWi-Fi接続もできるらしいが、とにかく文字入力以外のことはほとんどできないのがこのデバイスのおもしろいところだ。6万円前後の価格は低機能パソコンと同じくらいであり、少々迷う。毎日重いラップトップを持ち運んでいることを考えながら、ほとんど文字入力しかせず、ネットの誘惑で一向に仕事が進まない体たらくを思えばこうした割り切りも意味があるのかもしれない。

 私にはこのような機械に対する執着が定期的に起こる。中には使い込んでいるものもあるが、すぐに飽きてしまったものもある。使い込んでいるものは自分の学習や仕事を大変革したが、そうでないものは無駄金になった。このデバイスはどうだろう。もう少し考えてみたい。

簡単に作れるコバエとり

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 コバエが発生すると厄介だ。トラップのようなものも売っているがあまりとれない。困っていたところ、小学生のころ教えてもらったやり方を思い出した。それをもっと簡単に工夫したら結構取れることが分かった。

 小学校でなぜかショウジョウバエの観察をしたことがある。産卵から成虫になるまでの時間が短いので観察に向いていたのだろう。今から考えると何がうれしくてハエを飼っていたのかと思うが、同じようにアリも飼っていたことを思えば、我ながら子供のころの好奇心はどこに消えたのかと思う。

 さて、小学生の時のハエのとり方は口の小さめの瓶に果物のカスなどの餌を入れ、紙で漏斗をつくりかぶせると、コバエは入ることはできるが出ることはできないというものだった。漏斗をどう固定するかが問題なるが確か輪ゴムか何かで留めたのだろう。結構捕ることができた。

 このことを思い出したが、もっと簡単に同じ効果を再現できないかと考えたところ以下の方法にただりついた。ペットボトルのキャップに錐などで2ミリくらいの穴をあける。一つでも二つでもいい。錐を刺すときは外側から行う必要がある。ペットボトルに醤油をほんの少し入れる。穴をあけたボトルのキャップを締め、ハエの出そうなところに置く。

 すると面白いようにハエが入っていく。どうもハエはにおいに敏感らしく、醤油に誘引されていくようだ。さらに穴に潜り込む本能もあるらしい。一度入ったら出るのはかなり難しい。だから結果としてどんどん取れていく。飲み終わったあとのペットボトルとごくわずかな醤油だけで効果がある。もう金を使ってトラップを用意する必要はない。コバエに困っている人がいれば試してほしい。

使う分だけ作るエネルギー

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 資源のない国にとってエネルギー問題は死活問題である。発電に限って言えばほとんどを火力で行っている。2020年度のエネルギー供給では、化石燃料による火力発電が76.3%を占め、その原料は石油が6.3%、石炭が31.0%、LNG(液化天然ガス)が39.0%だった。原子力発電は東日本大震災以来停止している発電所が多い。再生可能エネルギーとして、水力、風力、太陽光、水素、地熱などのエネルギー源もあるが、いずれもコスト、効率などの問題点を抱えており、普及していない。

 これらのすべてに共通するのは使用するエネルギーを大規模な発電施設に依存し、そこから送電したものを消費するという考え方だ。ここを変えていかなくてはならないと考える。もちろん最低限のインフラとして公共施設は安定した大規模エネルギー施設からの供給を受けるべきだろう。しかし、その一方で個人や企業が自分の消費するエネルギーの半分以上は自前で生産できるシステムを作るべきではないだろうか。

 太陽光パネルや風車による発電はイメージしやすい。しかし、現状では効率が悪く、設置や廃棄にかかる費用やカーボンニュートラルの方面に関して問題があるという。技術者の皆さんにはこの点に注目し、小規模発電でもいいので安全に確実な製品を開発してほしい。かつては屋根の上に太陽光温水器をつけている家庭がかなり見られた。太陽光パネルもある程度利用されている。それぞれには問題もあるようで改良はしなくてはなるまい。集合住宅でも同様の工夫はできないだろうか。鉄道などは各駅や線路わきに太陽、風力などの発電施設を作ることはできそうだ。高層ビルも屋上や壁面に発電システムを組み込むことはできるのではないか。

 基本的な概念は使う分だけ作るというエネルギーに対する考え方を変えることである。作れる以上のエネルギー消費はしないという精神にもつながる。このイノベーションこそ、日本を世界を変えるものとなるだろう。

ひかえめに

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 かなりひかえめに蝉が鳴き始めた。今年は蝉が少ないと思ってしまうが、真実は蝉の鳴く季節の前に真夏の暑さが来てしまったということだ。

 蝉が鳴くと生命の高まりを感じることもあるが、騒がしくもある。しかし、あるべき風景に蝉が鳴かないと何かおかしいと感じてしまうから不思議なものだ。ニイニイゼミは年々少なくなっている気がするし、アブラゼミやミンミンとともにクマゼミも増えてきたと言われている。そのどれもがいまのところほとんど鳴いていない。

 昨日は近隣の市で出された洪水に関する避難勧告の警報音に驚かされた。被害は出ていないようだが、今後も豪雨が降る可能性はあるということなので気をつけねばなるまい。

蝉しぐれはまだ

 約一か月早く来た猛暑の日々だが、ここまでのところ何かが違うと感じていた。それはあの騒がしい蝉の声が聞こえないということだ。数日前の新聞でも報じられていたが、同じような違和感を持っている人は多いはずだ。

 セミが鳴かない理由は簡単に言うと季節の進行の速さについていけていないということらしい。蝉が成長する前に気温が上がってしまったというわけである。昨日の朝、私の住まい近くでは多くの羽蟻が発生した。ようやく昆虫の世界が季節に対応し始めたのかもしれない。

 セミのいない夏が終わり、まもなくセミの鳴く夏が来る。まだ暑い日が続くのかもしれない。いろいろな意味で調子を外しそうだ。変な季節を楽しむしかあるまい。

サクラ

充電設備が鍵

 日産自動車の電気自動車サクラは価格が抑えられたこともあって、普及が考えられる。課題は充電用のインフラが十分でないことだ。

 電気自動車が環境対策の最適解なのかという疑問は消えないが、少なくともヨーロッパからはガソリン車はなくなっていく。日本も時代の流れにはついていく必要がある。水素エネルギーの開発などの次世代技術を進めながらも、近未来的にはEVの時代を通過することは間違いない。トヨタも大胆な電気自動車化を発表しているが、日産の動きは速い。LEAFは先駆的だが、価格が高すぎる。中国の格安の電気自動車や韓国の比較的高性能な電気自動車は日本の先を行っている。

 日本の電気自動車といえば三菱のアイミーブという先駆的存在がある。これも軽自動車の車体であった。三菱を傘下に置く日産に技術者が合流したこともこの流れに何か関係しているのだろうか。日本の風土には軽車両があっており、一定の需要がある。今回のサクラは軽といっても大きめの車両である。安全性とエネルギー系のインフラが確保できれば普及も考えられる。

通信障害から

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 KDDIの通信障害の回復にはかなり時間がかかっているようだ。我が家のau端末はいったんアンテナ4本を取り戻したのに、いまは「圏外」になっている。自宅のWi-Fiが頼りだ。おそらく技術者の皆さんはいま難題に立ち向かっているのだろう。障害発生には責任追及が必要だが、その前に回復のために尽力している皆さんに敬意を表しておく。

 さて、この障害から分かったことがいくつかある。まずこれが一社のサービス不調にとどまらないということだ。気象通信システムや電子決済、チケットなどのサービスが使えなくなったという。インターネットが前提となっているサービスが軒並み影響を受けたというのだ。この騒動で知ったことだが、コネクテッドカーなる自動車のICTサービスというものもあるらしい。トヨタ自動車はKDDIとの親和性が強いらしく(出資しているらしい)、トヨタの最新設備も影響を受けているようだ。IoTの時代ではもう電話ができないというだけでは済まないのである。

 何かを仮に消してみたら生活がどう変わるかという思考実験のようなものは私たちが時々試みることだ。今回のように本当にそういうことが起きたら、見えなかったものがいきなり表面化する。ついでに想像をたくましくして考えてみよう。渋谷に行くときに東横線が止まったらJRにするとか、地下鉄を使うとかはよくあることだ。通信会社はどうだろう。A社がだめなら、一時的にB社が肩代わりするといったことは通信の世界ではできないのだろうか。東横線から振り替え輸送してきた客でいっぱいになった東海道線がさらに遅くなる、最悪の場合止まってしまうということもあり得る。ならば初めから振り替えなどしない方がいいのか。9時までに渋谷につかないと大切な契約ができず、財産を失うというひとの場合はどうなのか。そういうたとえをいちいち考えておく必要を感じたのである。

 家族割のようなものを使って家族をおなじキャリアのユーザーにしてしまうのは業者にとっても、利用者にとっても価値があるものと思っていた。しかし、今回のようなことはこれで最後ではあるまい。どこかが止まったら別に切り替えるという選択肢を持っている方がいいのかもしれない。あるいは何もせずに駅のベンチで待って紙の本を読んで賢くなる方が実は一番懸命なのかもしれないが。