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進路の複線化

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 日本の学校制度は様々な選択肢を用意してあるが、実際には大学を卒業したホワイトカラーが他を圧倒するという社会の在り方を維持するように設計されている。いわゆる「学力」で振り分けられた「エリート」が多くの利を得るというやり方だ。

 もちろんそういう方面のエリートは必要であろう。情報処理に長け、高度な判断力を持つ人材は必要だ。特にマクロ視点やメタ認知ができる人材はこれからますます必要になる。大学はもっと真剣に勉強をするところになるべきだし、そこを卒業できたものにはそれなりの報酬を用意するべきだろう。でも、それだけでいいのだろうか。

 人間の尺度は今の様な学力試験だけではないはずだ。人の価値はもっと多様に評価されるべきだということは多くの人が感じていることだろう。例えば職人といわれている人々はそれなりの評価を得るべき存在である。さまざまな技術を支えている人々にも評価すべき人がいる。そういう人が一般大学卒である必要はないし、大学を卒業することが社会的ステータスの基準になること自体が間違いなのではないか。

 もし、今までとは異なるタイプのエリートを尊重する方法を考えるならば、場合によっては職業高校の評価をもっと上げる必要があるのかもしれない。あるいは学校とは別組織の教育機関に社会的な評価を与えることが必要だろう。技術者や芸術家といった人材は大衆教育にはなじまないかもしれない。しかし、彼らの地位を上げることでそれを志す人は増え、結果的に技能の底上げができる。結果として社会全体の利益になる。

 このようなことは昔から言われている。私の独創ではない。しかし、これだけ情報化社会になり、グローバル化がすすんでも一向に人間の評価の多様化が起こらないのはなぜだろう。もしかしたら、こういうことからイノベーションは起こるのではないか。

公共性と営利性

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 社会が変動し、なおかつ縮小傾向の経済状況にあって、日本の状況は不安定になりつつある。一部の資産家が社会的な影響力を持つ組織を支配し、自らの営利目的に従って社会を動かすことも実現しやすくなっているのかもしれない。

 最近よく言われるのが効率性とか生産性という言葉だ。日本の組織は生産性が低い、それは不要な人材や競争力の低いセクターの団体や企業を保護しているからだという論調が多い。これには検証がいる。本当にそうなのだろうか。確かに国際的競争力は低くなりつつある。それでも総体的には強固な組織を維持できていることにはまったく意味がないのだろうか。

 この手の論にはどこかに誇張が隠されている。そしてその裏には意図的か無意識なのかは分からないが一部の優位な人が損をしないような仕組みが隠されている。営利の追求こそが社会をよくするという飛躍が巧みに織り込まれている。ここには大きな陥穽が待ち構えている。

 その一つが公共性の問題だろう。果たして営利性の追求だけで社会は成り立つのか。営利追及の中に公共性の視点がなければ、少しづつ社会は壊れていくのではないかという危惧を私などは持ってしまう。アメリカの巨大企業が世界に大きな影響をすでに持っているのは周知のとおりだ。各企業にはいまのところ公共性に対する配慮がそれなりになされている。でも、どうだろう。その組織のいずれかに何らかの危機が訪れたなら、公共性を維持できるだろうか。最近のTwitterの動向をみているとどうも怪しい気がしてならない。

 我が国が(おそらくアメリカや中国など以外のどの国でも)大切にしなくてはならないのは、そうした巨大な営利活動に翻弄されないことだろう。また自国の企業も単なる資本追求の段階を脱し、社会的公共性を意識していくべきだろう。そのためには企業や組織のリーダーのみならず、多くの国民の意識をこうした考え方にしていく必要がある。

 産業界ではパブリックアフェアーズなる概念で公共性が語られる。これは公共性のなかに商機を見出そうという裏の目的もあるようだ。ただ、単一の企業や組織にとっての利益ではなく、社会的な目的を考慮に入れようとすることには賛同したい。

変装ではなく変身を

 ハロウィンが近い。このところコロナ自粛が続いていたが今年はどうなるのだろう。単なる乱痴気騒ぎならばやめた方がいい。

 ハロウィンはアメリカを中心に行われている子供の祭りだ。収穫祭と祖先崇拝とがその根本にあるという。原始的な宗教が背景にある。それがなぜか日本では大人が参加する変装大会のようになってしまった。死者のふりをして町を練り歩くというのは、日本の祭りにも通底する何かがある。ただそれを意識することは少なく、先にも述べた仮装パーティーとなっている。

 大人が喜んで変装をしようとするのはなぜだろう。もうそこには信仰的なものはない。自分のために変装をしている。現状に甘んじてがんじがらめになっている状態をなんとか打破したい、という想いは変装という行動で晴らそうとするのだろう。実際は顔に何を塗ったところで状況に変化は起こらない。

 本当に必要なのは一時的な変装ではなく、変身することだ。それにはかなりのエネルギーがいる。今と違うなにかに変わることを目指していればいつかは変われるはずだ。それができてこそ、自己肯定感が得られる。とりあえず覆面してみて、そのうえでもっと大きな変化を期待し続ける。そうすればいつかは変身もかなうはず。そのように考えている。

マルチタスクできない

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 一度にいろいろなことをこなせる人をかつては聖徳太子の能力に例えた。確か七つの話を同時に聞いて対応できたとかいう。根拠がある話ではない。聖徳太子伝説は様々あるが、異能譚の一つであろう。最近は7つくらいでは収まらない。コンピュータの出現でマルチタスクは当たり前となってしまった。

 しかし、いくら高性能のコンピュータが普及したとはいえ、それを操作する生身の頭はそれほど高性能ではない。特に私のような旧型はすでにかなりがたが来ている。パソコンを操作していて困るのは違うウインドウなりタブに移った瞬間にこれまでやっていたことを忘れてしまうことだ。これはいかんともし難い。それだけではない。通知が来たり、たまたま間違ったタブを開いたときに気が散って別のことを始めたりすると、もう前のことが進まなくなる。注意散漫というより、分裂しているといった感じのありさまだ。

 少なくとも私はマルチタスクには全く向かない。一つ一つを愚直にこなして何とか人並みにそろえるのが関の山のようだ。それなのにパソコンを使うたびに先に述べた罠にはまる。これは精神衛生上とてもよくない。私の疲労の原因のかなりの割合にこの問題があるような気がする。

冷え込み

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 寒気が南下して気温が下がっている。今日は15度前後までしか上がらないという。薄いコートを着て出勤することにした。

 上着が増えると困ったことがある。ポケットに何でも入れてしまう私はそれがどこに行ったのか分からなくなるのである。今年はコートのポケットには何も入れない、入れるとしてもひとつの場所だけと決めることにする。

 まるで小学生の誓いのようだが、私にとっては結構切実な問題なのである。

戻ってきた賑わい

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 今日は東京の都心に出かけた。好天であったせいかかなりにぎわっていた。外国人らしい姿も多くもとの街の賑わいが戻ってきたようだ。経済的な停滞は大きな問題だが、少なくとも都心の様子はかつてと変わらない。

 コロナウイルスの克服にはいまだ至らず、感染者の数も多いままだ。しかし、インフルエンザのレベルの警戒感になりつつある。特効薬がないのは同じだからだ。油断はできないが、あまりに警戒しすぎてもいけないということだ。世論がそのように流れてきている。マスクを外す人も出始めている。それを非難する人も少しずつ減りつつある。

 私はといえば、マスクをつけることがすっかり習慣化してしまった。つけないでいると何か不安だ。感染不安ではなく、様にならないという思いがしてしまうのだ。これも問題だと思う。いろいろな意味でこの数年間で生活や精神状態は激変してしまった。

たわわ

みかん

 以前も書いた隣家の蜜柑の木が豊作の果樹のために大きく撓んでいる。中には地面に付きそうな枝まである。

 道に面したこの木は手を伸ばせば誰でも取ることができる。にもかかわらず誰も手を付けず、鳥たちも餌にしていない。まるでもう少し甘くなるのを待っているかのようだ。

 木には言葉がないのでこの状態をどう考えているのか分からない。実の中に仕込まれた種を遠くの適地に運ばれることを期待しているのだろうか。多大なエネルギーを消費して自らの生命を危険にさらしてまで結実させようとする命の営みに感服する。

誰が縛っているのか

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 中国では言論統制がなされているとはよく報じられる。特定のニュースが意図的に報じられないとか、ネット検索ができない用語があるといかいうことだ。しかし、このインターネットが普及し、人々の国際的な往来が活発なグローバル社会においてその程度で統制などできるのか。いつも疑問に思っている。

 習近平国家主席の異例の長期政権の中で、言論統制が進行しているといわれる。しかし、日本を含めて海外に渡航する中国人は多い。また高学歴かつ、高度な技術力をもった人材も多数存在している。かれらが統制や検閲の存在を知らないはずはなく、実際に海外で目にしたことが中国の国内での知識と相違することなどすぐに分かるはずだ。それなのになぜ統制が効いているのだろう。

 為政者による技術的な情報統制には限界がある。処罰を重くしたところでいずれは破綻する。なのにそれがいつまでも進行しているのは、縛っているのが政府ではなく、国民自身だからなのだろう。つまり、自分自身のアンテナをへし折り、聞こえないふりをすることで海外の影響を食い止めているのだろう。その下地は教育にあるのかもしれないし、政府の意向にそって生活をするものが社会的成功をおさめ、反するものの陰惨な結末をいくつも目にし、耳にしているからかもしれない。縛っているのは自分自身なのではないか。

 中国のことを想像で言ったが、これは日本人にも言えることだ。言論の統制などないと思っているが、さまざまな不文律はあると言われている。これが注意深く意識から外される。自由に発言しているかのように見えて、その枠組みのなかで思考し行動する。はみ出すことを自主規制しているのかもしれない。

 言論の統制というものは意外にも簡単に達成できることになる。何が原因で人は口を閉ざすのか。目の前の異常事態を見逃すのか、政府の圧力という単純な判断では本質は見えない。

郵便は遅い

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 かつては郵便に頼っていた時期があった。いろいろな文書が郵送され、それによって事務手続きがなされてきた。しかし、どうもこれからはあてにはならなくなる。デジタル化の中で実物配達の郵便は別の使い方をするべき時が来た。

 日本郵便のサイトによると、郵便法が改正されたことにより、普通郵便の土曜日の配達が廃止されている。また、いままで翌日配達の地域だったところも原則として1日追加で配達される。月~水の消印が押されると、その地域は2日後の配達が見込める。しかし、木曜消印だと到着は4日後の月曜日だ。金曜消印も月曜なので3日後、土曜に受け付けられた場合は火曜配達で3日後になる。日曜受付は2日後に戻る。さらに、もともと翌々日配達だった地域は月、火に引き受けてもらえれば3日後に配達されるが、水曜だと5日後、木、金曜ならば4日後、土日ならば3日後になる。土日は郵便局も開かないので現実的には月から金の中で投函日を選ばなくてはならない。ポストの収集時間にも気を付けるべきだ。

 以上から考えるにこれからは普通便で早く届けたいなら月曜に出せということだ。土日にかかる場合はそれだけ配達日が遅くなる。まだ返事がないとかと相手を非難する前に、自分がいつ投函したのかを気にしなくてはならない。配達日を気にしないなら速達やゆうパック、レターパックなど付加的料金を惜しんではいけないことになる。申し訳なのか速達料金が290円から260円に値下げされている。

 デジタル化の旗振りたちは、だからもう電子にしましょうと声をそろえる。しかし、そう簡単にはできないものもあるのだ。私は仕事で手紙を出すことが多いが、週初めに仕事を終わらせて郵送するか郵便料金をケチらないことを心がけるしかない。相手からの返事も気長に待つとする。

 

日本のエンタメ

海外から日本のエンターテイメントを観に来る方もいるはずだ。日本人にはちょっと高いがあなたならお安く観られるだろう。

 伝統芸能の能や歌舞伎は見ていただきたいが分かりにくいかも知れない。ならば、数多く開催されている演劇やミュージカルはどうだろう。チケットが取りにくいものもあるので事前にエージェントに相談することをお勧めする。

 スポーツもいい。野球はあの大谷もプレーした日本のプロ野球をお勧めしたい。まだ対戦カードは確定していないが、東京か大阪か福岡の球団だから観光ついでにいい。アメリカより地味かもしれないが試合は面白い。サッカーやラグビーもある。そうだ羽生君は引退したがフィギュアスケートもある。

 音楽もいい。一流のクラシック演奏があちこちで聴ける。海外のアーティストが日本には数多く来日している。お目当てはアイドルですか。それなら、チケットの取り方をエージェントによく相談するといい。

 いろいろなエンターテイメントがあなたの来日を待っている。お越しください。