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知音

 知音とは親友のことである。中国の故事によれば琴の名手が弾く演奏の意味や込められた心情を見事に言い当てる者がいた。よき鑑賞者であったことになる。この人物が死ぬと、琴の名手は二度と演奏をしなかったというのがこの語の背景にある。

 親友とはなにかといえば、自分の心をこのように理解してくれる人なのだろう。利権や一時期の感情で結ばれたわけではなく、もっと深い相互理解に基づくものなのかもしれない。このレベルの友人となると一人いるかいないかの話になる。

 ソーシャルメディアでいう友達はこれとは全く異なる。相手のことなど何も知りはしないが、とにかく関係性を持っていたいと刹那的に思えば友達になる。友達になるのは1回のクリックで、友達をやめるのも同じ行動で可能だ。こういうのが実人生のいわばもどきであり、現実とは全く異なるものであると認識できる世代はまだいい。もしかしたら、私の世代も含めて、この軽薄な友人関係が人生の価値のように考えている人が増えているのではないかと心配する。

 知音は人生の中で会えることはもしかしたらないかもしれない。でも、そういう存在を求めることや、自身が誰かの知音になるときがくることは考えておくべきではないだろうか。

 

条件付きミニマム

 ミニマム生活をしている人の話を聞くと、結局余裕のある人だということが分かる。捨て去ったのものはレンタルや公共物で済ますというが、それにはコストがかかる。非常時には相場が吊り上がるがそれも見越している。つまりは手元資金があり余裕のある人たちの選択なのだ。

 残念ながら私にはそれがない。いざというときにはいまの蓄えが担保となっている。これは残念ながら現実だ。少しこの考えを変えていこうと思う。

 ただ何でも捨ててしまうミニマリストの考えは受け入れられない。どんなに無駄なものでも本人にとって大切なものは持って置くべきだ。それが他人には無価値なものであったとしても。

 私はそこで恣意的な物質放棄を始めることにした。世の中の価値観ではなくあくまで自分の物差しでいらないものを処分する。条件付きミニマムで整理をしていこう。

漢字の練習

 手書きの生活がなくなると漢字が書けなくなりやすい。私は学校で教える立場なので手書きで文字を書く生活が続いているが、それでもこのブログをはじめとしてキーボード入力の方が増えている。だから例えば板書をしながら文字を忘れてしまい生徒に笑われる(心の中で)という経験を何度もしている。

 漢字のリテラシーを保持することに関してはやはり手書きする生活を守らなくてはならないと思う。このブログをお読みくださる方はおそらくかなりの文章を読むことには抵抗がない方だろう。私のような生硬な文章を読んでくださる方は残念ながらそう多くはない。文字ばかりの画面を見て、しかも常体のぶっきらぼうな文章を読み通せる人が少なくなっているのは残念ながら事実だ。こうした日本語の文章表現において欠かせないのが漢字の知識であり、読めればいいなどと高を括っていると次第に書けなくなり、書けなくなると読めなくなっていく。

 いまさら漢字の問題集を広げる必要はない。何かメモするとき漢字で書くようにすればいいだけだ。分からないときはスマホや電子辞書で調べてもいい。でも、手書きで書くことを最終段階に持ってくると忘れない。字を忘れないことは日本人にとっては実はとても大切なことであることは脳科学の方面でも様々に言われている。健康対策にもいいのかもしれない。

和食

 よく和食は健康にいいと言われる。概ね正解のようだが、それだけでもないらしい。最近は高齢者も積極的に肉を摂るべきであり、和食だけでは健康年齢を伸ばせないと言われている。西洋的な食事だけならばよくないが、和食だけでもよろしくないということなのだ。

 思えば和食とは日本の文化の反映だ。日本文化は時代とともに海外の良いものを取り入れ、独自にアレンジしてきた。平安時代の食事と現在のそれは全く異なる。だから、時代の要請に基づいて新しい調理方法や素材を用いることは和食の伝統にもなりうるのだ。これこそが和食であり、それ以外にはないという考え方はJapanese Styleの本質ではない。懐の深さこそが日本文化なのだから。

 だから、いわゆる和食にこだわり、海外の食生活を忌避したり、逆に和食の欠点を論いその本質を考えないのは的を射ていないということになる。これからどんな和食が誕生するのかそれが楽しみである。







共有されていく生活

 縮小する日本の生き残り策としてシェアハウスはもっと増えるかもしれない。個々の生計が成り立たないならば契約を結んだ者同士で共同生活をすればいい。そう考える時代が来るのかもしれない。

 光熱費や各種の税金は個別に支払うより、割安になる。いまいうシェアハウスはどちらかと言えば若い世代の仮住まいだが、今後は高齢層もこの形態に絡んで来るかもしれない。制度上の問題点を解決できれば一挙に進む可能性もある。

 寝室などのプライベートスペースを除いて多くが共有される。これは現在の価値観ではかなり無理を感じる。個々人の主義、趣味嗜好が異なるのに最もプライバシーを要求される家庭までもが共有化された空間にあるという風景は想像しにくい。しかし、価値観そのものが変化を遂げるなら話は変わってくる。今後、様々なものが共有化され、それが当たり前になっていく時代が来るかもしれない。

素顔恐怖症

 マスク生活が終わろうとしている。私の場合は花粉症対策もあり、しばらく後になるがそれもそう長くはない。道行く人が皆マスクをしているという異常な光景は間もなく見納めだ。しかし、復帰にはいくつかの関門がある。

 コロナのパンデミックが始まる以前から常にマスクを外さない人がいた。身体的な要因からではなく、心の問題であった。自分の素顔を晒すことに極度な恐怖を感じるのだという。マスクをする代わりに派手なメイクをしたり、中には奇抜な衣服を身に着けたり、異性の服装をする人もいる。衆目を集めることになるが、見られるのは自分自身てはなく、自分が作り出した容姿であるという安心感があるようだ。

 マスクはこうした素顔恐怖症の人たちの救いであった。これからもそうなるはずだ、この症状には濃淡がある。私もその薄い症状になっている気がする。マスク越しでないとできなくなった何かがある。

 恐らくこうしたおそれは日常生活の中で徐々に消えていくのだろう。どうしても難しいときはまたマスクをつければいい。その意味を理解する人は以前より格段に増えているはずだから。

理に任せる

 困ったことだらけの毎日をもがきながら生きている。皆さんも歳を重ねると分かることがある。この世は決して思うがままにならない。過去のいい思い出を基準として、そこからどれだけ下がったのかばかり気になる。これは仕方ないことだろう。

 そういう時に一番楽なのは既成の生き方の手本にすがることだ。それが宗教や哲学の出番である。宗教ならばそれを支える組織があり、組織の一員となれば一定の満足感は期待できる。某カルトのようなここにつけ込む集団もいるから気をつけなくてはならない。ただ、本人が安心できる環境を提供してくれるのならやはり宗教の存在価値はある。

 哲学というのもそれに似ている。ただしその教えもしくは考えを実際に支えるのは個人の意志であって、誰も導いてはくれない。別の方向に迷い込んでもあくまで個人の責任である。それでは困るから哲学には処方箋のようなものがほしい。

 理に身を委ねることは甘美な誘惑である。適度に用いれば救いになるが危険を伴う行動である。

マウント

 ここ数年よく聞くようになった言葉にマウントがある。相手より優位であることを意図的に示し、心的な有利に立とうとすることであるという。本来は物を乗せるという意味である。物理的に上に乗せなくても、コンピュータのプログラミングにおいて、一定のシステムを加えていくことにも使われている。また、格闘技では相手に馬乗りになり制圧すること、柔道における寝技のようなものを指すこともある。このマウントという言葉が頻繁に使われるようになっているのはなぜだろう。

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 様々な要因があると思うが、一つには自分の個性が埋没してしまうことへの反動にあるのではないか。格差が厳然としていた身分社会ではマウントは当然であり、改めて言うまでもない。不平等な日常の中で暮らしていれば、そしてそれが当たり前であれば優位を訴える必要もないし、劣位を悩むこともない。構造的な問題は長い時間を経て解消されようとするかもしれないが、短期的には精神的な葛藤はおきない。歴史に学ぶことで分かる。長く続いた封建社会の間の人々はどうして不満を訴えなかったのだろうかと考えれば、現代人が思うような人権なり平等の意識が希薄だったからというしかあるまい。

 現代社会でも格差はあるが、それは丹念に覆い隠されている。法の下に国民は平等であり等しく権利を持っている。実際にある格差はその許容範囲の中にあるものであり、暴動を起こして社会転覆をするまでもないことなのだと日本人のほとんどは考えている。それでうまくいっているのだから、世の中をあえて乱す必要はない。

 でも、この意識は人々を等質化するあまりに、個々人の存在価値を軽くする方向に進みやすい。平等ということはAさんもBさんも等価値であり、置き換え可能ということになる。それでは私の存在というものは機械のねじのようなものと考えるべきだろうか。心理的にはそうはいかない。だれもが自分は特別な存在と思っているはずだ。その意識の表れとして、私は人とは違うということをあえて表明することが起きる。どうせなら自分は他より優れていると言いたい。それがいまマウントと呼ばれている行為なのだろう。つまり、マウントをすることは強がりであり、場合によっては悲鳴のようなものだったのだ。

 マウントはおそらくする方より、された方が感じることが多い。それは先に述べた相手も自分も同じ資格・能力なのにどうしてことさらに自分が劣位にあると感じさせることを言うのかという批判、非難からの心理なのだろう。私自身もそう感じたことが多々ある。

 しかし、よく考えてみれば人間が等価値であることは幻想であり、人それぞれに個性がある。個々の技能や能力にもある基準を設ければ優劣が発生することもある。というより、みな違うのが当たり前だ。だから、私はお前より優れている、そんなことも知らないのかと言われたら、それを認めるしかないこともある。そして、そんな当たり前のことをなぜことさらに口に出さなくては済まないのかと憐れむべきだろう。たまたま優れた才能なり知識なりがあるのに、それをうまく使えず自分より少し知らない人に向かって自慢している程度なら、その能力は使えていないということの証だ。宝の持ち腐れ、もしくはその力の不足を嘆いているのだと同情すべきことである。

 私たちは平等の意味を考え直す必要に迫られている。平等とはみんなが同じというわけではない。本当は随分違っていても、それらを同じものとして権利を与えるための方便だということを考えるべきだ。社会が作ったかなり人工的な仕組みである。その仕組みを使えば多様な人々が共生できる。今の流行語のマウントはこのことが曖昧になっていることを表しているのではないか。

読み聞かせ

 読み聞かせというと幼い子供に本を読んで聞かせることと考える。しかし、この方法は実は中高生や大人にも必要なのかもしれない。

 圧倒的な読書量がいわゆる知識人の教養を支えていた時代があった。ところが今はあまり本を読んでいなくても要領の良さで試験に受かってしまい、エリートになっているという人物によく出会う。国語の試験のような枠組みが決められた読書はできるのだが、自由に作品の世界を想像したり、作者のメッセージをくみ取ったりするのは苦手である。読書量そのものが減っているから、基本的な読解力が落ちているのかもしれない、

 そこで他人に本を読んでもらい、それを聴きながら作品世界を味わうという方法がある。読み聞かせられたテキストを頭の中で舞台を作り、心の中で映像化するのである。これは読書量が少ない人には有効な方法である。言葉によって形のないものを見えるようにするという試みは、想像する力をはぐくみ、情感豊かな人生を歩むための方法として有効だ。私も朗読の動画を見たり、音声のサービスを時々聞いている。

 読み聞かせなくては本が読めなくなった現代人の知識や感性の不足を補うものと言える。





















運動神経を補うには

 若い同僚と作業をしているとどうしても差がついてしまう。脳の働きにも運動神経は影響し、それが形になって現れるのだろう。ほんの少しの違いでも作業の量が増えれば、厳然たる差となる。これを補うにはどうすればいいだろう。

 まず、大前提として作業の速度は勝負ではない。数分の差に拘る仕事なら参加しない方が皆のためだ。大抵の仕事はそこまで時間には拘らない。大切なのは正確性だ。不適当なものをいかに減らすのかに集中すべきだろう。

 遅い分を何で補うかといえば、経験によるメタ認知を重視することだろう。場面ごとに過去の事例を思い浮かべながら、経験群から外れるものに注意していくという方法だ。

 逆に表現方法は違っても本質をついているものを見逃さないことも、単純作業能力優先組に勝つ方法だ。せっかくの逸材を逃さないのは経験者の役目だ。

 加齢とともに同僚から配慮されることが増えた。親切には心から感謝する。一方でどうしたら彼らに先んじることができるのかを常に考えている。往生際は悪いのだ。