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アジャイル

アジャイルとは素早さという意味があるらしい
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 アジャイル(agile)とは機を見て策を変える手法のようである。ソフトウェア開発で使われていたことばが経営学的にも援用されている。刻々と変わる価値観にいかに適応させていくかを重視する方法であって、不確実性の高い現在の社会状況にまさに適応するために生まれた。

 少し前ならばこういう考え方は低く見られがちだった。一貫したポリシーがないかのように見られがちだったのだ。あるいは弱者が生き残るための必死の策と考えられ、余裕のあるものはとるべきではないと考えらえていた感がある。

 アジャイルのような考え方が主流派に加わりつつあるのは、やはり予測不能の時代への対処を何とかしたいと思っているからだろう。特にわが国には前例踏襲の伝統があるといわれ、それが発展を阻害していると言われている。私はこれには反論がある。

 日本文化は中長期的には常にアジャイルで進んできている。伝統を守ると言いながら常に新しい要素に寛容であった。よく考えてみればこの日本語自体が時代とともに様々な外来のものを取り入れて変化しているではないか。

 昨今の時代変化はこれまでとは異なり速度や影響力が多大である。それに対応するには日本列島に住んできた人たちが土着的に身に着けてきた臨機応変性を思い出すのが一番だと思う。神道的なものから仏教や儒教といった宗教的なフレームを受け入れベースにしながら、次は資本主義や西洋科学の概念を模倣し文化に取り入れた。情報化社会となった現在も海外からさまざまな考え方や物品が来ているがこれを貪欲に取り入れ、和風化し、その都度取捨選択して形を変えていく。日本式アジャイルはここにある。

 完成品ばかりを理想としてそれにランクをつけるという考え方も実は歴史は浅い。なければ自分で作ればいい。そう考えてきた。そうして次々に自分の身の丈に合ったものに変えてきたこの国の歴史的土壌に自信を持っていいのではないか。日本文化が他国のそれと比較して特に優れているとは考えていないが、先祖たちが築き上げ、いまの日本人にも受け継がれていることは確かに尊いものがある。

都合のいい世界

その機械は現実からの目隠し?
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 メタバースという仮想世界に対してアメリカのメタなどの会社が覇権を握ろうと躍起になっているらしい。とてつもないビジネスチャンスがあるらしいのだ。現実では実現できないさまざまな願望を疑似的に満たしてくれるもう一つの世界を演出してくれるというのだ。

 仮想現実というのはゲームの世界だけかと思っていた。しかし、このメタバースの世界はそのなかで商売を行ったり、教育を受けたりすることができるらしい。疑似的な交友関係や結婚も可能になるかもしれないとか。しかもそれは現実社会では得られない自分にとって都合のいい条件で満たされているというのだ。

 もう一つの世界という言い方は多分間違っている。その世界はたぶん一つではない。個々人が思い描く理想をそれらしく見せてくれるものであるから、人それぞれにメタバースがあることになる。他人との接点を持とうとすると、折り合いをつけなくてはならなくなる。すると共有メタバースのようなまた新たな世界が用意されるのかもしれない。

 こうした都合のいい世界を演出するのは技術力を持った巨大企業だ。前述のメタもそうだが、いわゆるGAFAM(社名変更でこういえなくなったが)などのハイテク産業が新たな世界を構築して商業世界を飲み込もうとしている。日本はコンテンツの面で優位にあるが、それもいつまで続くか分からない。ポケモンもドラゴンボールもアメリカの漫画と思っている人が少なからずいる。私たちはメタバースという新世界を楽しむと言いながら、実は企業にとって都合のいい世界を間借りして現実逃避をしているのに過ぎない。

 メタバースに商機があるのは事実だ。チャレンジする価値はある。ただ、現実社会を捨ててまで没入するべきではない。現実を忘れて仮想世界でいくら活躍しても、それは夢物語に過ぎないのだ。このように考えると、メタバースは宗教にも文学にも見えてくる。現実社会を豊かにする材料としてあるのならば存在価値はあるのかもしれない。

写真

Why do you take pictures?
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 人はなぜ写真を撮るのか。そんな作文を中学生に課してみた。もっともZ世代にとっての写真の意味は私のそれとはずいぶん違う。私はシャッターを切るという言い方に違和感がないが、今この言い方はなされない。なされたとしても意味がかなり違う。写真を撮る意味はテクノロジーの進歩以上に変化しているかもしれない。

 父は写真を撮るのが下手だった。ピント合わせも遅ければ、なかなか構図が決まらず家族を待たせた。たいていの場合しびれを切らした家族の不満な表情を撮ってしまうことになる。しかし、これは父が悪いだけではなかった。かつての写真はピント合わせから自力で行った。フィルム代も安くはなく、24枚か36枚程度でフィルム交換をしなくてはならず、その交換も手巻きだった。だから、一枚ごとの撮影は慎重にならざるを得なかったのだ。それでも現像してみたら目を閉じていたということはいくらでもあった。

 今はデジタルカメラだから、何枚でも撮り直しができるし、その場で写り具合を確かめることも可能だ。カメラではなくスマートフォンで撮影する人の方が多い。カメラを持っていない家庭が多いのは昭和時代では考えられないことだった。写真を撮る緊張感はほとんどなくなった。自撮りというよく考えれば不可思議な行動をする人も一般的になった。

 では、なぜ写真を撮るのだろうか。一つには不断の時間の中に生きる私たちのささやかな抵抗だと考える。諸行無常の世界にあってすべては移り変わる。自分の身体でさえ絶えず変わり続けている。昨日の自分はすでに今の自分とは物質レベルで別物になっている。ならば写真もしくは動画でその時点での自分もしくは自分が見たものを残しておきたいと考えるのが撮影の願望の底にあるのだろう。

 実際はその写真、フィルム、動画ファイルさえも劣化して消えていく。その速度がいかに遅くてもやがては消滅する。人生よりは長い。しかし、見る方が変わってしまえば、たとえ写真が不変であっても違って見えてしまう。だから本当は過去の一時点を完全に保存するこは不可能だ。

 それでも私たちは写真や動画を撮りたがる。後でそれを見ることだけが目的ではないのかもしれない。いま、それを記録しようとしている行為そのものに生きがいを感じることが撮影の意味なのかもしれない。大量に撮影され、顧みられることがない映像をかつては無駄と感じることもあった。しかし、もしかしたら、無駄になる写真を撮ることが生きていることの証なのかもしれないと考え直している。

絵画の下層

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「窓辺で手紙を読む女」(ヨハネス・フェルメール, ca. 1659)が東京都美術館で展示されている。今まで知られている絵とは異なり、背景に天使の画中画が描かれている。調査の結果、この天使の絵は完成後、作者以外の何者かによって塗りつぶされ今の形になったという。そこで上塗りされた絵の具を取り除き、改変前の姿を復元したというのだ。なお上記のリンクは改変前である。

油絵のように塗り重ねていく絵の場合は、このように塗りつぶされた奥にある下層の絵画を復元することができるようだ。その繊細かつ大胆な作業風景も博物館では動画で展示していた。非常に興味深いものであった。絵画修復の技術は日本絵画においても行われている。以前、この技術を利用して高精度の文化財複製をしたスーパークローンの展示を見たことがある。色褪せる前のもとの姿は常識を覆すものもあったが、新鮮な驚きをもたらしてくれた。そして、この技術を知ることで、原作は今見るものとは違ったのかもしれないという当たり前だが気づきにくいことを再確認させてもらった気がする。

芸術作品でさえ、完成に至るまでのさまざまな過程を経てきているのだ。最初から一直線に今の形につながっているのではない。改変にはさまざまな理由があるように、私たちの生き方にも時代の影響でつねに変化が加えられている。今見えていることだけで物事を判断するのはかなり一面的なものだということになる。その下層に隠れているものはなにかを考えることは常に必要だ。

曲水の庭

曲水の庭

 今年の旧暦3月3日は、4月3日だそうだ。それなら桃の花も頃合いだろう。ひな祭り以前にこの日は禊の呪術が行われた日であり、宮中では曲水の宴が開かれていた。

 平城京左京三条二坊宮跡庭園にはかなり前に訪れた。その頃は発掘したままの形であったが今は本当に水が流れているらしい。文字通りの曲った複雑な流路を見て深く感動したことを覚えている。家持もここで詠歌することがあったのではないかと。宴席歌と庭園の関係について関心をもったのはこれを見たからだった、

 曲水の宴は観光行事でしか行われなくなった。ただ、その原点である禊の考え方はどこかで続いている気がする。流し雛も環境問題に反するのでそのままの形ではできない。ならば現代文明の粋を集めて架空の川を作り、そこに穢れを流したい。流した穢れが別の誰かを穢すことがないよう。注意深く設計して。

 雛人形の抱える歴史をこの機会に思い返したい。

短くても面白い話を

どうしたら古典文学に関する関心が高められるのかを考えている。それはやはり読んで面白いという体験が不可欠のように思う。そしてそれをどのように提供するのかが鍵のようだ。

古典が好きになれないという生徒の大半は学ぶ意味がわからないということにある。こんなことをやって何になるのだという人もいる。その分をコンピューターのプログラミングに当てたほうがいいとまことしやかにいう人もいる。そういう人の多くは大切なことを飛躍して考えている。言葉に対する興味や、文化への関心がないままプログラミングができるのだろうか。できたものが他者に受け入れられるレベルになるのだろうか。

私がその方面に疎いから説得力がないのかもしれないが、プログラミングを少しだけ学んでみてそこで説明されている言葉の未熟さに驚くことがある。説明の仕方を少し変えるだけで簡単になるのに、易しいことを難しく言っている。プログラミングはできるのにどうして説明が下手なのだろうか。

言葉はつながっている

言葉に対する関心は日常語だけから生まれるのではない。現在私たちが使っている言葉が基盤としている言語的な財産というか遺産というべき古典の世界から受け継いだものも大切だ。例えば「思う」という動詞の抱える守備範囲は”think” や”想”とは異なるが、それをたとえば和歌の中にある「思ふ」の用例と比較すると、その違いが見えてくることがあるのだ。

ただ、私もいまの古典の教育があまりにも解読(あえてこう言いたい)にこだわりすぎているのは問題だと考えている。文法も語彙の習得も大切だがそのレベルのことは今後はコンピューターがやってくれるのではないだろうか。大事なのはそこで何が述べられているのかを数多く知ることにあるのではないかと考えているのだ。

そのためには何をすればいいのか。まずは、さまざまな内容の短く読みやすい古典作品を提供することにあると考える。たとえば先程とりあげた日本語の「思う」の持つ歴史をさまざまなエピソードをあげて読み流すようなテキストがあるといい。短くて読みやすく、しかも面白い話を集めること。それを体系的に並べること。それが私の当面の課題となりそうだ。

熟考する力

深く考える余裕がないのか

おそらく多くの人が考えているのではないか。今の教育は情報処理能力にあまりに傾きすぎているのではないかと。私もその一人だ。

例えば先日の大学共通テストはさまざまな改革の末に生まれたといいながら、センター試験以来の問題数の多さを保ち、それ以上に増えた科目もある。試されているのは時間内にいかに多くの問題を処理するかということであり、反射神経や要領のよさが測定されている。

一方で、果たしてこれが正解でいいのだろうかと思う設問もある。他の選択肢が不正解であるから問題としては成立しているのだが、その正解が絶対正しいのかと考えると疑問があるものもあった。これも過去の問題と同じだ。受験生は消去式という情報処理の方法を活用すればよいのだ。なにか腑に落ちない。

ほかの局面でもよく考えずにとりあえずの正解を見出すことに終始することが多い。忙しい現代を生き抜くには必要なスキルであることは確かだ。しかし、この方面はむしろコンピューターが得意とする分野である。人間はもっと深く考えることや、いままでにない一見間違っていると思われるものを再検討する思考力の方を鍛えるべきではないだろうか。

熟考する力をどのように育成するのかは決まったノウハウはない。個人の資質に負うところが多いとされ、一斉教育の場では省略されていると考えられる。だが、もしかしたら今後もっとも大切にされる能力になるかもしれない熟考力を中等教育で教えないのは根本的な間違いではないか。せめて時間をかけても、結果が出なくてもよく考えることには意味があるということだけでも伝える機会はあったほうがいい。

チョコレート

 バレンタインが告白の日となった歴史はさほど古くはない。もともとキリスト教圏で行われていたバレンタインデーの習慣は性別にかかわらず、贈るものも特に限定されず愛を伝えるためにプレゼントをする習慣があったという。日本に導入するにあたって製菓業者が女子が男子に物を贈る習慣のない日本の新しい行事として宣伝したのが始まりだったという。いまは告白の目的でこの行事を過ごす人は少ないと思われるが、愛情の確認というよりはつながりの維持のための手段として定着している。

チョコレートには物語がある

 チョコレートの原料であるカカオ豆の生産国はアフリカと中南米、インドネシアなどである。生産者の報酬は少なく、甘味どころかかなり苦いものであると言われている。フェアトレードの運動はさまざまな方面でみられるがこのカカオについてもそれを考えなくてはならない。私たちが楽しんで食べているお菓子の歴史を考えなければならないのだ。

 カカオは特殊な環境に育つため、日本では生産できないとされてきた。それが小笠原諸島の母島で栽培に成功したらしい。現在は少数生産のためプレミアム扱いだが、日本でも生産が可能になれば新たな可能性が生まれるかもしれない。

 チョコレートをめぐる物語はまだいろいろありそうだ。

国際チームも

国旗のない国際大会もいいのでは

オリンピックは国と地域の代表という枠組みが大前提である。それには意味があるが、そうでないものも対極にあっていいのではないか。スポーツのあり方を考えると別の可能性がある。

チームスポーツは一体感とか連帯感が必要であるから、同じ共同体の成員で組むのが自然だろう。しかし、それが国籍である必要はない。国際大会が盛んな競技ではむしろ国を超えた仲間意識が生まれる可能性に満ちているはずだ。ならば、そのような試合をもっと盛んにするべきではないか。

国威発揚のために国家が税金などで援助している事実がある。マイナースポーツは特にその依存度が高いようだ。国を後ろ盾にしないと試合に出られないという事実があるのも確かだろう。それを克服するためにはどうすればいいのだろう。

チームごとにスポンサーなりサポーターを獲得する必要はどうしても出てくる。企業名の入ったチームになるかもしれない。一定のルールは必要だ。

運用方法には多くの課題があるが、国際チームで競技される試合が実現すればスポーツの新しい局面を見ることができる。人類平和のためにも貢献するかもしれない。

建国

建国記念の日といっても現在の日本人にはその意味を考える人は少ない。革命で国家建設を勝ち取ったとか、新しい憲法が生まれた日とかではなく、多分に伝説的な初代天皇の即位日をむりやり太陽暦に当てはめた末の産物だからだ。

初代天皇の神武天皇は『日本書紀』によると辛酉年春正月、庚辰朔とあり、この旧暦元旦を紀元前660年2月11日と算定したということである。もちろん科学的根拠はなく、この年に古代国家が成立していた保証はない。おそらく日本という意識すらなかったかもしれない。

神武天皇は橿原の地で即位したと言われる

自然発生的な国家においてはいつがその始まりだとは言えないというのが事実だろう。前に述べたような明確な事実があり、それを区切りとするのならば記念日はある。日本にはそれがないのはむしろ長い歴史をもっていることの誇りでもあるのだ。だから、建国記念の日の意味は他国とは異なる。

グローバル化の中で、日本という国が自立できないことが明確になったいま、あえて国とは何かを考え直すことがこの祝日の意味の一つだろう。最近、没落国家と自国を言ってはばからない人が増えたが、その中で何をすべきなのだろうか。国のために命を落とした先人たちの思いと、国を捨てて自己の利益を優先する人との間にあるのは何なのか。何が正しく、間違っているのか。それを考える必要があると思う。