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インバウンド再び

 コロナウイルスの世界的流行はまだ収束していない。以前よく議論されたように収束という概念はありえないのかもしれない。そして終息は決してない。すると、この厄介な事態と付き合うしかない。

 コロナ騒ぎが始まる前、外国人観光客が日本に大挙して訪れていた。成長しない日本経済のもと、いつまでも物価が上がらない日本は買い物にふさわしい。中継貿易国とは異なり、独自の文化もあり、品質も良いとされている日本製品を買いに来る価値は大いにある。

 一向にサラリーが上がらない日本人を相手にするより外貨のほうが稼げる。しかも自分から買いに来てもらえるならばありがたい限りだ。加えて歴史的な円安だから、外国人にはバーゲンセールにしか見えない。そこで防疫のルールを見直して外国人に来てもらおうということになる。

 この流れは止められまい。昨今の日本の主要産業は観光業となりつつある。たくさん来てもらい観光地だけでなく、あらゆるところでカネを落としていただく。それが双方の利益と考えられるはずだ。

 オリンピックを機に外国人向けに作り直した様々な施設やシステムはその後どうなっているのだろうか。日本人の英語力、その他の言語への学習意欲はどうなったのか。とりあえず日本の産業が復興するまでの時間つなぎは先祖から譲られてきた日本ブランドを広めるしかない。

割に合わない

 戦争が終わらない。なぜここまで戦い続けるのか分からない。核兵器や化学兵器を使わないところには一抹の正義は残っていると見るべきなのか。

 様々な歴史の教訓で戦争は割に合わないことは周知の事実だろう。破壊した分だけ修復に費用がいる。何よりも憎しみという負の遺産は数世紀にわたって禍根を残す。それが大きな損失に繋がる。

 対立が感情的な要因によるのならばそれを制御する必要がある。怒りや恨みでは何も解決できない。功利的な目的ならば他の方法を探すべきだ。戦争はあらゆる面で割に合わない。

やめ方を指南する

 

やめ方にも方法がある

 その名をなんと呼ぼうと戦争という最悪の事態が継続していることは残念でならない。武力による状態変更は次なる暴力と結びついている。止めるのも難しい。

 反対することは大切で決して怠ってはならない。ただ、それだけではどうしようもない。喧嘩のやめ方を提案しなくてはならない。そういう方法を伝える専門家の育成も必要だろう。戦争を起こし、敗戦し、復興した日本には多くの経験と記録がある。個々の事例は普遍化できるものではないが、何かしらの参考にはなるはずだ。日本に平和交渉研究の拠点があってもいい。

 分断が進んでいるとも言われる世界情勢に何らかの提言ができる人材は必要だ。

個別に判断を

平和のために

 世界中に反ロシアの動きがある。ウクライナ侵攻に対する抗議の一環として経済封鎖がなされている。スポーツ界でも対露試合の放棄やロシア人選手の参加拒否などが相次いでいるこれらは意義を考えて行うべきだ。

 世界経済圏の中にある国にとって、金融資産の凍結や取引拒絶はかなりの打撃を与える。ロシアは国土に様々な資源を持つので、通商停止が直ちに軍事力低下には結びつかないだろう。親露国との連携もあるはずだ。ただ世界的な信用の失墜は大きな打撃となることは変わりない。

 スポーツ等の文化交流については私は慎重であるべきだと考える。あからさまにプーチン大統領を支持する選手もいる一方で、戦争反対を訴える選手もいる。政治と文化は別に考えるという理想を、今回は無効化しつつあるように感じられる。

 文化レベルの交流を保つことが和平への糸口となり、交戦国の国民に何らかのメッセージを送るチャンネルにするべきではないか。嫌なものはすべて締め出すというのでは次の段階がない。

 大変難しいが個別に判断していくことが求められている。世の中のことは大抵同じことが言えるはずだが、分かりやすくまとめすぎる傾向がある。

叡智を

 ウクライナの内線に乗じて戦争が始まろうとしている。この手法は太古以来の伝統的なものであり、回避すべき策を探さなくてはならない。

 この戦いの背景にあるのは双方にある被害者意識だという。いずれも過去に侵攻され、多くの犠牲が出ている。その恨みが解消されないまま、現代に至っている。容易ではないが、まずはこれを直視するしかない。

 ウクライナ戦争の動向は今後の世界情勢に影響するという識者もいる。武力行使による現状変更が許容されれば、世界各地で同様のことが起こりうるというのだ。第三次世界大戦ご始まると煽情的な表現をする人もいる。

 戦争は政治的にも経済的にも割に合わない愚挙であり、それ以前に殺人が正当化される事態が出来することはなんとしても避けなくてはならない。過去の歴史が示すようにこれは後世に残る深い傷となる。

 平和交渉に係る叡智を集めるべきだ。日本は近代戦争を経験した国として、この方面に活躍する人材をもっと輩出すべきだと考える。

二十四節気の意味

北京で冬季オリンピックが始まった。開会式は国家の威信をかけた演出がなされるものだが、今の中国のありかたの縮図を見たようで興味深かった。隠されたメッセージも数多くあった。

開会のカウントダウンが24節気で行われたのは日本人にとっても興味深いものであった。そのすべてを知らなくとも立春、夏至、秋分、冬至や雨水、大暑などのどこかで聞いたことがある節気の名前が出たことは親しみ深いものであった。

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実はこの節気というものは古代中国の中原地域の気候を基準として命名されており、日本の気候とはずれがある。それでもこれが使われているのは中国の文化的な影響力の強さを意味するものである。時間的に我が国は古代中国の文化圏にあることをこのイベントは再認識させる効果があった。

中国の文化的な蓄積はやはり大きい。しかし、現在の中華人民共和国がその正統であり、他国のものは亜流と考えるのは間違いだ。二十四節気もそうだが古代中国から受け継いでいるものは、現在のどの地域のものに対しても共通の祖先であり、本家分家ではない。

日本の節気には土用や八十八夜のような雑節と呼ばれるものもある。日本の気候との齟齬を埋めるための工夫である。このような考え方はおそらく、他の国や地域にもあるはずだ。それを亜流とするのではなく、適応と考えるのが文化史的には正しい。

文化の話になるとどうしても歴史的な展開と、価値観の話が混同される傾向にあるが、この点は峻別しておかなくてはならない。

火山灰

 大噴火の近辺がどのような状態になるのかをトンガからの報告が伝えている。救援物資を届けるための飛行機が着陸困難だというのだ。

 火山噴火のリスクは我が国の重要問題でもある。富士山が目覚めたときのリスクはすでに何十年も前から語られ続けており、シミュレーションは詳細に及ぶものがある。溶岩、火山弾の被害に加え、降灰の害は長期に渡って都市機能を不全にする。

 トンガの例はその参考になる。救援活動は人道的のみならず、我が国の復興段階での経験の獲得のためにも参加すべきではないか。

建国

 建国記念の日という日本の祝日は不思議な日である。日本の国家としての歴史は長く天皇制という軸で考えれば有史以前にさかのぼるのかもしれない。だから建国は伝説の世界にあり、特定の日に位置づけるのは本当は無理なのだ。初代天皇とされる神武天皇の即位日を現在の暦に換算したところ2月11日だというのが一応の理由だが、そもそも実在したか不明の人物のことは根拠にはできない。

 今日は国とは何かを考える日であろう。利益が共通する周囲の人物と共同体を立ち上げ、公共の福祉を優先しつつ、他国と協調し、時に争い集団を形成する。それが国家の始まりならば、今のような形態はどこまで続くのだろう。人が知り合える限界を様々なテクノロジーが飛躍的に拡張した。時空を超えて知り合える機会を創出できている。でも、真の意味で理解し合える人の数の限界はそれほど簡単には増えない。ソーシャルメディアで「友達」になるとは意味が違うのだ。

 国とは何なのか友達集団よりもはるかに大きい。でもイデオロギーなり文化なりを共有していると幻想できる人々の集団だ。そこには愛国心のような感情も現れる。オリンピックで自国の選手が活躍するとわがことのように喜んでしまうこともある。一方で国より自己の利益を優先することも多い。自国の業者がいくらコストダウンしても、海外製品には価格面で全く太刀打ちできない。だから安い海外製品を買う。それが自国経済に打撃を与えることを知っていても。

 国とは何かを考え直す一日にしてみたい。

小異を捨てて

 最近の世界の情勢は分断の連続だという人がいる。アメリカの政治的な不安定さが象徴的だが、民族やイデオロギーの対立によって人の心が分かれていく傾向は世界の各地でみられる。己の属する集団を守ろうとするのは生物としての宿命ではあるが、人類にはそれを超える叡智を得ることができる可能性が与えられている。

 コロナウイルスが世界中を満遍なく襲っていることは、強烈なアイロニーのようにも感じる。いくら分裂しても人類はそれほど変わらない。種としては同じであり、運命共同体なのであると。共通の敵を仕立てて融和を図るというのは古来からの権力者が使う常套手段だ。歴史の中にはこの方法で大きく変わった局面がいくつかある。今回の場合はウイルスが相手なのだから、共闘することは一向に遠慮はいらない。

 それなのに世界の分断は一向に収束には向かわない。小異をすてて大同につくという古人の教えを実行に移せないのはなぜなのだろう。自分も含めて、私たちは考えていてもできないことが多い。実行することは別次元なのだろう。どうすれば実現できるのか。面倒だがまずこれを考えるという方法から始めなくてはならない。段階が必要なのだろう。

クリスマスイブ

 今日はクリスマスイブだ。キリスト教徒でもない私や、多くの日本人がなぜかこの行事は我がごとのようにこの行事を考える。実は私はカトリック幼稚園に通っていたため、年末にキリスト生誕の様を演じる「お遊戯」をしたことを覚えている。ヨゼフ役でほとんど立っているだけだった。

 クリスマスは聖なる日として考えられている。実は聖書には書かれてはいないらしいが、心を清らかにすることができるのならどうでもいいことだろう。今年はウイルスという世界共通の敵と戦う一年であった。英国で報告されている変異種の存在が真実ならばその戦いはもう少し長引きそうだ。いまは人同士が争う場面でない。人智を結集して乗り切ることを考えるべきだ。

 現実の世界はさほど公平ではなく、醜い場面がいくらでもある。利権をめぐって常に小競り合いをしている。そんな世の中だが、せめて聖なる日は身の回りの平和を考えたい。多神教の日本は節操がないといういわれるが、その意味では世界中の聖なる日を集め、暴挙に走ることがない世界を広めたいと考えてしまう。

 

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