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熟考すること

 何かをするときにその意味を深く考えるということは大切だ。意味を考えずにやることはときに大きな失敗を招くばかりか、周囲に多大な損害を与える。それは分かっているが実際には考えずに行動することの方がはるかに多い。

 意味を考えていたら行動に移せない。出遅れれば制せられる。そこで受ける損失を恐れて考えずに行動してしまう。中には習慣化して行動を半ば自動化していることも多い。訳を考えずに行動することは仕事をこなすスキルともみなされている。

 でもやはり、時々立ち止まることが必要なのだ。無批判に他人の言われるがままに過ごせば、いつか悪意のあるものに操られるかもしれない。そのような前例は歴史の中でいくつもある。沈思熟考のときを設ける必要がある。

死の意味

 死の意味を理解することは難しい。死の痛みは概念的ではなく経験的なものだ。しかも自分の死は経験できない。あくまで他人の死をもってその痛みを知るに過ぎない。

 人の死はいつも悲しいかといえば必ずしもそうでもない。ニュースで報道される赤の他人の死の報道で悲嘆に暮れることはない。死者多数の報道を視聴しながら私たちは普通に食事ができる。だがたった一人の死でも肉親や親しい人の死となると茫然自失となる。死の感じ方には死者との関係性が大きく関与する。

 だから、人生経験が少ない若い世代に死の意味を考えさせることは意外に難しい。すぐに死ねと口走る彼らに本当の死の意味は分かっていない。いや年齢の長幼ではない。本当に死の意味が分かるのは自分の死の直前であり、大抵の場合その意味を他人に伝えることはできない。

 私自身も人生の最終コーナー近くにいる(と思われる)くせにいまだに死の意味を納得していない。恐らくそういうものなのだろうという推理は少しずつできるようになってはいるが。

 若い頃に自分の死の場面を漠然と考えたことがある。その大半は外れ、運良く今日まで生きている。この先は分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。ただ確実に近づく死時を想像可能になった今、死の観念はかなり変わって来たのは事実だ。

 若い世代には言いたい死とは難しいものだぞ。

古典教育不要論者の気づかないこと

 古典教育に対する批判には伝統的なパターンがある。そんなことをやるならばもっと実用的なことをやったほうがいいという考えだ。これをかなりの学識者がいうから騙されてしまう。

 古典不要論者は自らの意見が古典の知識でできていることに気づかないか敢えて無視している。古典を学ばずに過ごせば実用的な人間になれるだろうか。プログラミングを教えろという人は、おそらくそのスキルを習得するのに苦労したのだろう。そして成功し、もっと早くからやっていればよかったと考えたのだ。投資などの金融スキルを子どものときから教えろという人もいる。さぞかし儲かっているのだろう。

 気をつけなくてはならないのは、プログラミングもファイナンシャルスキルも年々習得しやすくなっており、何も小中学校で教えなくても十分にものになるということだ。こういうやり方が決まっているものはコンピューターに代替されていく。

 人工知能の発展は答えのある問いの処理には人間は敵わないことを痛感せしめている。大事なのは非定型かつ意味のある情報をどれだけ持つかであろう。古典文学や歴史から学ぶことは多義性を持つ曖昧なものが多いがそれ故に大切な思考の材料となるものだ。それを学ぶのを止めようというのは自ら進んで機械の配下に降ろうと言っていることと変わらない。いい加減にこのことに気づくべきだ。

相対的

 誰かと比べることに慣れすぎている私は、勝手に基準を設けて自分の幸福度を決めてしまうことがある。こういう相対的価値観はおそらく人間の本性に属するもので私だけの問題ではないだろう。

 ただ、こうした窮屈な評価基準から抜け出す方法はないのだろうか。人を羨むのでも自分が奢るでもなく、必要なものを必要なだけ所有し、消費する。そういう生き方に魅力を感じている。

 できれば余裕がある方がいい。その余剰は周囲に分け与えるのが理想だ。いまはいつ破産するのか分からない恐怖を感じながら、毎日を徒労感とともに送っている。それも分不相応の何かをしようとしているからではないか。

 相対的幸福感から抜け出すための試みを少しずつ始めてみよう。これは禁欲ではない。やりたいと思うことはやるが、やらなくてもいいことは無理にやらないということなのだ。

固定

 何かを考える際に、何らかの要素を固定してしまうという手法がある。例えば、時間や空間、その他の要素のうちで、あるものを止めてしまうと他がよく見えるようになるということで時間の流れを止めれば、同じ時代に何が起きているのかを通覧できる。場所を固定すれば。そこで起こる様々な出来事の流れを把握できるはずだ。

 実際の世界は変動する要素が多数あり、相互に影響し連動するから、どれかの軸に固定するということは不可能だ。誰にも時間の流れを止めることはできないし、多様性を排除することはできない。あくまで頭脳の中での仮想に過ぎない。

 ただ、そういう仮想を通して私たちは物事を整理して考え、新しいアイデアを得ることができる。仮想的に何を固定するのかが大切なのだろう。

即時性

 現代の人々の気質として即時性の偏重がある。すぐに結果が出なければやる気にならないということだ。答えが出ないものは無価値とさえ考える。いろいろなことが即座に実行できるようになったために、結果を求めすぎる。

 私のような世代にとっては、すぐに結果が出るようなことはレベルの低いことだった。本質的なことはなかなか形にならないものであり、具現化するために様々な努力をすることこそ人生の要諦と考えた。

 だが今は違う。結論が出ないものは価値が低いと考えられがちだ。超高速のコンピューターに途中の計算をさせ、結論を急ぐ。結論の出ない問いはそもそも発問が間違っていると考える。考えてみればとても窮屈な思考回路だ。

 このような性急な環境では状況対応型の考え方しかできない。何が真実かとか、善悪の判断とかそういうものは後回しになりやすい。貧困な思想しかできない。

 恐らく私のような時代遅れの人間に出番があるとすれば、日々の判断にあくせくせず、少し引いて考えることを提案する役になることだろう。失笑や嘲笑をものともせず、真実を探る尊さを示すしかない。

 そうすればわずかに数人が気づくかもしれない。答えがあることばかりが良いのではない。むしろ容易には解答が見つからないことの方が価値が高いこともあるのだと。

自意識

 正直に言って本当は理解できていないのが性同一性障害である。心と身体が一致していないというのだが、では心とは何か身体とは何かを考えなくてはなるまい。

 心とは自分はこういう存在であるという意識のことだろう。この意識がかなり強固で他人から見られてそう思うのではなく、自らそのように考えていることになる。一般的には自意識の形成には他者の関与が不可欠だ。誰かにあなたはこういう人だと言われていくうちにそういう人になる。

 ところがこの場合は他人から逆の扱いをされながら、それに抗う形で自意識を形成することになる。あるいは他者にとっての他者が自分という考え方自体が間違っていたのではないか。そうも考えさせられる。

 考え方を変えてみる。生まれながらに自分にもともと自意識があり、それが自分とは何かを決めているとする。この場合は心と身体が一致しているわけだから、何の問題も生じない。性的指向が多くの別の個体と違っていても、自分がそういう存在であると知って振る舞っている訳である。社会全体がこの考えなら、多様性はそのまま受け入れられて問題はない。

自意識の持ち方は多様だ。

 自意識が自然発生的にもしくは本能的に生じるものなのかと言えば、私はまだ懐疑的だ。日本に生まれ育てば、価値観や人生観はその集団に共有されるものになる。それは男女の性別や、人種などとは無関係であろう。やはり、社会の中で自我が形成されると考える方が分かりやすい。ならば、男らしく女らしくというジェンダーもそれが所属する集団の中で形成される。そのとき社会の成員は外見上の身体的特徴をもって意識付けをしていくはずだ。

 トランスジェンダーと呼ばれる人たちの意識はこうした事実と異なっているように思える。でも、よく考えるとそうでもないのかもしれない。自分が属する共同体の中で男らしくあれと有言もしくは無言で規定された人は、そのように振る舞うことで自意識を形成する。つまり演じているのである。この演じるものを何らかの事情で反対のものにした場合、別の自分を演じることになる。演じるという表現は誤解されるかもしれない。これは上辺をごまかすのではなく、自分の身体を自分の心がどのように動かすかということである。これには脳の動き方も含まれる。

 身体は男だけれど心は女という場合、この人は女を演じようとしているのに、身体がそれに合う形をしていないということだろう。

 少々複雑になったが、自意識が自分の属する集団の影響下で形成されるのは間違いではない。ただ、その中で形成される自意識とは自分が自分の身体をどのように操るか、どのように振る舞うかということであって、ここで反対の性を演じる対象として選んだ場合にトランスの状態が起こるのだろう。

 ここまで書いてきたが実は納得できていない。今のところは言語操作をしているに過ぎない。ただ、こういう試みから、自分とは何かを考えることはできるという感触は持てた。

説教は快楽ではない

 私は生徒の皆さんには分かったふりをしてほしくない。そういうもんだという不文律のようなものは確かにある。ならぬものはならぬという毅然とした態度も必要だが、単なる押しつけではきっと心には届かない。理由もわからず押し付けられたルールは理解されず、同じミスを繰り返す。

 教員の方も単に規則だからとかモラルやルールを゙持ち出すのは控えたほうがいい。その説明を試みるべきだ。理不尽な問題もあるが、それもともに悩むべきなのだ。これはとても骨が折れる行為だが、やるしかない。

 去年流行った歌に説教は快楽という歌詞があった。これは根本的に間違っている。人に自分の考えを伝えるのはかなりのエネルギーを要し、疲労困憊する。あの歌にあるオトナの僕がした説教とは恐らく教える行動ではなく、自説の押しつけのことだろう。そのアイロニーが滑稽に結びついている。教員の立場から言わせると説教は身を削る行為であり、快楽の対極にある。

 何かを伝えることは受け入れる側との相互行為により成り立つ。それなりに時間と労力がかかる。生徒の皆さんには下手な忖度は不要だ。話し合おう。矛盾に満ちたこの社会のあり方を。

自分を描く

 小説のなかの「私」は自分のことではない。少なくとも読者はそのように考える。自分のことを「私」と語る架空の人物である。それを作者が創作し、読者はその創作の文脈に乗っ取って読む。

 随筆になると「私」は筆者のことではないかと考えられる。たとえそれが真実ではなくても、文章の中ではそれは紛れもない筆者の体験の記録だと考えるのだ。読者の読み方がそのようになる。

 ただ割り切れないこともある。随筆の中にも限りなく小説に近いものもあり、明らかに真実とは異なると直感できるものもある。こうなると随筆の「私」は筆者とは言い切れない。ただ、この筆者の経験が言動といった可視のものに限らないとすればどうだろう。例えば筆者が頭の中で考えたこと、妄想したことなども筆者の体験ともいえる。ならばそれを記したものは立派な随筆ではないか。

 でも、そう考えると小説にも当てはまる。小説の中にも自分の経験を素材して書かれたものはいくらでもある。ならばそれは随筆ではないか。でも随筆という分類でその作品を読み直すと明らかに違和感がある。おそらく、創作性というものが切り落とされるような気がするからだろう。

 作品の中で自分を描くのは実は結構難しい。ありのままの自分を描くことはできない。そこにはどうしても幾分かの物語化が起きるし、そもそも自分のことを自分が客観的に描くこと自体が難しい。日記やこのようなブログもそうだ。毎日書いているブログも自分のことを書ききったと実感することはほとんどない。自分を描くことは難しい。

形なきもの

 価値観とか美意識とかそういう形がないが大切なものを見直そうと考えている。形あるもの、もしくはそのものに形はなくても何かに置き換えることが容易なものはデータ化され、コモディティとなりつつある。大切なのはそういうものだけではない。

 名状しがたいもの、名付けても十分に言い尽くせないものは価値判断の外に置かれていた。しかし、実はそういうなにかこそが自分の物の見方なり行動様式の根底にあったものである。形がないものが多くを支えている。だから、いままでとは違う判断をしなくてはならない。見えないものこそ、他者と比べられないことこそ大事にしなくてはならない。

 すぐに比べたがる。比べる基準がグローバルに存在するかのような幻想を抱くのが現代社会だ。それはあくまで便宜的なものであり、基準を作ったものの有利を保つための手段に過ぎないということを私たちは様々な事例から感じ取ることができている。もっと自分の価値観を信じ、それを磨く努力をするべきだ。つくづくそう思う。