大伴家持が越中国守だったとき能登を巡行したことがあった。天平20(748)年のことあった。当時、越中の国は現在の富山県にあたる地域に加え、現在は石川県に所属する能登地方の羽咋・能登・鳳至・珠洲4郡を含めた地域であった。家持は国守の務めとして国内の視察を行ったのである。
どのような行程をとったのかはおおむね推定されている。越中の国府は現在の富山県高岡市伏木にあった。ここから志乎路(しをぢ)を通って羽咋に向かっている。
志乎路からただ越え来れば羽咋の海朝凪したり舟梶もがも(巻17・4025)
家持らは能登半島の付け根部分を西に横断してまず羽咋の郡衙を目指したのだろう。それほど急峻ではないが山道を抜けるのには労力が必要だったはずだ。家持は馬上にあったのだろうか。日本海側に出ると羽咋の海は朝凪で舟遊びをしたいほどの素晴らしい光景が広がっていた。
次に能登郡を目指す。郡衙はいまの七尾市あたりにあったと考えられている。
とぶさ立て船木伐(き)るといふ能登の島山 今日見れば木立(こだち)繁しも幾代(いくよ)神(かむ)びそ(4026)
香島より熊来をさして漕ぐ船の梶取る間なく都し思ほゆ(4027)
4026番は旋頭歌という形式の歌で作られている。古風な雰囲気を表現するのに使ったのだろうか。能登の島山が能登島のことならば、その島陰には神を感じさせる何かがあったことになる。4027番歌は七尾市あたりの香島から現在は鹿島郡中島町に比定されている熊来を目指して航路で旅したことを伝える。「梶取る間なく」はおそらく常套的な表現だろうが、辺境の地に身を置く奈良の貴族の旅愁は伝わる。
次に鳳至郡を目指す。現在の輪島市にあたる場所だ。万葉集には次の歌がある。
妹に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしがは)清き瀬ごとに水占(みなうら)延(は)へてな(4027)
現在、仁岸川という川は河口が門前町剱地というところにある川で、熊来から鳳至に向かう街道から考えれば遠回りをすることになる。水占がどのようなものであったのかは分からないが題詞を信じるのならばこの地に赴いての作だ。水占が「延ふ」ものであることが分かるが、何かを流してその状態で占うのだろうかおそらく珍しい地域信仰に触発されて作った歌なのだろう。
そしておそらく鳳至の郡司の接待をうけたあと、能登半島の先端部の珠洲郡を目指す。珠洲の郡家は現在の珠洲市役所の付近にあったと推定される。富山湾側にあたる。能登の4郡をめぐり終えた家持一行はここから水路で一気に越中国庁を目指したようだ。
珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり(4029)
珠洲の海岸を朝に船出し、往路で見た能登の島山をもう一度みながら富山湾を南下して当時は渋谿(しぶたに)と呼ばれた伏木付近の海岸に到着したころには月が出ていたというのだろう。当時の旅がどれほど大変であったのかは分からないが、国守巡行は任務として行うべきものであった。この職務があったせいで奈良時代の能登の風景が残されたのである。大伴家持の作品の半数は越中国守時代のものであるが、その中に能登の地名が残されたのは様々な偶然の結果である。
この巡行とは別に万葉集には能登の国の歌として、
梯立の 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし
かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし(3878)
梯立の 熊来酒屋に まぬらる奴 わし
さすひ立て 率て来なましを まぬらる奴 わし(3879)
香島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち つつき破り 速川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母にまつりつや 愛づ児の刀自 父にまつりつや 愛づ児の刀自(3880)
という古体を残す歌謡のような作品が残っている。能登は万葉歌人にとってひと時代まえの雰囲気を持った地であったのかもしれない。
私はこれらの作品の比定されている場所を何度か尋ねたことがある。最初に行ったときはバスで廻った。かなりの長旅だったが奈良時代の旅に比べればはるかに快適だったはずだ。富山県に務めていたころは自家用車で尋ねた。珠洲の灯台に行ったときには不思議な達成感があった。この万葉の歌枕のある土地が今回の大地震で多大な被害にあったことに心を痛めている。旅の途中でお世話になった方々のことが思いやられる。皆さんのご無事をお祈りしたい。
