カテゴリー: エッセイ

と思っているのですが

 ここ十数年で増えてきた言語表現に、「〜と思っています」というのがある。語法的にはおかしくはないのだが、意見を述べるところでなぜ自分の思いを言うのかと考え出すと違和感が募っていく。どうしてこのような言い方が頻出するようになったのだろうか。

 変な言い方をすれば私の言うことは真実かどうかは分からないが、あくまで私の思いはこういうことなんだと言っていることになる。ちょっと前に「それはあなたの感想でしょ」という切り口上があったが、まさに私の感想であって意見ではありませんと予防線を張っているようなものなのだ。

 日本語には昔から婉曲表現を好む伝統がある。断定よりも考えの提示に止め、判断は相手に任せようとする。だから「思う」という動詞には、thinkよりもfeelの意味合いが強いとされる。私はそのように感じているのですが、というのが「思っています」の中身であるようだ。

 朧化表現は必ずしも悪いとは言えない。何でも主張すれば良いという文化には必ず問題点が現れる。ただ、あまりにも思っています、思っているのでと繰り返されると、あなたの本心はどこにあるのですかと問いただしたくなってしまうのである。

聴き方再考

 若い世代の基礎学力が低下しているかもしれないという意見は方々で耳にする。個人的な偏見はあるに違いないがある意味では真実に近いのかもしれない。その原因の一つが情報認知の方法が変わったことにあるという。

 かつては知るものと知らざるものの差は歴然としていた。情報源に接する機会を得られるのか、得た情報を解釈できるのか、その見解を他者に共有する手段はあるのか。様々な段階において格差があり、それ故に受容については相当の緊張感が伴っていた。言ってみればかなりの緊張感を持って対象に接していた。それがいまではネット検索でいつでもアクセスできると思っている人が増え、さらに生成AIがより簡単に答えを出してくれるものと信じている。その結果、聴くことに対するのめり込みはかなり薄っぺらいものになってしまった。

 他人のことを批判するより、自分のことを考えてみたい。講演などを聴講するときに大切なのは結論だけではない。結論は著書などを読めば書いてあるし、話を聴きに行く時点で大体どんな立場の人物なのかは知っている。聴きたいことの中心はその結論に至る思考の行程であり、背景となった環境だ。「どんな」より「どのように」が知りたい。それも著作に整理して書かれたことより、論理的な飛躍はあってもその糧となったものごとを窺い知りたいのである。思考の過程を知ることはその人の出した結論を本当に理解するために欠かせない。

 そのためにメモを取るならば取り方も変わる。思考の過程に注目し、ちょっとした小話を聞き逃さないようにする。事実の羅列はそれこそネット検索でもできるのかもしれない。しかし、本人の口吻から図らずも伝わってくる思考の理解の本当の糸口があるかもしれないのである。

 

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人工知能は自分か他人か

 人工知能の日進月歩の発展の末、私たちは自分の脳と人工知能の連携を模索するかもしれないという。具体的には自分が思いついたことを人工知能に考えさせ、そのフィードバックをそのまま自分の考えとするというのものだ。何か疑問が浮かんだとき、人間は自分の脳と直結する人工知能を呼び出し結論を模索させる。結果はすぐさま自分の脳に戻されるから、あたかも自分が考えたこととして処理されるのである。

 人工知能のキットが小型化し、動力の問題も解決されたとしたら、それを体内に埋め込む時代が来るのかもしれない。するともはや人工知能が自分なのかどうか分からなくなる。人工知能の判断はその人のものということになる。

 ハルシネーションがどこまで解決されていくのかは分からない。仮に体内に埋め込まれた人工知能の指示に従って行動したことで大きな損害が発生してしまった場合、その責任は誤った情報を提供した人工知能にあるのだろうか。その指示を鵜呑みにした使用者本人にあるのだろうか。

 逆に人工知能の誘導のおかげで莫大な利益が出たとき、その開発者は分け前をもらう権利はあるのだろうか。あるいはそういう条件をつけて販売することは可能なのだろうか。

 アイデンティティと深く関係する脳の働きであるからこそ、その補助機能にも個の問題が付き纏うのである。

フロッピーディスク

 職場の同僚にフロッピーディスクの存在を知らない者が増えてきた。それは何ですかと言われる方がまだいい。ネットの動画で見ましたとか、親が話しているのを聞いたことがありますなどと言われると、あなたは昔の人ですねと言われているのと同じように聞こえる。

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 最初に買ったコンピューターはフロッピーディスクなしには起動さえしなかった。しかも途中でディスクを入れ替えてようやく起動したのだった。その後、外付けハードディスクなるものが誕生してスイッチを入れれば起動し、入力画面までたどり着けるようになった。その時は実に驚いたものだ。今は蓋を開ければ起動するといっても過言ではないほどだ。

 フロッピーディスクの容量は1メガ程度であり、解像度の高い写真が数枚入るほどしかない。私が使っていたころはほとんどがテキストの情報であり、この小さな容量でも何とかなったのだ。私は万葉集の検索用のデータを打ち込んでは試していた。そんなものはより優秀な研究者による商用版にたちまちのうちに乗り越えられてしまったのだが。

 フロッピーディスクとは何ですか、という問いは私の世代でいえば蓄音機とは何かというのにもう近くなっている。資料では見たことがあるが使ったことはない、そんなものが世代ごとにあり、そのサイクルはどんどん短くなっている。今はAIが世の中を変えようとしているが、しばらくたてばAIって何ですか、ああ、むかしパソコンとかいうものに文字や音声で質問していたというものですね。いまは脳に内蔵しているものですけれどね、などと言われることになりそうだ。

模型飛行機

 こどものころ、プロペラをゴムで回す模型飛行機を作った。機体は木材と竹ひご、羽には和紙のような紙を貼った。最近は見かけないがそのころは普通にあった。竹ひごを羽の形に曲げるのがひと技、そこに羽の紙をきれいに張るのがその上の技であった。

 プロペラを手で巻いて飛ばすとうまくいったときは結構遠くまで飛んだ。ただ、機体の強度は極めて弱いので数回で壊れてしまうことが多かった。木に引っかかって取れなくなってしまったり、着陸したところが水たまりで機体が駄目になったり、いろいろなことがあった。

 ただ、出来合いのおもちゃよりは自分で作ったという思いがこの遊びを特別なものにした。今はこの種の飛行機のキットはどこで手に入るのだろうか。またこのはかないおもちゃに魅入られる子どもはいるのだろうか。

衣更

 このところ雨か曇りの毎日で、気温もこの季節ならではの水準にまで下がってきた。特別なことはなにもしていないが、不思議な思い入れが芽生えたのは事実だ。

 かつてに比べて、衣更の時期が後になった。夏服が見られたのは先週までで今週はほぼ全員が上着を着ている。中には薄いジャンパーを着ている人も出てきた。

 この傾向は来年以降も続くのだろうか。更衣の概念自体が変わりつつあると実感している。

続けること

 同じことをいつまでも続けていることにはさまざまな評価がある。いつまでやっているんだとなればネガティブな謂であり、進展のない諦めのよくないものとしての位置づけだ。これはよく聞くことだし、何かと目先のことを変えようとする現代人の気風にも合致している。

 対してその継続性を賛美する評価の仕方もある。刻々と変化を続ける世界の中で同じことをし続けること自体が困難で、それを成し遂げていることは素晴らしいというものだ。自分なりの芸とか創作とか、表現法だとか、そういったものの持続には賛辞を送りたくなる。

 周囲が変わり、何よりも自分自身が変わっていく中で、いかにやりたいことを続けていくか。それがうつろいやすい世界の中では大切な課題のように思える。

現在も未来からみれば過去

 動画サイトを見ていたら自分が高校生の頃にみた風景が出てきた。その頃はビデオカメラを持っている人はわずかでよくも残してくれたと思う。懐かしさとともにいろいろな発見があった。

 現在の当たり前の光景もこれから何年か経てば古記録のようなものになるのかもしれない。特に最近は日々の変化が甚だしく、数年前のことでも大変化の末に分からなくなっている。

 過去の風景を懐かしむとともに現在も必ず過去になるという当たり前の事実を見つめ直したい。記録することの意味はそこにある。価値が出るか否かは未来ならないと分からないのだ。

秋は早足

 このところ曇りや雨の日が多く、季節の変わり目を感じる。来週の予報をみると最低気温が一桁の日もある。外套の用意が要りそうだ。夏が暑すぎたために余計に秋のあわれを感じてしまう。

秋植え球根

 いくつかの植木鉢に球根を植えてみた。チューリップにスイセン、クロッカスなどを少しずつ。この夏は本当に暑かったのでどうなるかと思っていたら、来週からは秋らしくなるという。北海道では雪も降り出すかもしれないというのだから、やはり今年も秋はコンパクトなものになるようだ。

 球根を植えるということは花期まで責任を持つということ。花に対する責任はもちろんだが、己の心身の健康を保つこともその目的なのだ。