カテゴリー: エッセイ

風邪かな

 最近は外出する機会が増えて疲労が蓄積気味である。ここ数日、わずかに喉の腫れを感じる。市販薬を飲んでみたが、どうもよくも悪くもならない。副作用の眠気だけが襲いかかってくる。

 インフルエンザが少しずつ流行しているようだ。コロナウィルスも過去のものではない。多少の免疫をつけた分、かつてのような劇的な重傷化は起きないというだけだ。とりあえず予防のためのマスク着用と、防寒のために薄いコートを着るようにする。

 風邪などひいている暇はないのだ。やるべきことは山積し、それも崩れ始めている。少々厄介な戦いだが、勝ち残るしかない。

文化

 文化という言葉の意味はかなり広い。西洋の言語的にはもともとは農耕に由来するらしい。今日、使う文化の意味には特定の集団の中で伝統的に繰り返される慣習や、ルールのようなものを指すことが多い。企業の文化などというときの用法である。

 芸術に関わるものも、日常生活の中にあるのも文化である。文化はその意味では特別なものであると同時に極めて一般的なのもなのだ。そして、それは一人では作れない。人の集団の中で少しずつ形成されてゆくものなのだ。

 だから文化とは何かと聞かれたら、それは生活の全てと答えるしかない。その中にある一つの傾向のようなものが、他人からは文化として見えるのだ。

北千住の銭湯

北千住駅にて

 北千住の駅のディスプレイが変わっていた。前にも何度か書いたが、私は幼年期にこの街に住んでいて断片的に記憶が残っている。銭湯もその一つである。当時は自宅に風呂がなく、銭湯通いは必然の生活風景だったのだ。現在はその面影はない。が、私の覚えている北千住はもっと地方都市感があった。人口は多かったが、平屋がほとんどで下町の情緒が横溢していた。

 銭湯に行くときは父か母に連れられて行き、それによって男湯に入るか女湯に入った。覚えているのは父の頭の洗い方は痛く、少し不快だったことだけだ。男湯には入れ墨の人もいたように思うが特に恐れもしなかった。関心があったのは風呂上がりに紙のキャップで封じられた瓶の牛乳が飲めるか否かだった。恐らく当時の父の収入では贅沢はできなかったはずで、毎回飲めるとは限らなかったと思う。

 銭湯から当時の我が家まではそれほど距離はなかったはずだ。その道なりに多くの人とすれ違い、さまざまな店が声をあげて客を呼び込む姿を見た気がする。夕方から宵の口にかけての賑やかな街の様子が朧気に想起される。

 もしこの千住の街にもっと長く生活していたとしたら、どんな人生があったのだろうか。そんな妄想をすることがあるが、所詮それは無意味なことと思った瞬間に思考停止に陥いる。私はそういうもし、ならば、という段階がいくつもあるのでそんなことを考えては止めることを繰り返しているのである。いまはそれで正気を保ち、日常に立ち向かっているが、まもなく訪れる人生の転機の後で、この妄想に付き合ってみてもいいのかもと考え始めている。

犬の日でもあり、猫の日でもある

 今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

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 同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。

あの角を曲がらなかったら

 ときどきせんなき思いに駆られることがある。あの角を曲がらなかったらどんな人生が待っていたのかということだ。最近は世界線ということばで表現されているが、まさに違う線に進んだらと妄想して見たのである。

分かれ道

 運命論的な考えをしようとする気はない。でも、つまるところなるようにしかならないというのが本当なのだろう。角を曲がるか曲がらないかは結局その人に用意されているのかもしれない。

 ならばあえて別の道に進もうとすればどうなるのか。それを形にして巧みな味つけを施したのが文学というものなのだろう。もう一つの自分の可能性を形にできる優しい世界だ。この世界を俯瞰する目を持てる機会でもある。

 

読書案内

 全国学校図書館協議会が本年度の学校読書調査で、教員が本を推薦していないことが読書量減少の理由の一つであるとのまとめがあった。真実だとしても読書量減少の根本的な理由ではない。読書の推薦は一つのきっかけにはなるが、勧めれば読むようになるわけではない。

 読書量の減少はやはり本を読むことのメリットを実感できないことにあると考えた方がいい。本を読まなくても不利益なく過ごすことができると多くの人が信じている。だから世の中に存在するさまざまな他者の見解を知ることへの関心が失われ、結果としてさらに本を読まなくなるのだ。これでは強制的に読めと言われても心が動かない。

 本を読むことの実利、楽しさを知っておいた方がいい。それは教師とか家族とかが強制的に提示しなくても進んで読書をする生活習慣をつくることによって達成される。これは学校だけではなく、家庭でもしくは地域で読書の意味を様々な言葉で訴えるしかない。読書不足は誰かのせいではなく、社会の在り方そのものが関係している。

スルメイカの漁獲制限

 スルメイカが記録的豊漁で漁獲制限が行われているようだ。魚が獲れなくなったり、獲れ過ぎたりするのは海流の変化が関係しているようだ。その変化の要因が気候変動である可能性が高い。周期的なものであればまだいいが、システムそのものが変わってしまうと対応が難しくなる。

 イカだけではなくさまざまな漁業資源が変化しつつある。自然相手の産業はこのような困難に直面していることをあたらめて知らされた。

思い出すきっかけ

 全く他人であっても口調が似ていることによってふと故人を思い出すことがある。記憶を呼び覚ますきっかけは実にいろいろで、言葉の内容が違っても口調とか間の取り方とか息の吸い方などが引き金になることもあるようだ。

 偶然町で出会った人の話し方を聞いて昔お世話になった人を思い出した。その人はもう何年も前に他界されているというのに、そしてその人の話したことの大半は忘れたのにである。何気ない口調から過去の記憶が呼び覚まされる。よく考えてみれば声の質は少し違うし、年齢や風貌も違う。似ている部分がいくつかあればそれでいいのである。

 私たちが人をどのように認識しているのか。そしてどのように覚えているのかを考えてみたい。

昔の流行歌

 レストランなどで昔流行っていた曲がインストルメンタルにアレンジされてかかっているのを聞くとき、あれは何の曲だったのかと考えることがある。楽しみなことである。

 すぐに思い出せることもあれば、断片的にしか分からないもの。ちょっと時間が経ってから分かるものなどがある。ようやく分かったときはかなり嬉しい。

 スマホには音楽検索のアプリがすでに入っており、それに聞かせればほぼ曲が特定できる。しかし、それはなるべく使わずに思い出すのが楽しみなのである。