伴走様々

 視覚障がい者などがマラソンなどのコースが不定形なレースに参加するとき、ガイドする人を伴走者ということがある。ランナーの目となるためにはその心理を察し、様々な配慮をする必要があるという。視覚障がい者は歩幅が自然に小さくなるが、アスリート級になるとそれもなく、伴走する人もそれと同等もしくはそれ以上の走力が求められる。

 この伴走という概念は比喩的にいろいろな場面に使われるようになっている。私の業界では教員は生徒の伴走者であるべきだという表現が理想として語られる。走るのは生徒であり教員は牽引するのではなく、あくまで伴走するのだということだ。instructorやteacherではなくfacilitatorであれというのと同じような比喩であるといえる。

 理想としては素晴らしいのだが現実には伴走はかなり難しい。本人がやる気を出さない限りそもそもスタートしないし、その人の気持ちを察することは困難だ。それができると言う人は多いが実は自分の考えを押し付けていることが多い。伴走には徒労が多く、効率とか生産性といった物差しでは測れない。

 私はそろそろ引退するから好き勝手にいうが、伴走者になるなら覚悟しなければならないと思う。ランナーが成果を発揮できなくても、それは仕方がない。伴走者としてやるべきことをやったならそれで満足すべきなのだ。ただレース後にランナーにいうべきことがある。今日のレースの結果は途中経過に過ぎない。次のためにまた練習しようと。ランナーにエンディングを見せないことこそ伴走者の務めなのだろう。

神は自認しない

 昭和の歌謡曲の有名な歌詞もしくは台詞にお客様は神様ですというのがあった。高度経済成長期の商業の場面でもこのフレーズはしばしば援用されていた。日本の接客サービスの良さはあるいはこのマインドセットが影響しているのかもしれない。

 ただし、これはサービスをする側の心得、もしくは目標のようなものであって顧客側が神様を自称したらおかしなことになる。サービスを受ける側の態度が尊大になると様々な弊害が起きる。

 カスタマーハラスメントと言われる迷惑行為は、残念ながら中高年層に多いのだという調査結果が出ている。本来なら若い世代を導くはずの中高年がトラブルの主人公になってしまっているのだ。

 その原因の一つは目まぐるしく発展し変化を遂げた技術についていけてない焦燥にある。昔なら店員が平身低頭で接客していたのにいまはセルフで何でもやらなくてはならない。その説明もないのに若い世代はすぐに順応するが、年配者はそうはいかない。だから、サービスの不十分を感じ、それが怒りにもなる。

 神のごとく特別な態度は実は何もできない焦りでもあるのだ。我々は神を自認してはならない。それをした瞬間から、人間とは通じ合えない孤独な存在になってしまうのだ。

 私はカスハラを起こす世代にある。最近の機械任せの状況は人手不足や、経費節減のための策であることは承知している。しかし、やはり物を売る側の奉仕と、買う側の感謝は忘れてはならないと思う。怒れる老人に眉を潜めているだけでは解決しない。そういうあなたも将来同じようになるかもしれない。奉仕と感謝の精神を再認識する必要がある。

梅雨入りは遅れるのか

 梅雨入りは少し遅くなるかもしれないらしい。週間予報は日曜日が雨の可能性が有るが、概ね晴れか曇りのアイコンが並んでいる。

 流石に来週になるとほぼ曇りか雨で、その辺りに梅雨になったと報じられるはずだ。東京の梅雨入りの平均日は6月7日なので明後日だが、それよりは遅くなりそうだ。気温も高めに推移しそうなので体調管理が不可欠である。

 雨は嫌いではない。ただ、それにも程度がある。災害級の降水が多発する昨今の天候はやはり異常と言うしかない。今季の梅雨が穏やかなことを願う。

 

燕の親鳥は

 夜、駅に行くと燕の親鳥が看板の上に止まって寝ていた。雛が大きくなって巣には同居できなくなったようだ。巣の近くで、それでも雛を守ろうとしているのだろうか。夜遅くまで明るく、うるさい駅構内によくも暮らせるものだと思う。外敵に晒されるよりは遥かに安全なのだろう。

 燕の親子に愛情を感じることができるのは私たちが同じ生き物であるからだろう。進化の過程で身体の形やその一生の有り様は大きく隔たったが、子孫を残すために心身を尽くす生物の本質は変わらない。それをなんとなく察することができるのは人間の能力の一つだ。

 人工知能に同じことをやらせるのは今のところ難しそうだ。事象を超越してその深奥を摑むことは人間の牙城たるものの一つだろう。そういう能力を大切にしなければならないと考えるのである。

能登の地震

 今朝、久しぶりに緊急地震速報のアラームを聞いた。しかし、私のいたところではほぼ無感であった。気象庁によると、同時に複数の地震が発生したため、地震の規模を大きく見積もったのが原因らしい。

 地震速報が毎日のようになっていた2011年ごろを思い出す。本当に怖くてしかもどうしようもなかった。それがいつの間にか慣れてしまい。あれだけの苦しみを忘れてしまいそうになっている。

 今日の関東地方にとっては空振りの速報も、備えと覚悟を思い出すことに関しては意味があった。精度が必ずしも高くはないのは今の科学の限界というものだ。遠慮はしないでほしい。

昔覚えた曲のメロディは

 中高生のときは結構歌が好きだった。それもいわゆるニューミュージックといわれていたもので、ちょうどそのころ始めたフォークギターでへたくそな歌をよく歌った。今でもギターをときどき弾く。読書以外では長続きしている趣味の一つだ。不思議なことに全く上手くならないのは趣味以上のものを求めなかったからだろう。

 昔歌った歌を動画サイトなどで検索して再生してみると自分の覚えているのと微妙にメロディーが違うことに気づく。つまり、間違って覚えていたのだ。最近の曲はかなりオリジナルに近い形で歌えるのに、中高生時代に覚えた歌はしばしば間違っている。なぜだろう。

 おそらく昔覚えた曲はテレビやラジオで流れていたのを覚えたので、細かいメロディラインまでは覚えられなかったのだろう。ギターの練習で使った雑誌の付録は歌詞とコードしか書いていない。もっとも楽譜があっても譜読みができない私にとっては同じことだが。だから、なんとなく覚えたときに勝手にメロディを変えてしまっていたのだ。CD(当時はレコード)を買う小遣いもなかった私は耳コピだけが歌を覚える手段だったのだ。

 最近の歌は音楽配信サイトや動画サイトで繰り返し視聴できるので、複雑なメロディラインでも何となくそれふうに歌えることが多い。またギターコードを提供するサイトにもオリジナルの音を再生できる機能を付けたものもあり、それを何度か聞くことで原曲に近い歌唱ができるようになる。

 こういう風に書くといまは便利になってよかったということになるが、実は私が勝手に作り替えたメロディもなかなかいいのではないかと思ったりしている。原作者には申し訳ないが少ない資料の中で必死に覚えた分、なんというか愛着もあるのである。人前で歌う場合(そんなことはないが)は正しく直さねばならないが、自己満足の場合は間違えて覚えたままでいいのではないかと思っている。

散歩して

 久しぶりに実家の近くの畑の中の道を歩いてみた。農作業する人数人に出会ったがそれ以外は誰もいない。雲雀が盛んに泣き、夕方も遅くなってきたからかムクドリが方々から集まって群れを作り始めていた。都会に住んでいると気づかない静かな時間、そのなかで何のためというわけでもなく歩み続けている自分に妙な満足感を得ていた。

 毎日が流されてばかりでなにも得るものがないと思うこの頃だ。本当はそうではなくてサラリーという不可欠なものを得ているのだが、それもなんというか自分の力で獲得しているという実感にかけている。そういう生活はそろそろ終わりにしなくてなるまい。

 散歩して気づくことがある。私はこれまで何をしてきたのだろう。そしてこれから何をどうすべきなのだろう。そういう大切なことをなぜ毎日行ってこなかったのだろう。そぞろ歩きを皆さんにもおすすめしたい。それもできれば田舎道がいい。

1.001倍の目標

 気がつけば5月も今日まで。いろいろなことがあった5月もなんとかやり過ごした。最近、日常と距離を置くことができるようになった気がする。

 仕事のパフォーマンスは残念ながら下りっぱなしだ。過去の自分ならできたことができない。脳の体力が低下していて自分の期待以下のことしかできない。全く困ったことだ。

 それでも慌てなくなったと思う。諦めることができているというのが正しいのかもしれない。できなくて当たり前という気持ちになっているのだ。

 これはちょっと前なら堕落を意味した。自己評価の基準を勝手に下げるのは負け犬の言い訳だと思っていた。痩せ我慢してでも現状以上を目指すべきだ。現状維持は敗北を意味する。そう考えていた。

 最近はあまりに負け過ぎているからなのか考えが変わってきた。今できることをやるのが大切で、やれないことを無理にやるのは間違いだ。やれる範囲のひとまわり上をできたらそれでいいではないかと。今の自分のキャパシティの1.001倍を目指そう。そんなふうに考えるようになっている。

 実際は1以下のパフォーマンスしかできていないかもしれないが、目標は1.001だ。そういう気持ちがあれは老兵にも十分なチャンスがある。

雛育つ

 よく使う駅の監視カメラの上に作られた燕の巣の雛たちがかなり大きくなってきた。親鳥が近づくと一斉に口を開ける。雛たちを支える親鳥の献身は心を打つ。彼らの命は親鳥にかかっているのだ。危険を回避するためにあえて人間の生活圏に飛び込んできた鳥たちの叡智には感銘を禁じ得ない。

雨漏り

 昨日はすごい雨だった。雨が傘の下から吹き込んで来て、傘を破壊していった。台風の遠い影響というが本当に接近したらどうなるのか、空恐ろしい。

 気になるのが利用駅の雨漏りである。最近ほうぼうの駅で雨漏りを見る。メンテナンスが追いついていないようだ。もしかしたらそういう仕事のできる人が減っているのかもしれない。AIを駆使してもこうした作業というのは今のところ人手によらなくては立ち行かない。

 大雨が降るたびに雨漏りする駅舎に今後の不安を感じている。やるべきことには人材を投下すべきなのに、それがないといつか瓦解する何かがあるはずだ。