理だけでは人は救われない

 イスラエルのハマスに対する執拗すぎる報復に日々驚くばかりだ。テロリストを根絶するという大義名分のもと一般市民ごと根絶しようとしているかのようだ。戦争とテロの違いがよく分からなくなっている。大義は双方にあり、その利害が正反対にあるだけだ。非戦闘員を巻き込んでも仕方ないと考えているのも同じように見える。

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 これだけの戦闘を続けられる資金力があることも不思議だ。双方にはそれを支援する国家や組織が存在している。アメリカはユダヤ人社会への配慮として伝統的にイスラエルを支援し、中東の一部やエジプトはムスリムの仲間としてハマスにおそらく相当な支援をしている。だから、いつまでも終わらない。イスラエル建国に関してイギリスがとった不適切な外交策がこの地域の混乱の原因であるというのは歴史上の常識だが、現在に至るまで地域外の利害関係が絡んで戦争が続いていることになる。

 人類にとって大きな皮肉なのはこの地が宗教的な聖地であるということだろう。本来、人間を救済すべき宗教が人々を分断し、戦わせる原動力となっている。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教ももとをたどればつながっているのだという。クルアーンの中にはイエスが預言者の一人として登場しているらしい。これらの宗教について共通するのは一神教であるということだろう。つまり神は一つであり、排他的な考えを持っているということだ。自分の神以外は信じないだけではなく、認めず排除しようとする。これは歴史上繰り返されている真実だろう。

 多神教の国が平和であるかといえばそうでもない。ヒンドゥー教を信奉するインドが多くの民族紛争を経験していることはよく知られている。カースト制などの分断を許容する信仰の体系が問題なのかもしれない。多神教国家として世界的に特異な位置づけにある日本も太平洋戦争の当事国であり、他国への侵略も行った。でも、この時代はよく考えると天皇を神に見立てた疑似的一神教を国家として作り出そうとしていた。戦国時代の武将たちも、何か一つの神や仏を自身の守り神に見立てたり、徳川家康のように自らが神となることで幕府の求心力を保とうとした。どうも一神教は権力との親和性が高く、また戦争の際のイデオロギーにも転換されやすい。

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 同じく長く戦争を続けるロシアとウクライナの戦争においても、先日クリスマスに関して興味深い報道があった。同じくいわゆる東方教会の流れをくむキリスト正教会を信じながら、ウクライナはこの派が行うクリスマスをユリウス暦に基づく1月7日ではなく、グレゴリオ暦の12月25日に変更して祝祭を行ったという。明らかにロシアに対抗する姿勢をみせたということだが、信仰を同じくすることが戦うことを阻害する要因の一つであることを示す例だともいえる。

 宗教が苦難の人々の精神に働きかけ癒しや救いを与えるという点においてはおそらくほとんど共通するのだろう。ただそれが体系化されていく中で組織としての論理が働く。組織を維持するために排他的にならざるを得なかった歴史を経て、それが定着して戦う理由になってしまっている。これは人間の悲劇とでもいうべきものだろう。神を信じられることは人間の叡智だ。神を捨てると人間は勝手なことを始める。科学技術が地球環境を破壊し続けているように人間の力を過信してはいけない。それを思いとどめさせる制御装置として神は不可欠だ。ただ信じるために勝手なルールを人間が作り出してしまっては恩恵は得られない。

 中東の戦争は私が生まれる前から続いており、その遠因は古代に遡る。分断してしまった民族、宗教をどのように繋ぎとめればいいのだろう。兵器に金を使うのはもうやめて、この方法を考えることに投資をするべきではないか。荒廃したガザの風景を報じたニュース映像を見てそう痛感する。そしてこれは中東地域だけの話ではない。世界中で起こりうる未来の姿なのだ。

The ongoing relentless retaliation against Hamas by Israel is alarming. The distinction between war and terrorism has blurred. External interests perpetuate the conflict, rooted in historical and religious complexities. The irony of religious conflicts persists, as faith becomes a divisive force. The need to address root causes and invest in peaceful solutions is imperative.

区切りを重視する日本文化

 おそらくどの国、民族にも当てはまると思うが、日本文化でも区切りを重視する傾向がある。例えば、季節という概念である。実際は自然はその時々の条件で少しずつ変化し、循環しているというのが事実だろう。ただ、その循環の過程のどこに関心を持つのかは民族の嗜好があらわれる。日本の場合は春夏秋冬という四季に分節した。これはもちろん漢字文化の制約も受けているが、日本の気象にあわせて意味づけされてきたことに注目しなくてはなるまい。

鶴間公園の夜桜 2023年3月撮影
鶴間公園の夜桜

 四季といっても実際には四等分にはならない。例えば、梅雨の季節は果たして春なのか夏なのかを判別するのは困難だ。季節の行合にはどちらともつかない要素がある。それを節気のような概念を持ち込んで無理やり四季を認識する。だから体感とずれていても知識の上での分節を重視する。暦の上では春だが、などという言い方はよくなされるし、古今集巻頭歌のように文学の題材にもなってきた。

 時間の区切りの最たるものは年である。現在の暦で1月1日は冬至を少し過ぎたときであり、取り分けて大きな気候上の変化が少ない。動植物も多くが活動を不活発にしており、体感上の節目は感じにくい。桜が咲いたり、雨が降ったりといった変化が乏しいのだ。だからこれは身体で感じる区切りというより、人工的なものなのだ。

 敢えて区切ろうとするのは知恵のなせるわざに相違ない。とにかくいまの問題は一度過去のものとして現在と切り分けようとするのだから。この叡智に従うべきだろう。あまり冴えなかった一年に去年というラベルを貼り、新しい一年に賭けよう。

仕事納め

 仕事はまったく終わらなかったがとにかく仕事納めになった。やり残していることはたくさんある。でも、一旦リセットしよう。この休みはずっとサボっている家のことや、健康維持のための試みをしよう。

最後まで言い切る国語力の重要性

 最後まで言い切らないのは奥ゆかしさであり、日本では美徳とされている。しかし。意図的に言い切らないのと、能力がなくて言い切れないのではまったく様態が異なる。最近は「言い切れない」事例が増えているような気がする。

 細かなニュアンスを避け、大づかみにものをいう場合に「~的」とか「~系」といった表現で済ませてしまうことはよくある。「みたいな」「っぽい」のような口語表現も含めるとかなり多い。さらには例えば「東京に住んでいる人々」を「東京住み」とまとめる表現もよく見られる。これらは会話の中で 使う分には問題ないし、同じような言葉を使う仲間内ならば親近感を高める役割も果たせる。しかし、これをそのまま文章にしてしまうと誤解が生じる可能性がある。口語的表現と書き言葉の差はまだあるのだ。

 書き言葉に会話体的な表現が多用されるようになったのはソーシャルメディアへの書き込みが普通になったことによるのだろう。それらのメディアで展開される言葉遣いは独自の進化を遂げて話し言葉でも書き言葉でもない表現を多数生み出している。ネットスラングともいうべき表現は、これも一種の仲間意識を高める言葉であり、ジャーゴンなどと呼ばれる言葉の一種である。

 四六時中ネットにアクセスしている世代にとってこうしたネット上の言葉は、日常生活とは別の次元における言語表現になっている。話し言葉でありながら文字として入力せざるを得ないという事情が独自の表現をつくり出した。そして時々それが日常生活に降りてきて、リアルな生活の中で使用されているのだ。

 幅の広い、おおざっぱな表現はネットでのチャットに向いている。多くを入力しなくても読者が察してくれる安心感がある。それを繰り返しているうちに明確な表現を工夫することを忘れていっている気がする。さらに生成型AIが文章を書くようになるとますます私たちは物事をきっちりと言葉で考えることをしなくなるのかもしれない。これは大問題であろう。

 物事を言語化して考えないとなると、判断は感情的になりやすい。また、論理的な思考を踏まなければ時々の判断は、その都度刹那的に消えてしまうことにつながる。経験がのちに生かされることもない。だからどんなに野暮だと思われてもしっかりと言い切ることは大切である。そういうことを教えられるのは中等教育の期間だろう。本当は作文やスピーチの指導にもっと時間を割くべきなのだろう。

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x年前の私

 グーグルフォトに同一人物の過去の写真と最近の写真を並べてコラージュのような映像を自動的に生成する機能がある。これはアプリが勝手に提案してくるものである。

 他人の場合は冷静に楽しめるのだが自分となると少し具合が異なる。年々容姿が老いてゆくことを認めざるを得ないのである。これはときに残酷でもある。

 最近、鏡でまじまじと己の顔を見ることがあった。いつもはあまり見ない。おまけに視力が少しずつ低下しており、細かな部分は見えなかったのだ。それがいわゆる女優ライトで見ると老化の紛いなき面が浮かびあがった。ぞっとしたがいかんともしがたい。

 過去の写真を時々見せられるのはこういう衝撃を和らげるための予防対策だと理解した。ただ何事も忘れっぽくなっている私は、1時間後にはこのことを忘れている。そしていつまでも心の中では若いときのままだと思い、そのように振る舞っている。だから、多少無理をすることも厭わないし、そうでないとおかしいと考えてしまう。

 自分の身体と自分の精神が一致するのは意外にも難しい。でもこの思い違いは案外大事なものかもしれない。敢えて心まで老け込むことは必要ない。暫くは大いに誤解しておくことにする。

大雪のニュース

住んでいた地名が大雪のニュースで出てきた。住んでいた頃はいよいよ来るぞという気持ちになった。いまは遠くのニュースになっている。

ただ、過去の感覚というものはなんとなく残っているものだ。雪のニュースがあると少し嬉しく、多くは緊張する。除雪のために体力を温存したい。いつぞやのように滑って転ぶことのないようにしたいなどと思うのである。

元天皇誕生日

 今日は上皇の誕生日である。ご高齢故にお身体にはお労りいただきたい。亡き父とほぼ同年齢でいらっしゃることを思えば、いろいろと思うことがある。いつまでもお健やかでいらっしゃっていただきたい。

 平成時代のこの時期はいろいろあって大変だった。不景気と震災はこの国の凋落を予感させた。いまも状況は変わらないが、我々に耐性ができたことと、イノベーションの期待から最低の気分は脱している。

 うまくいかなかった時間は飛躍のための準備であると信じて腐らずにいたい。私もまた身体的な減退期に入っているが、無責任に夢を語る癖は衰えていない。続けていればなんとかなる。遠くの場合、これは当てはまる。

 上皇陛下にはこの国の復興の様をお見届けいただきたい。

眠くなる薬

 風邪を引いて医者から処方された薬は乱暴な言い方をすれば麻痺を誘うものだった。脳の中枢に働きかけ咳をし過ぎないように促す。少しくらいの喉の腫れにいちいち反応するなというのであろう。

 これには副作用があって、倦怠感や眠気をともなうと薬剤師が説明してくれた。他にも便秘などいくつかの症状が現れることがあるとも言った。そう言われても飲むしかない。いまは風邪を治すことの方が優先されるのだから。

 果たして服用後は極めて眠くなった。仕事なので寝るわけにもいかず何とか起きていると次々に幻覚が起きる。そこにいない人の姿が見えたり、声をかけられたりする。私は夢を覚醒時にあまり覚えていないのだが、これは醒めながら夢を見ている状態と察した。いくら我にかえってもまた繰り返すので、いつもと違う共有空間で仕事の続きをした。副作用とはかくなるものと思い知った。

 服用中は運転や機械の作業をするなという注意は疎かにできないものと再確認した。

クリスマス寒波

 今季になって最大級の寒波が南下し、北陸では大雪になっているらしい。20センチ積もったという。東京で同じことが起こったら機能不全に陥るが備えのある地方ではほんの序曲に過ぎない。水分の多い重い雪というから、建物への負担が懸念される。雪下ろしで事故が起きないことを祈りたい。

 この時期の寒波をクリスマス寒波などと通称する。雪の少ない地方にとっては降雪は嬉しいが、北陸などではできればクリスマスは降らないでほしいと願う。静かにサンタクロースの乗った橇のやって来る音を聞くというイメージは、北陸にはなかった。叩きつけるような雪とときに雷鳴が響き渡る。Silentではないナイトだった。

 気候変動のせいか夏日の幅が広がり猛暑が続いた。こういう年は豪雪になりやすいとも聞く。まずは神頼みで穏やかなクリスマスを願う、

時代劇の効用

 YouTubeでたまたま表示された昭和の時代劇を見てみた。いわゆる勧善懲悪の定型の内容だ。すぐに別の動画に移るつもりだったが、最後まで見てしまった。

 ストーリー展開には荒いところもあり、人物造形も典型的なものの連続だ。それらは気になることであったがそれよりもなにかを引き付けるものを感じた。恐らく日本の文化に基づいたこうあるべきというすじ運びができているのだろう。落語や講談の展開と似ているからかもしれない。

 悪はどこまでも悪で、それに虐げられた人々は救われるべき弱者として描かれる。そして悪役が崩壊するときの爽快感を主役が演じて見せる。こういう展開は現実にはめったにないのに、時代劇では必ず達成される。爽快なのだ。

 時代劇の話には日本人の伝統的行動様式が反映されている。ある意味、これらを通して和風を学んだともいえる。いまの若い世代にはこの機会が少い。昭和のマンネリといわれた時代劇にも実は私は効用があったと私は考えている。