巨大な都知事候補ポスター掲示板

 都知事選挙のポスター掲示板の大きさには呆れている。数字は30までふっているが、不足することが予測されているため、欄外にも枠がある。それでも足りなくなる可能性があるらしい。

 首長選は政党の選挙ではないが同じ政党から複数立候補するのはやめてほしい。質より量で衆目を集めるのが目的だろう。選挙をビジネスにすることは明らかにおかしい。そのためにかかる経費は都民の税金からなる。今からでも候補を絞るべきだ。

 都知事は注目度が高く、ある意味首相よりも民心を掴みやすく、政治家にとってはうまみのある仕事なのかもしれない。また、選挙に出馬するだけで一定の宣伝効果がある。だからといって金に任せて気軽に立候補するのはいかがだろう。結果的に民主主義の質の低下をもたらしている。子どもたちに都知事選のあり方は残念な事例としか紹介できない。

 都民以外の方が巨大な掲示板を見かけたら是非笑っていただきたい。そして次にこの国の行く末を案じていただきたい。

自分を励ます、騙す

 自分に言い聞かせるというとオカルト的な含意を感じるが、案外そうでもないらしい。スポーツ界ではこれは経験的に信じられている。勝利のイメージを強く持つことで実際に試合に勝つことができるというだ。脳の機能を活用した結果というが詳しいことはよくわからない。

 ただ言えるのは、私たちはかなり「気」によって動いている。その時々にどのような精神状態でいるのか、何を考えているのかで行動のあり方が変化するのである。苦しいときほどあえて笑えとはいろいろな人から聞く、それが気休めかと思っていたが、脳科学的にその効果を裏付けようとしている人もいる。今は逆境にあるが、最終的には成功するとどれだけイメージできるのかがその後の結果に大きく影響するというのである。

 果たしてどれだけ実証性があるのかはわからないが、ネガティブ思考が良くないことだけは事実だろう。満足を感じるラインをあえて下げ、幸福感を得ることもその技という。はじめから多くを望まず、達成された小さな成功を大きく喜ぶ。この蓄積が大きな成功につながるというわけである。

 言ってみれば自分を励まし、場合によっては自分を騙すこと。それがこれからの困難な時代を生き抜くためには必要なのだろう。いけない、これからの時代は決して困難ではない。きっと素晴らしい未来があるのだ。

さらに暑く

 さらに暑くなる予報が出ている。東京は32℃の予報だ。梅雨はどうしたのだろう。雨の確率は低く、明日も同様だということだ。

 ここまで上着を着て出勤してきたが、来週からはやめようかと思っている。暑熱順化の意味を込めていたがもうそれどころでもなさそうだ。暑い夏は始まっていて、それも長引きそうである。

時刻表どおりホームに着いても乗れない

 時刻表通りにホームについても電車に乗れないことがある。最近は秒単位で時刻合わせをする時計やスマホを時計代わりにしている人が多いので、これはおかしいと思う人が多いだろう。

 ただ鉄道会社の多くは発車時刻を電車の動き出す時間としており、ベルや閉扉はその前に終わっていることが多い。だから、00秒にホームに着いても乗れない可能性があるし、文句も言えないことになる。

 遅れることにはとやかく言うが、時刻表通りでも不満を漏らす人はいる。まずは時刻表より数分前にホームに立つていなければ電車には乗れないと再認識しておこう。

梅雨入りは16日か

 関東地方の梅雨入りは平年よりかなり遅れて6月16日になる予報が出た。しかし、これも少し怪しいらしい。今年は梅雨前線が北上しにくい状況にあり、もしかしたらこの日に前線が来ないかもしれないというのである。

 もしこの時期をはずすと6月下旬まで下り、記録的な遅さになる可能性があるという。最近、日本の季節は四季というより夏冬の間にわずかに春秋が始まるといった感じだ。梅雨もついに夏に吸収されてしまうのだろうか。

 梅雨は旧暦だと五月に当たるので、五月雨とか五月闇とか梅雨に関連する言葉が多い。五月蝿いという当て字もこれに関連するのだろうか。たとえ鬱陶しい天候であっても農事には大切な雨季だ。適度な雨をもたらしてほしい。

ひとりサマータイム

 朝の天気予報では東京の今日の最高気温が30℃になるかもしれないとのことだ。今季、真夏日を予報したのは初めてではないか。ここ数日の暑さの蓄積もあるのかもしれない。

 暑熱をどうやって和らげるか。空調の活用はもちろんだが、日常的な工夫も必要だろう。衣食住のすべてで考えていきたい。取りあえず自分だけのサマータイムでしてみたい。少し早く起きて午前まてに大抵のことを終わらせることを目指すというものだ。

 本当に暑くなると気力までくじかれるので今のうちに覚悟をしておきたい。果たしてどんな夏になるのだろう。

多湿

 梅雨入り前の高温多湿な日々が続いている。高温は何とかなるが、多湿はいただけない。日本の夏はカイロより厳しいと言った人がいるらしいが恐らく湿度の問題だろう。

 多湿になると黴などの発生が危惧される。知らないうちに衣服やカバン類などが黴に侵されていることはよくある。何度も経験してきた。こういうのはちょっとした油断が大きな害に繋がる。恐ろしいほど速い繁殖力が原因だからだ。

 これからは毎日を注意深く過ごさねばならないのだが、日常の雑事に紛れてまた同じ失敗を繰り返すのだろう。とにかく多湿には気をつけたい。

まだ降りたことがない駅に行き

 東京や神奈川を走る電車は相互乗り入れをしているものが多い。中にはかなり長い運行距離を持つものもあり、うっかり乗り過ごすと悲惨である。

 車内に掲示される路線図もかなり広範なものとなっていることもある。どこまで続くのだろうと思う。そういう路線図を見るといろいろな妄想が浮かんでしまう。

 気まぐれでまだ乗ったことがない路線に乗車して、名前すら知らなかった駅で降りたら何が始まるだろう。もしかしたら世界観が一変するような出来事が起きるのではないか。あるいはそこには誰もおらず次の電車来るまでには恐ろしく長い時間があって途方に暮れるのではないだろうか、などと。

 実際にはそんなことはあるまいし、試してみる勇気もない。ただ、身近にある冒険の旅をいつかはしてみたいという思いだけは募るのだ。

自分のいない世界を見渡して

 自分がいない世界のことを考えたことがあるだろうか。思考の原点である自分がいない世界というのは現実的ではない。たとえその場面に自分がいなくても、それを考えている自分は確かに存在するはずだからだ。

 でも敢えて別宇宙かそんなものがあって、そこに自分を退避したとして、自分のいない世界をみられたとしたらどうだろう。それがかつて関わりがあったがいまは関係がなくなったとしたならばどうだろう。きっとそれは恐ろしく寂しく切ないものをもたらすに相違ない。

 自分がかつて生きていた世界に、自分はすでになく、そこに存在していたことすら誰も覚えていない。自分なしに日常生活は営まわれ、そこに何の問題もない。本当に自分はかつてその世界にいたのだろうかと疑わしくなる。別世界からの観察を続ける勇気は潰えるかもしれない。

 それでも何らかの事情で懐かしい世界を見続けなくてはならないとしたならばそれはかなり辛いことになる。しばらくしたらこう考えるかもしれない。結局、自分の存在などどれほどの価値があったのだろうかと。これは苦しい結論である。

 ただ、さらに時が経てばこう考えるかもしれない。自分の存在は小さなものであり、自分がいなくなっても世界はびくともしない。ならばやりたいことをやればいいのではと。そういう段階に達する時が遠い未来に来る。

 別世界に移動した私にもその世界で生きていかなくはならない。それがどんなに幸福なものでも、あるいは過酷なものでも、その中でなんとか生きていく必要がある。そのときに元の世界を見て得たことを活かすべきなのだ。

悲恋の文学

 かつて万葉集を研究していたころ、相聞には悲恋もしくは不如意の恋愛模様が描かれていると諸学者が述べている著述に接した。

われはもや安見児やすみこ得たり皆人の得難えかてにすといふ安見児得たり

 のような恋愛の成就を高々と歌うのは例外で、大抵はかなわぬ恋、離別、死別、旅による遠距離恋愛の思いなどが歌われている。「孤悲」という万葉がなが使われている例もあり、確かに悲恋は文学になりやすい。

夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ

 という坂上郎女の歌のようなものが圧倒的に多いのだ。

 この伝統は時代が下っても引き継がれる。王朝和歌でもほとんどが悲恋もしくは相手の不誠実を嘆く歌が大半だ。百人一首は43首の恋歌を含むが、これもほとんどすべてが悲恋の様相である。

嘆きつつひとり寝ぬる夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

 藤原道綱母の恨みがましいほどの恋情の訴えは「蜻蛉日記」で描かれた背景を知ると一層味わい深いものになる。恋歌は読者の同情を呼びやすい。恋愛感情は人間にとって共通の思念であるからだ。でも、同時に恋愛は個々別々のものであり、きわめて個人的なものでもある。すべてが違うがその根本に共通するものがあるというのが特徴だ。

恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり

 室町時代の「閑吟集」の歌謡も「つれなし」の感情を歌ったものである。こうしたことはいまだに引きずっていて、いわゆるポップスの歌詞もほとんどがうまくいかない恋を歌っている。

もう一度さ 声を聴かせてよ めくれないままでいる夏の日のカレンダー 
ただいまってさ 笑ってみせてよ 送り先もわからない忘れものばかりだ
ココロが壊れる音が聴こえてどれだけ君を愛していたか知って
もう二度とは増やせない思い出を抱いて 生きて… (「幾億光年」Omoinotake)

 軽快なリズムと展開の多い楽曲に乗せて歌われる最近のヒット曲も歌詞だけ読むと未練の歌である。こういう内容の歌を私たちは自然に受け入れてしまうのだろう。古典文学を読んでいるとその深奥に本質的な要素を発見することがある。これをもっと考えることが必要だ。