千葉県東方沖の群発地震

 千葉県の東方沖を震源地とする群発地震が起きている。プレートの境界上にある同地域で、プレート同士の干渉が起きているのが原因だという識者の見解がある。ゆっくりすべりという述語も報じられている。これが正しいのならば今後も地震は継続し、場合によっては規模の大きな地震も発生するらしい。

 ゆっくりすべり、スロースリップと呼ばれる現象は大きな地震を発生させずに地殻の歪みを解消するものであるはずだが、そんなに都合のよいことばかりではなく、これが要因となって大きな地震を発生させることもあるらしい。詳細な因果関係は分かっていないようだ。

 考えられることとして、千葉沖で今後大きな揺れを感じる地震が起きる可能性がきわめて高まっていることである。沿岸部に行くときはニュースに気をつけたい。できればネットに繋がなくても聴けるラジオがあるといい。持っていたがどこにやったのか思い出せない。ごちゃごちゃの部屋をどうしよう。これは地震対策以前の問題ではあるが。

学校で使うデジタルデバイスはレンタルでいいのではないか

 一人一台のパソコンなりタブレットを小学校や中高生に使わせる教育方法の推進は、昨今の主流であるが、様々な障害を抱えていることも確かだ。その一つが購入させたデバイスの故障が多く、授業で使えなかったり、保護者の負担が増えたりすることがある。故障については機器そのものの問題もあるが、子どもの機器の扱い方の問題もある。子どもの中には機器を乱暴に扱ったり、意図しなくても落としたり水没させたりして故障させてしまう事例が多いと思われる。もともと使いたくて買ったのではないし、子どもが使うにはあまりにもやわなのである。

 そこで私はいくつかの提案をしたい。まずは機器のメーカーについてである。デジタルデバイスはすっかり海外勢に席巻されて、日本の個人向けコンピュータは風前の灯といってもよい。安価でそこそこの性能がある中国などのパソコンは個人で使うのには十分な性能がある。かつては高級品であったがいまは家電としてコモディティとなっている。ただ、教育用に特化した機器があるのかといえば十分ではないと考えている。最高のスペックや突出した処理能力はいらない。求められるのは第一に堅牢性であり、故障の少なさだ。バッテリーも6時間程度持てば良い。後述するように私案ではモバイルとしての軽さや、特殊なインタフェースもいらない。壊れにくく、授業のある時間は充電が不要ということが満たされていれば十分だ。

 次に流通業者に提言したい。学校に絞ったビジネスプランを提示し、安定的かつ恒常的な契約を取り付けるべきだ。学校へは機器をレンタルするかたちとし、故障機は交換できるようにする。学校には保証費を提示し、故障時に一部負担をしてもらえるようにしておく。これを年度更新していくことで、安定した収入を確保できる。少子化が進んでいるとはいえ、学校はなくなることはない。契約を取り付けられれば心強い収入源になるはずだ。

 学校関係者へは次のように言いたい。デジタルデバイスは学校でレンタルし、家に持って帰らせないようにすべきだ。デジタル機器による授業やその他の学習は確かにいろいろな利便性があるが、子どもの学習成果を阻害することも多い。家庭学習はデジタル機器ではなく、紙と鉛筆でおこなわせることをおすすめしたい。

 学校には生徒個々人のデジタル機器を保管でき、充電もできるラックのようなものを用意することを提言したい。家庭学習の宿題はデジタル機器を使わなくてもいいものにすべきだ。生徒が登校したら決められたデジタル棚から取り出して授業で使用し、放課後はまた同じ棚にもどす。充電にかかるコストなどはあらかじめ保護者に示し、負担をお願いする。

 保護者にお願いしたいのはデジタル機器はあくまで学習の道具であるという理解をしていただきたいということに尽きる。レンタル料ばかりを請求され、家庭では使えないとなると負担を渋る家庭もあるはずだ。

 授業でのみ使うレンタル制のデジタル機器ならば故障のリスクも家庭への負担も減らせる。日本の学校の実態に合わせ、教育的効果を配慮した使用制度を確立すれば、当初の理想に近づける。

今日から三月

今日から三月である。私の仕事にとっては年度末のいろいろある時期で無難に乗り切りたいとばかり思う。切れ目節目の時でもあり、私としても今年度で終わる小さなことを仕上げ、次に続く何かを模索していかなくてはならない。やるべきことを書き出して、優先順位をつけてと、毎年やることを今年も始めよう。今年は少々緊張感をもって。

資料を捨てられない理由

 高名な学者が書いた学習法の本に、覚えたことは資料ごと捨てるべきだと書いてあった。効率よく学習し、よりクリエイティブな思考をするためには個々の資料に拘泥してはならないという考えであったように記憶している。これはこれでもっともであり、説得力がある。ただ私にはどうしても受け入れがたい意見であることも確かだ。この違和感はどこから来るのだろう。

 それは私の歩んできた学問の性質が関係しているのかもしれない。先の学者というのは物理学の専門家であり、世界を法則で捉えようとする学問の大家である。法則を発見することに全力を注ぐ学者にとって、個々の資料はその手段に過ぎない。なんと書いてあろうと期待する法則性を立証するために役立てばいいのである。

 対して私が学んできた古典文学は資料そのものに多様な意味がある。たとえばなんという言葉が使われているか、どんな紙にどの様な字が書かれているか。こうしたことがすべて大切だ。必要なのは記号化された文字情報だけではなく、それが書かれたもの自体に意味がある。これは資料には様々な意味が包含されていることを意味する。

 そしてたとえ出版物であっても、世間に流通した件数が少ないこともある。そういった資料はここで逃すと二度と出会えないかもしれないという気持ちで大切に扱う。そして、使い終わっても廃棄できない。その資料が再び使える日が来るとどこかで思っているからかもしれない。

 私がいつまで経ってもものが捨てられないのはこの様な学問的な背景があると考えてみた。私のような考え方は今の時代にはあっていない。情報はなんでもデジタル化され、高速な検索と編集の技術によってデータベースになっているから、学習者は個々の資料を特別なものとは思わない。

 私のような考え方は冗長で無駄が多いと思われる。瑣事にこだわり前に進めない思考法とみなされている。おまけに片付けることができないことを非難材料にされることも多い。効率が悪いとも言われる。対して最近流行りの学習法は効率を追求するあまりに物の本質を見失っているか、意図的に見ないで済ませているのではないだろうか。彼らにとって進むべき道は最短距離の一本道で、迷うことなく通り過ぎることをよしとしているのだ。

 資料を切り捨てる人たちの考え方はとても洗練されており魅力的な気がする。その反面でなにか大切な側面を忘れていないか気になる。多くの切り捨てられた部分はその局面では不要なものだったかもしれないが、見方を変えればそこに意味があったのかもしれない。私はいつか光るかもしれないガラクタの石をいつまでも持っていたい気持ちなのである。

最初の一歩

 毎日文章を書いていると、何を書いていいのか分からない日がある。そんなときは天気の話題でごまかしているのだが、実は書くことが決まると次々に書けるものである。換言すれば最初の一歩さえ踏み出せればなんとかなるということだ。

 ただし言うは易く行うは難し。その最初の一歩をどこに置けばいいのかで迷うのだ。おそらくその一歩を踏み出す前は、それがある程度継続して自分なりの目的地にたどり着くことを考えている。だから目的地のことばかり考えると行き詰まる。最短距離で苦労することなく進んでいこうと無意識で考えるからだ。でも新しいことを考えたり、始めたりするときはその後の展開は予測不可能である。予測できるものであればそれは新しいものではなく、既に経験したものであろう。だからこそ、最初の踏み出しには困惑と不安がつきまとう。

 そういう意味では最初の一歩はむしろなんでもいいのかもしれない。とにかく始めることによって、考える糸口が生まれる。糸口が分かれば紆余曲折はあっても思考が重ねられる。目的地が仮に北にあったとしても、最初の一歩が南を向いても構わない。最短距離ではないが、道中で得られることは多いはずだ。

 私のブログは大抵がとても短い時間で書くので、論理の破綻や無駄が多いかもしれない。それでもいいと思っている。結果的に何も考えなかったことよりも、下手な思考をした方がいい。

花粉症

 今日はかなり強く花粉症の症状が出ている。雨上がりは花粉の飛散が活性化するのと、強風の効果もあって今日は条件がよろしくない。

 対策薬を規定の半量飲んでいたのだが、今日からは決まりどおりにしたい。まったくこの季節には困ったものだ。私の場合は4月の半ばには無症状になるがそれまでは戦わなくてはならない。

 毎年のことであるがその都度慌て、時期が過ぎれば忘れてしまう。だから、経験は積み重ならない。そういうこともあるものだ。

ストーリーの中で覚える

 何かを覚えさせるとき、意味のないバラバラの情報として与えるよりも、他との関連性を意識させた方がうまくいく。結果として覚える量は増えたとしても意味のつながりがあると覚えやすい。そしてできれば自分の経験に引き付け、自分の言葉として語れるようになればより確実性が上がる。

 これは多くの人が指摘していることであり、目新しさはない。大事なのはどのように実践させるかである。すぐに思いつくのは点の情報を結びつけるストーリーを作らせることだ。バラバラに見えるものに因果関係をもたせ、背景を補足することでいきいきとした情報にする。作った話を他人に話してもらうのもいい。これを繰り返し自分の言葉にできるようにしていく。

 受験生だったとき、世界史の知識は講談のような話を作って覚えた。「秦の始皇帝の栄光と没落」とか「ナポレオン物語」とかだ。今思い返せばかなり怪しいものだが、西暦何年なにがあったと覚えるより遥かに繋がりがわかる。

 いまは国語を教える身の上だが、例えば古典文学は話のパターンを意識して覚えさせる。たとえば歌物語なら、いろいろなことが起きるがそれらは和歌を詠むことで一気に進展する。説明を重ねなくてはならないことも1首の和歌で全て解決するという事が多い。これはもともと物語であるが、文法や単語を覚えること以上に大切な知識だと思う。そして単語や文法もストーリーとともに理解すれば「あやし」とか「あからさまなり」「さへ」「さて」といった多義語や現代とは意味がずれている古文単語も覚えることができる。

 なにかを覚えるときは最低限の情報だけ取り上げるのではなく、あえて周辺の関連事項を取り込んで情報量を増やしたほうが効率的に覚えられる。来年度の授業ではこれをクラスの生徒全員にやってもらうことを目標にしたい。

古いコート

 寒さが復活して再び厚手のコートに戻した。このコートは実は20年近く着ていてかなり劣化が激しい。両袖の表面の生地にはいくつか亀裂があり、裏生地にもほつれがある。それでも着続けているのは私が外見に無頓着ということもあるが、それ以上に愛着があるからかもしれない。

 量販店で購入した布地のコートは特に高級なものではない。デザインも平凡であり、今どきの製品に比べれば厚手でその分重い。ダウンなどにすれば、もっと軽く温かいものもあるはずだ。ただ、この布団を着ているかのような重みに慣れてしまうとコートはこうでなくてはならないなどと勝手な思い込みが出来上がっているのである。

 また、このコートを着て出かけた数多くの場所や、そこで味わった喜怒哀楽の数々を思い出すと、これが自分の過去の確実な一部であると感じるのだ。だから、機能面とか美意識とかそういうものとは別の意味をこの古着に感じていることも、思い込みの上塗りをしている。

 東京に戻って数年後にこのコートを駅前にあったモールで購入した。当時は結構スッキリしたフォルムのように思えたし、人に褒めてもらうこともあった。それを冬になるたびに引っ張り出し、その季節は毎日来て出かけている。仕事でも休日でも着ているので利用価値は非常に高い。購入した価格を使用した日づけで割れば、一日あたりの価格はかなり安いはずだ。

 最近はさすがにほつれが気になり、別のものを買おうかなどと思うこともあるが、実際には買い替える気持ちは小さい。定年までの間はよほどのことがない限りもうこれでいいかと思う。世の中には新品をわざわざ経年加工して着る人もいるらしいが、これは天然の古着であり、その意味では味のあるものと言えるだろう。もう少し付き合ってみたいと考えている。

歩く楽しみ

 私は歩くことが好きな方であると自認している。目的なく歩くこともときにはある。そこで何かを発見したり、それまでとは違うものの見方をできるようになることが楽しい。

 ただ、定期的に襲う膝関節痛が悩みの種だ。今までに4、5年おきに発症し、水を抜いてもらったこともある。その後軽快するが、いつの間にかに痛みが発生する。一昨日あたりからその気配を感じており、またかと落ち込んでいる。

 水を抜かなくてはならなくなる場合と、何もしなくてもよくなるときとある。前回は自然治癒したので今回もそうであることを祈りたい。

 歩くことが楽しみである以上、膝の故障は避けたい。歳を重ねるといろいろな障りがある。それを受け入れながら生きるのが人生というものなのだろう。

詩の授業

 中学時代の国語の授業で何をやったのか、実はほとんど覚えていない。教材の名前が上がればそのことは思い出してもどんな内容だったのかは忘却の彼方にある。だから、私が教えたことをいつまでも忘れるなとは人には言えない。

 ただ一つ印象的だったのは詩の授業だった。詩は声に出して読まなければ本当の良さは分からない。そういう説明を受けたあと、ひたすら音読、朗読をさせられた。随分変わった授業だと思った。その頃の私は素直であったから、こんなことをして何になる。時間の無駄だなどとはつゆ思わず。級友と声を合わせることを素朴に楽しんでいた。

 いまになって考えるのだが、韻文の楽しみはこれがきっかけに始まったのかもしれない。いまでも駄作を作り続けているのはこのときに詩歌の価値を気づかせてくれたからかもしれない。



 その師はすでに天に召され、授業の目的は何だったのかを教えていただくことはできない。ただ、いまの私には何一つ心に残す授業はできていないと考えるばかりだ。