刻々と変わる関係

 中高生のみなさんにとっては4月は激変のときで、5月にその疲れが出やすいといった流れだろうか。交友関係が個別的なこの世代にとってはある個人との隔絶が人生の重大な局面のように思いがちである。

 でも、実際の人生というのは常に変化しており、交友関係もその時々で移り変わっていく。現在の親友が数年後も同じであるか否かは誰にもわからないし、分かったとしてもその度合は刻々と変わってとどまることがない。つまり、中高生のときは人間関係を静的に捉えがちであるが、実は動的なものなのである。この認識が獲得できるには人間的成長が必要である。獲得以前の世代であるからこそ悩みも迷いも尽きないのである。

 他人の評価も実は動的なものである。いま冴えない垢抜けない友人が将来もそうだとは限らない。私の経験でも生徒時代は地味で取り立てて能力もないと見下していた友人が、大出世をした例を知っている。今の人間関係が将来にわたって継続するはずはないのだ。

 私たちは他者を理解するときに図式的に単純化する傾向がある。それができれば自分の立ち位置も決まり安心ができる。しかし、先述した通り事態は単純ではない。若い世代の皆さんに言いたい。世の中はそんなに単純ではない。常に変化し続ける。だからどんなに変わっても生き続けられる最低限のスキルと身につけることを忘れずにいてほしい、そして、いまは孤立していると感じても、実は将来は仲間の中心にいるかも知れない。とりあえず前に進もう、と。

調整された記憶の量

 自分が生徒だった頃のことを実はほとんど忘れている。思い出というものはアルバムとか他人の話とか自分の記憶以外の手段によって再生され、その情報で上書きしている気がする。本当に自分が覚えていることは実は僅かであり、ほとんどが他人の記憶や記録との合成である。

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 何でも詳細に記憶することはできない。まして時間が経過すれば記憶の保存はほとんど期待できない。デジタル世界に慣れてしまった私たちはすべての物事が外部記憶として残ると何処かで信じている。しかし、肝心な自分の頭脳の容量は変わらないし、むしろ必死で覚えようとしなくなったことで退化しつつある。かつては家族と親戚の電話番号くらいは言えたはずなのに、いまは自分の電話番号でさえ忘れてしまうことがある。

 学生時代は学校と家との往復でほとんどの時間が費やされ、さまざまな出来事もそこで起きた。だから、濃厚な思い出が刻まれるはずなのに、数年経てば忘れ始め、数十年経てばかなり薄れて、先に述べたように他人の記憶の上書きが始まる。人間の記憶とはこの様なものであり、それによって人生は組み立てられている。

 私はこれは人類が進化の上で獲得してきた技能と考えている。過去の失敗体験にいつまでも囚われたり、成功体験が安易な過信にならないように記憶の能力を調節してきたのではないか。だからデジタル機器を使うのも大概にしたほうがいい。常に変化し続けている現実に合わせて対応するのが生き物というものである。過去の記録は今存在しないものの相互関係であり、あくまで参考にのみとどめるものとするべきなのだ。

卒業ソング

 3月9日というとこの名を持つ卒業ソングがある。2004年発売のレミオロメンの曲である。20年経った現在でも人気があるらしい。皆さんにとっては卒業の歌と言ったら何だろう。

 私はこの歌の世代よりはかなり上なのだが、素直な歌でありロックというよりフォーク調のこの歌は好きである。わかりやすいメロディであるがボーカルは自由な展開で同じように歌うのは意外に難しい。

 「学生時代」とか「青春時代」とか「卒業写真」といった懐かしい歌もなぜか覚えている。森山直太朗の「さくら」やRADWINPSの「正解」なども好きな卒業ソングだ。人生の節目を歌にすることで様々な思いが託されるのがいいのだろう。

 今年は何を歌おうか。

名残雪

 結局も積雪はわずかで露面は白く覆われたが、道路には雪はない。一安心である。この地域では名残雪となるのだろうか。4月に降雪があった記憶もあるからまだわからないが、最後と思うと惜しい気持ちになる。

 こういうふうに書くと私の世代はギターのアルペジオの前奏が聞こえてくるはずだ。懐かしい思い出とともに。

再び積雪か

 明日、関東地方平野部でも積雪の予報が出ている。数cmだというが、備えのない地域にとっては重大な問題だ。恐らくそれほど大変なことにはならないと考えるがこればかりはどうなるか分からない。

 かなり靴が傷んでいることに気づいた。日常的に使うものは意識しないと劣化にも気づかない。明日は無理だが、そろそろ買い替えの時期がきたと考えておくことにする。雪道を歩くのは少し危ないと思いつつ。

ローマ字表記法の変更

 70年ぶりに日本語のローマ字表記法の基準を変更することが行われそうだという報道があった。学校で教える訓令式が英語の綴りとかけ離れているためより英語に近いヘボン式に近い表記法が採用されるようだ。

 確かにサ行やタ行、拗音などの表記は訓令式で表示されるとかなりの違和感がある。Matidaは何とか想像がつくが、マティーダと読まれるだろうし、Sinzyukuは日本にある都市とはとても思えない。ヘボン式にすればまだ日本語の発音に近い読みを期待できる。

 ただ、それだけでは解決できない。最も困難なのが長音の扱いだ。長音を言葉の単位と考えている言語はそれほど多くはない。かつてオリンピックで活躍した大野選手は、現地の掲示にはOno と表記されていた。小野選手が同じ競技に出場していなかったのは幸いだった。大谷選手のユニホームにはOHTANIとあるが、長音がいつでもHで表せるわけではない。飯田選手のユニホームにはIIDAとあった。

 長音はヘボン式でも書ききれない。私がお世話になっている中央林間はなんと書けばいいだろう。アルファベットの上に横棒をつけるŌが今のところ最適解だろう。この字をスマホで出すのはOを長押しするといい。

 いずれにしても発音体系が異なるローマ字で日本語を完全に表記することはできない。韓国人の英語表記は日本よりもっと自由でバラエティに富む。イさんがなぜLeeなのか、パクさんがどうしてPark なのか。理由などない。そう決めたからそうなのに過ぎない。

 日本も自分なりの表記を決めてしまえばいいだけのことだ。それを海外にどれだけ説得できるかが国力というものなのだろう。

三寒四温のこのごろ

 三寒四温というが、最近の天気の移り変わりはまさにそれに当たる。スマホのアプリが寒暖差の予報を通知する。その差が5℃以上のときも多い。寒さになれたと思ったら暖かくなり、マフラーをおいてきたのに寒かったりする。3月はとても忙しく体調を崩せない。やるべきことをやるだけだ。せめて天気は落ちついてほしい。

梅花早くも

 町田市の薬師池公園への観梅は毎年の習慣になっている。最近、梅の咲く時期が早まっており、ある年などはほとんど散ってしまっていたが、今年は間に合った。あと少しで満開という樹もある。白梅、紅梅、さらには蝋梅まで揃っており、多くの人達が楽しんでいた。

 梅に鶯は叶わなかったが、メジロが止まるのを見た。いわゆるうぐいす色をした小鳥である。この公園までは町田駅からバスが出ているが、自家用車がないとちょっと不便な場所にある。でも、それ故に適度に人が少なく、梅を楽しむのにはよい。駐車場はあるので、車があるなら近隣の四季彩の杜の商業施設や、少し先の野津田公園などを巡るのもいい。バラ園がある。ただJ1リーグ開催日は避けたほうがいい。

 梅は万葉集の世界では中国を感じさせる花であり、異国情緒を感じさせる何かがあったようだ。その後、日本の文化に定着して様々な形で享受されている。いまは公園で見られるがかつては貴族の庭にしかなかったのかもしれない。

後で書くのがノートの奥義

巷のノート術を読んでわかったこと

 講演などのノートをとるとき、多くの場合スライドや板書(黒板などに書くこと)された文字や図だけを移すことになる。書かれなかったことでも大切だと感じたとことはメモをとることが多い。ただ筆記に熱中しすぎると肝心の話の内容が理解できなくなる。ノートの目的はあとで思い出せるようにするための鍵となる言葉や図を書いておくことなのだ。

 さまざまなノート術の本やサイトを巡覧するに、ノートには次の3つの記入欄をつくり、一覧できるようにレイアウトするのがいいらしい。

  • ① 講演を聞きながらメモを取る欄
  • ② ①を読み返しながら、その見出しを作る欄
  • ③ ②の整理に基づき、自分の言葉で内容をまとめ直す欄

見出しをつけて内容を整理する

 ②は雑然ととったメモにまとまりをつけるための作業である。つまりあとから見出しをつけることだといえる。先述したノート術指南書のなかにはここを質問形式にしてみるといいとあった。例えば「もっとも効果的なノートのサイズは?」の様に書いて、①の欄を隠して再現できるのかをチェックするのだという。それもいいが、私はそれぞれの話のエッセンスを俳句くらいの長さ(つまり17音)くらいにまとめる方がいいのではないかと考える。たとえば「書きやすく持ち運ぶにはB5メモ」とか「ノートのサイズはA4がいい」などである。これは話の要素を短くまとめる作業だ。

自分の言葉でまとめ直す

 ③が実は一番大切で、ほかは実は何でもいい。聞いた内容を自分の言葉でまとめ直すのは知識を内在化し知恵に深めることの手助けになる。この際大切なのは教師なり講師の話し方や用語そのものに拘らず、あくまで自分の持っている言葉でどんな内容だったのかを記すことだ。この方法だと正確な記録にはならない。ただ、個人がもつノートは公式記録である必要はない。自分勝手なまとめであるべきだ。逆に言えばこの自分なりの言語化ができなければノートを取る意味は半減する。

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 ビジネス用途の場合は、もともと識者の見解を正確に覚えることよりも、それを自分の仕事の中でどのように応用するかという方に関心があるはずだ。偉い先生が何を考えていようと構わない。要するにそれは使える考え方なのか、使えるならば使ってやろうというのが目的のはずだ。ならば、この欄は自分ならばこう使うという視点でまとめればいい。学問の世界とこの点は違う。

ノートの取り方は誰に習う

 学校でノートの取り方を習ったことはあるだろうか。ノートの大きさや大体のレイアウトは教えられても、どのように書くのかは教えられない。まして何を書けばいいのかとか、そのように書くのはどんな意味があるのかといったことも習わない。せいぜい字はきれいにとか、落書きするなとか、板書したことは書きなさいとかだろう。実はわたしはこれらを今は言わないようにしている。

 字はきれいな方がいいがノートの場合は自分が読めればいい。人に提出するものは別だ。落書きは関係がないものはだめだが、授業を聞きながら思いついたものなら絵でも漫画でもなんでも書けばいい。ただし、熱中しすぎると肝心なことを聞き落とすので細かく描くのはお勧めしない。板書したことを全部書く必要はない。それも話し手の思考整理のために書いているのに過ぎない。自分があとで思い出すために必要だと感じるだけ書けばいいし、足りなければ書いてなくても付け足す。

 ただし、復習の際に書くのは日本語(自分の一番使える言語)の文章でまとめるようにする。図表にだけにするとわかったつもりになってしまっていることもあるので、きちんと言語化したい。その際に自分の感想を付け加えてもいいが、まずは話されたことは何かをまとめてから、それとは別に「以上の話を聞いて」とか「以下は私の感想だが」などで書き始めるようにする。こういったことは中高生のうちに学校で教えるべきだろう。

まとめ

 以上から考えるとノートを取るにあたって復習ということがいかに大切かということだ。話を聞きっぱなしにせず、今日はどんな話をきいたのかを思い出し、それを自分の言葉でまとめ直す。その作業をどれだけ繰り返すかが学びの成果に大きく関わる。そしてこういうノートの使い方は学校で教える必要がある。

千葉県東方沖の群発地震

 千葉県の東方沖を震源地とする群発地震が起きている。プレートの境界上にある同地域で、プレート同士の干渉が起きているのが原因だという識者の見解がある。ゆっくりすべりという述語も報じられている。これが正しいのならば今後も地震は継続し、場合によっては規模の大きな地震も発生するらしい。

 ゆっくりすべり、スロースリップと呼ばれる現象は大きな地震を発生させずに地殻の歪みを解消するものであるはずだが、そんなに都合のよいことばかりではなく、これが要因となって大きな地震を発生させることもあるらしい。詳細な因果関係は分かっていないようだ。

 考えられることとして、千葉沖で今後大きな揺れを感じる地震が起きる可能性がきわめて高まっていることである。沿岸部に行くときはニュースに気をつけたい。できればネットに繋がなくても聴けるラジオがあるといい。持っていたがどこにやったのか思い出せない。ごちゃごちゃの部屋をどうしよう。これは地震対策以前の問題ではあるが。