時刻表どおりホームに着いても乗れない

 時刻表通りにホームについても電車に乗れないことがある。最近は秒単位で時刻合わせをする時計やスマホを時計代わりにしている人が多いので、これはおかしいと思う人が多いだろう。

 ただ鉄道会社の多くは発車時刻を電車の動き出す時間としており、ベルや閉扉はその前に終わっていることが多い。だから、00秒にホームに着いても乗れない可能性があるし、文句も言えないことになる。

 遅れることにはとやかく言うが、時刻表通りでも不満を漏らす人はいる。まずは時刻表より数分前にホームに立つていなければ電車には乗れないと再認識しておこう。

梅雨入りは16日か

 関東地方の梅雨入りは平年よりかなり遅れて6月16日になる予報が出た。しかし、これも少し怪しいらしい。今年は梅雨前線が北上しにくい状況にあり、もしかしたらこの日に前線が来ないかもしれないというのである。

 もしこの時期をはずすと6月下旬まで下り、記録的な遅さになる可能性があるという。最近、日本の季節は四季というより夏冬の間にわずかに春秋が始まるといった感じだ。梅雨もついに夏に吸収されてしまうのだろうか。

 梅雨は旧暦だと五月に当たるので、五月雨とか五月闇とか梅雨に関連する言葉が多い。五月蝿いという当て字もこれに関連するのだろうか。たとえ鬱陶しい天候であっても農事には大切な雨季だ。適度な雨をもたらしてほしい。

ひとりサマータイム

 朝の天気予報では東京の今日の最高気温が30℃になるかもしれないとのことだ。今季、真夏日を予報したのは初めてではないか。ここ数日の暑さの蓄積もあるのかもしれない。

 暑熱をどうやって和らげるか。空調の活用はもちろんだが、日常的な工夫も必要だろう。衣食住のすべてで考えていきたい。取りあえず自分だけのサマータイムでしてみたい。少し早く起きて午前まてに大抵のことを終わらせることを目指すというものだ。

 本当に暑くなると気力までくじかれるので今のうちに覚悟をしておきたい。果たしてどんな夏になるのだろう。

多湿

 梅雨入り前の高温多湿な日々が続いている。高温は何とかなるが、多湿はいただけない。日本の夏はカイロより厳しいと言った人がいるらしいが恐らく湿度の問題だろう。

 多湿になると黴などの発生が危惧される。知らないうちに衣服やカバン類などが黴に侵されていることはよくある。何度も経験してきた。こういうのはちょっとした油断が大きな害に繋がる。恐ろしいほど速い繁殖力が原因だからだ。

 これからは毎日を注意深く過ごさねばならないのだが、日常の雑事に紛れてまた同じ失敗を繰り返すのだろう。とにかく多湿には気をつけたい。

まだ降りたことがない駅に行き

 東京や神奈川を走る電車は相互乗り入れをしているものが多い。中にはかなり長い運行距離を持つものもあり、うっかり乗り過ごすと悲惨である。

 車内に掲示される路線図もかなり広範なものとなっていることもある。どこまで続くのだろうと思う。そういう路線図を見るといろいろな妄想が浮かんでしまう。

 気まぐれでまだ乗ったことがない路線に乗車して、名前すら知らなかった駅で降りたら何が始まるだろう。もしかしたら世界観が一変するような出来事が起きるのではないか。あるいはそこには誰もおらず次の電車来るまでには恐ろしく長い時間があって途方に暮れるのではないだろうか、などと。

 実際にはそんなことはあるまいし、試してみる勇気もない。ただ、身近にある冒険の旅をいつかはしてみたいという思いだけは募るのだ。

自分のいない世界を見渡して

 自分がいない世界のことを考えたことがあるだろうか。思考の原点である自分がいない世界というのは現実的ではない。たとえその場面に自分がいなくても、それを考えている自分は確かに存在するはずだからだ。

 でも敢えて別宇宙かそんなものがあって、そこに自分を退避したとして、自分のいない世界をみられたとしたらどうだろう。それがかつて関わりがあったがいまは関係がなくなったとしたならばどうだろう。きっとそれは恐ろしく寂しく切ないものをもたらすに相違ない。

 自分がかつて生きていた世界に、自分はすでになく、そこに存在していたことすら誰も覚えていない。自分なしに日常生活は営まわれ、そこに何の問題もない。本当に自分はかつてその世界にいたのだろうかと疑わしくなる。別世界からの観察を続ける勇気は潰えるかもしれない。

 それでも何らかの事情で懐かしい世界を見続けなくてはならないとしたならばそれはかなり辛いことになる。しばらくしたらこう考えるかもしれない。結局、自分の存在などどれほどの価値があったのだろうかと。これは苦しい結論である。

 ただ、さらに時が経てばこう考えるかもしれない。自分の存在は小さなものであり、自分がいなくなっても世界はびくともしない。ならばやりたいことをやればいいのではと。そういう段階に達する時が遠い未来に来る。

 別世界に移動した私にもその世界で生きていかなくはならない。それがどんなに幸福なものでも、あるいは過酷なものでも、その中でなんとか生きていく必要がある。そのときに元の世界を見て得たことを活かすべきなのだ。

悲恋の文学

 かつて万葉集を研究していたころ、相聞には悲恋もしくは不如意の恋愛模様が描かれていると諸学者が述べている著述に接した。

われはもや安見児やすみこ得たり皆人の得難えかてにすといふ安見児得たり

 のような恋愛の成就を高々と歌うのは例外で、大抵はかなわぬ恋、離別、死別、旅による遠距離恋愛の思いなどが歌われている。「孤悲」という万葉がなが使われている例もあり、確かに悲恋は文学になりやすい。

夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ

 という坂上郎女の歌のようなものが圧倒的に多いのだ。

 この伝統は時代が下っても引き継がれる。王朝和歌でもほとんどが悲恋もしくは相手の不誠実を嘆く歌が大半だ。百人一首は43首の恋歌を含むが、これもほとんどすべてが悲恋の様相である。

嘆きつつひとりる夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る

 藤原道綱母の恨みがましいほどの恋情の訴えは「蜻蛉日記」で描かれた背景を知ると一層味わい深いものになる。恋歌は読者の同情を呼びやすい。恋愛感情は人間にとって共通の思念であるからだ。でも、同時に恋愛は個々別々のものであり、きわめて個人的なものでもある。すべてが違うがその根本に共通するものがあるというのが特徴だ。

恋の行方を知るといへば 枕に問ふもつれなかりけり

 室町時代の「閑吟集」の歌謡も「つれなし」の感情を歌ったものである。こうしたことはいまだに引きずっていて、いわゆるポップスの歌詞もほとんどがうまくいかない恋を歌っている。

もう一度さ 声を聴かせてよ めくれないままでいる夏の日のカレンダー 
ただいまってさ 笑ってみせてよ 送り先もわからない忘れものばかりだ
ココロが壊れる音が聴こえてどれだけ君を愛していたか知って
もう二度とは増やせない思い出を抱いて 生きて… (「幾億光年」Omoinotake

 軽快なリズムと展開の多い楽曲に乗せて歌われる最近のヒット曲も歌詞だけ読むと未練の歌である。こういう内容の歌を私たちは自然に受け入れてしまうのだろう。古典文学を読んでいるとその深奥に本質的な要素を発見することがある。これをもっと考えることが必要だ。

伴走様々

 視覚障がい者などがマラソンなどのコースが不定形なレースに参加するとき、ガイドする人を伴走者ということがある。ランナーの目となるためにはその心理を察し、様々な配慮をする必要があるという。視覚障がい者は歩幅が自然に小さくなるが、アスリート級になるとそれもなく、伴走する人もそれと同等もしくはそれ以上の走力が求められる。

 この伴走という概念は比喩的にいろいろな場面に使われるようになっている。私の業界では教員は生徒の伴走者であるべきだという表現が理想として語られる。走るのは生徒であり教員は牽引するのではなく、あくまで伴走するのだということだ。instructorやteacherではなくfacilitatorであれというのと同じような比喩であるといえる。

 理想としては素晴らしいのだが現実には伴走はかなり難しい。本人がやる気を出さない限りそもそもスタートしないし、その人の気持ちを察することは困難だ。それができると言う人は多いが実は自分の考えを押し付けていることが多い。伴走には徒労が多く、効率とか生産性といった物差しでは測れない。

 私はそろそろ引退するから好き勝手にいうが、伴走者になるなら覚悟しなければならないと思う。ランナーが成果を発揮できなくても、それは仕方がない。伴走者としてやるべきことをやったならそれで満足すべきなのだ。ただレース後にランナーにいうべきことがある。今日のレースの結果は途中経過に過ぎない。次のためにまた練習しようと。ランナーにエンディングを見せないことこそ伴走者の務めなのだろう。

神は自認しない

 昭和の歌謡曲の有名な歌詞もしくは台詞にお客様は神様ですというのがあった。高度経済成長期の商業の場面でもこのフレーズはしばしば援用されていた。日本の接客サービスの良さはあるいはこのマインドセットが影響しているのかもしれない。

 ただし、これはサービスをする側の心得、もしくは目標のようなものであって顧客側が神様を自称したらおかしなことになる。サービスを受ける側の態度が尊大になると様々な弊害が起きる。

 カスタマーハラスメントと言われる迷惑行為は、残念ながら中高年層に多いのだという調査結果が出ている。本来なら若い世代を導くはずの中高年がトラブルの主人公になってしまっているのだ。

 その原因の一つは目まぐるしく発展し変化を遂げた技術についていけてない焦燥にある。昔なら店員が平身低頭で接客していたのにいまはセルフで何でもやらなくてはならない。その説明もないのに若い世代はすぐに順応するが、年配者はそうはいかない。だから、サービスの不十分を感じ、それが怒りにもなる。

 神のごとく特別な態度は実は何もできない焦りでもあるのだ。我々は神を自認してはならない。それをした瞬間から、人間とは通じ合えない孤独な存在になってしまうのだ。

 私はカスハラを起こす世代にある。最近の機械任せの状況は人手不足や、経費節減のための策であることは承知している。しかし、やはり物を売る側の奉仕と、買う側の感謝は忘れてはならないと思う。怒れる老人に眉を潜めているだけでは解決しない。そういうあなたも将来同じようになるかもしれない。奉仕と感謝の精神を再認識する必要がある。

梅雨入りは遅れるのか

 梅雨入りは少し遅くなるかもしれないらしい。週間予報は日曜日が雨の可能性が有るが、概ね晴れか曇りのアイコンが並んでいる。

 流石に来週になるとほぼ曇りか雨で、その辺りに梅雨になったと報じられるはずだ。東京の梅雨入りの平均日は6月7日なので明後日だが、それよりは遅くなりそうだ。気温も高めに推移しそうなので体調管理が不可欠である。

 雨は嫌いではない。ただ、それにも程度がある。災害級の降水が多発する昨今の天候はやはり異常と言うしかない。今季の梅雨が穏やかなことを願う。