放課後公民館

 公民館は非営利的な社会的文化的な活動の拠点としていまでも一定の役割を果たしている。文化教室や高齢者の集会所など多種多様な機能を持っているが、必ずしも十分に活用されていないのではないか。公立小中学校の校舎などを利用してもっと多くの市民が参加できる仕組みを作るべきだと考える。

 文化講座のようなものは、有名な講師を雇って行う企業の有料講座もいいが、ほぼ実費程度でできる公民館のサークルも大切だ。できれば地域の中から講師を出し、互いに教えあうような仕組みがあると理想である。それには公立の小中学校や、場所を無償もしくは安価で提供する企業などの協力を仰ぎたい。安全管理上の問題などの法整備を行えば、付加的な投資は少なくても実現できる。授業料は安く抑えたい。ただ、寄付は受け付けることとして満足度に合わせて、追加で払うという形にする。講師のやる気も変わるはずだ。もちろん、もっとハイレベルな内容を求める人は専門的な先生を擁したそういう講座に行けばよい。授業料を払う価値がきっとあるはずだ。

 学校の校舎を会場にすることの利点は子供から大人まで参加できる場所として提供できることだ。私は児童生徒のクラブ活動も地域社会との共同で行うべきだと考えているが、子供のころから世代の違う人との交流ができれば本人たちに益するはずだ。もちろん、種類や内容に応じなんでも混合というわけではない。民謡や踊りの教室など地域文化に関わるものは放課後公民館には向いている。

 地域住民が支えあうという仕組みを作れば様々な社会問題の解決、もしくは困難の緩和に結びつく。金儲けより社会に貢献したいという人はたくさんいるはずだ。彼らの活躍を応援する仕組みを作れないか。

ヨーヨーの名人

 子ども時代の思い出としてコカ・コーラが販促で展開していたヨーヨーをおまけにつけるキャンペーンがあった。福岡に転校したばかりの私はまだ友人が少なかった。コーラーの王冠の裏をめくり、あたりマークがあるとヨーヨーがもらえた。ヨーヨーはそれ以前からあったが、いろいろな技ができるのはこれしかないと信じていた。

これは当時はやったタイプではありません。

 ある日、ヨーヨーのチャンピオンが直々に演技をしてくれるという。記憶では学校の近くの広場だった。子供たちの人垣の中でチャンピオンのお兄さん(だったと思う)がいろいろな技を見せてくれた。「犬の散歩」という空回りしたヨーヨーを地面近くで滑らせながら犬に見立てる技は、手品を見ているような気がした。

 まんまと商略に乗っ取られた子供たちは(含む私)はコーラを飲み続け、ある日「あたり」を手にした。それで名人のようにやってみたがうまくいかない。私には向いていなかった。ヨーヨーを通してできた友人たちの中にはあの空回りができるようになったものもいた。それができれば様々な技が展開できたはずだが、なぜがそれ以上は進まなかった。

 いまの子供たちに同じ遊びを紹介しても喜んでもらえるだろうか。テレビゲームよりはできることは少ないが、できたときに達成感はビデオゲームには及ばないものがある。ただ、周囲に配慮しなくては少々危険であり、家具を壊して怒られないようにしなければならないが。

具体例の豊富さ

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 いろいろな自己啓発系の本を読んできて思うのは、述べられていることを要約すると古典の先哲の述べていることとそうは変わらないということだ。新しい考え方というが実は、何百年も前の人が残したこととあまり内容が変わらないということ多々ある。何が違うかといえば、それは具体例をどれだけ示せるのかということだ。

 私たちが何かを理解しようとするとき、意見や主張にあたる部分だけを読んだり、聞いたりして納得できることは少ない。説得されるためには自分の経験や知識と重なる具体例があることが関係する。自分の経験に近いからもしかしたらそうかもしれないと納得することができるというわけである。どんなに正しいことを言われても、それが身近なものでなければ自分の問題として理解することができない。どうも私たちの頭脳というのはそういう仕組みになっているらしい。

 よく売れている本を読むと、その具体例が非常に豊富だ。中にはできすぎではないかという例もある。これはクリティカルリーディングが求められる領域だ。それを差し引いてもなるほどと思わされる事例がたくさんある意見に対して納得をしやすい。

 この手の本を書く人はインタヴューに力を入れている。その蓄積が作品の成否に大きく関与すると言ってもいい。偉大な宗教者や哲学者もそうした具体例をたくさん持っている。本当に体験したこともあれば、人の輪を通じて入手した事例もあるのだろう。それを言語化し、自分の考えに結びつけられたものが思想を展開できたのだと思う。これは今も昔も変わらないのだろう。

 自分のことを振り返るに、やはり圧倒的に言語化という方面ができていない。これといった経験はしてきていないし、人に誇れる行動もない。でも、ささやかな経験の中から受け取ったことはたくさんあったはずで、そのたびに自分の言動を修正してきた。そのほとんどを忘れてしまい。言葉にできない。感動の体験を少しでも言葉にすることをこれからの小さな目標にしていこうと考えている。このブログはそのごく一端を記すためのメディアである。

動画講座

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 このところ睡眠の儀式として環境音楽のようなものを聴いていたのだが、思い立って大学講座を聴くようにしてみた。なるべく専門から遠いものがいいということで宇宙論や、進化論に関する講座を聴いている。

 各大学が公開講座の記録などをYouTubeに残しているので、これをキューに追加しておいて順番に視聴する。といっても正確には音声しか聴かず、画面は閉じてしまっている。これをイヤホンで聴きながら寝るのだ。講師の先生には悪いが寝るのには適している。単調なお話をする人は特に眠りにはつきやすい。突然場違いなCMが流れるのには閉口する。

 不真面目な受講者だが、いつの間にか身についてしまった知識もある。進化論では地球に降り注ぐ宇宙線の量が問題にされるようだ。放射線を含む有害な宇宙線を普段は磁気のバリアが防ぐが、さまざまな要因でこの障壁が破られたとき、生命の遺伝子に影響し、突然変異を起こしやすくするというのだ。この理論が正しいのかどうかは分からないが、寝ながら何度か聞いたのでそういう意見があるということは分かった。

 不謹慎な受講者は今日も寝るために聴講をすることにする。全くアカデミックではないが、酒を飲んで寝るより健康的ではある。

Last Christmas

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 この時期になるとwham!のLast Christmasがよく聞こえてくる。切ないメロディーと未練のあふれる追想の歌で、およそクリスマスの華やかさにはふさわしくない。1984年にイギリスでリリースされた曲という。

 この曲の曲想は山下達郎のクリスマスイブ(1983年)にも似ている。失恋とクリスマスはよく合うらしい。歌詞の意味を考える前はなんとなくいい曲だと思っていたが、詞の意味を知ると余計に印象的になる。要するに負け惜しみの歌なんだと思うときと、次のクリスマスはもっと良くするんだという前向きな歌と思うときと、それらを達観して昔はいちいちクリスマスに一喜一憂してきたと回想する歌だと考えるときがある。おそらく最後の解釈は作者の意図とはかなりかけ離れるはずだ。

 クリスマスに信仰的な思いを持つことは申し訳ないが少ない。多神教の信者としてクリスマスにはクリスマスの神がいて、そこに様々なドラマが用意されていると考えるのである。多くの人を幸せにし、一定の人に失恋を与えるのもこの神のなせる業だ。

 

トナカイ

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 多くの日本人にとっては直接見たことはないが、その名前を知らない人はないという動物がトナカイである。なんでもこのトナカイというのはアイヌ語で、英語圏ではCaribouというらしい。トナカイという日本語離れした響きや、その容姿も含めていろいろな謎のある動物である。

 トナカイの知名度が高いのはクリスマスのサンタクロースのそりを牽引するのがこの動物だと言われているからだろう。「赤鼻のトナカイ」という童謡が世界的に流行すると、トナカイが赤い鼻を持つ鹿のように造形されることも増えた。実物は日本の鹿とはかなり容貌も違い、鼻は赤くはない。

 立派な角が印象的だが、トナカイはこの点でもユニークだ。日本の鹿は雄しか角がないが、トナカイは雌雄とも角がある。雄の方が体格も大きいため、角も大型だ。ただ、雄の角は主に夏場に成長し冬には落としてしまうらしい。目的が秋の繁殖期の争いにあるというのだ。

 対してメスの角は秋に生え、冬に最大となる。これは子の育成をする際の防御手段、雪中から餌探すための手段になるらしい。するとクリスマスのそりを引いている角の生えたトナカイはメスではないかということになる。まあ、この辺りはうるさく言うべきではないのかもしれない。

 トナカイ自体は太古から家畜化され、食材のほか、運搬の動力としてなど多様に活用されてきた。北極圏の生活がなぜ、全世界規模に知られるようになったのか。興味深いものである。

高齢者補助

 自分が馬齢を重ねたせいで分かることは、この世のシステムは当然ながら健常者がコントロールできるように作られているということである。逆に言えば何らかの障害を持つと途端にやりにくくなる。この後、高齢化を邁進する日本社会では様々な技術的な補助が生まれるはずだ。ただ、それが使えるくらいまでは体力なり、身体機能を維持しなくてはならないということを痛感している。

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 いつも書いているがコンピュータ入力はいつまでもできると思っていた。ところが、意外にも文字や鍵盤の小ささや配色によってはかなり見づらく、思ったようにできないことが増えている。ならば音声入力があるという異なる。最近の音声入力はかなり精度が高いので使ってみると大いに助かる。しかし、これも活舌が怪しくなると使えない。健常な大人が使うことを前提に設計されているものはそのままでは使えなくなる可能性が高いのだ。

 これについては今後、より高齢者に配慮したインターフェースがうまれることを期待するしかない。おそらく需要はいくらでもあるので実現化される日は近いだろう。社会の高齢化を補う手段は国家的な死活問題でもある。

 ハードで的な話ばかりになったが、より大切なのはセカンドライフの多様化を踏まえた社会を用意することに相違ない。体力的能力的(もしくはそのいずれか)が衰えていない人材は今後多数存在する(している)はずだ。彼らの活躍の場を与え、扶養者ではなく、社会への貢献者になっていただく方法を考えるべきだ。私自身もその仲間入りをすることになるが、これは今の若者にも当てはまる。将来の自分が歳をとっても社会に貢献できる場を作っていかなくてはならない。そのために最低限の生活保障、余裕のある人への就職奨励、雇用機会の創出などやるべきことは多い。

 若い世代の仕事を補助するような仕事が理想だ。何があるのか考え続けたい。

歩行禁止に

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 エスカレーターを歩行禁止にすることに関してはかなり前から多くの方が期待してきた。駅のホームを昇降するエスカレーターの場合、ほとんどが片側に人が立ち、開いた側を歩いて昇る、中には駆け上る人がいる。日本では東京付近と大阪付近ではその立つ側が異なり、一種の地域文化とでもいえるような様態をもっている。でも、そもそもエスカレーターは歩かない乗り物ではなかったのか。

 かくいう私もそうだが、エスカレーターの待機側(立って乗れる側)が満員で、歩行側(とでも呼んでおく)に押しだされたとき、不文律として意図に反しても歩き上ることをしている人は多い。こっちに並んだら歩かなくてはならないものという決まりなどどこにもないのにそうしてしまっている。仮に立ち止まったりすると、本気で非難する人もいるという。先日、エスカレーターは歩くべきではないと指摘した人にけがを負わせてそのまま逃げた実に残念な人が逮捕された。ここまでの悪人は少ないにしても、エスカレーターで立ち止まりでもしたら、激怒する「勘違い」な人はいくらでもいる。

 ならば条例で歩行禁止にしてしまえと考えたのが埼玉県だ。「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」と命名された条例は、利用者には「立ち止まった状態でエスカレーターを利用しなければならない。」と設置者には「利用者に対し、立ち止まった状態でエスカレーターを利用すべきことを周知しなければならない。」としている。ただし罰則に関する規定はない。努力目標に近い。

 法的な実効性はさほど高くはないが、エスカレーターは歩行すべきものではないという考えを周知させる役割は大きい。名古屋市でも来年の制定を目指しているという。罰則はないといっても、エスカレーター上でトラブルが起きたとき、時に相手がけがをしたときは賠償の対象になりやすくなった。精神的な被害に関しても認められるようになるのかもしれない。今までとは意識の改革がいる。

 考えてみれば、右なり左によって立てというのは無理があった。障害があってどちらかの脇にしか寄れない場合や、そもそも体調によっては重心が不安定で、隣をかすられるだけでも危険を感じる場合などがある。私も膝を痛めたとき、俊敏な動きができず、脇を通り過ぎる人にぶつかられて不快に思ったことがある。おそらく逆のことをしてしまった時もあったかもしれない。

 忙しくても走らない。公共の場所では他人を巻き込む危険性がある行動はしないということを考えていかなくてはならない。これには各エレベーターわきに注意喚起や動画を表示することや、企業の協力を得て啓蒙活動を徹底的に行うしかない。

タイヤ交換の思い出

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 雪国に住んでいたころ、11月の終わりにスタッドレスタイヤへの交換をした。ある年は暖冬といわれていたのに甘えて、12月までそのままにしていたところ、急にまとまった降雪の予報があり慌てて換えたこともある。現在の私の生活の中にはないものだ。

 雪国の方は知っているが、スタッドレスタイヤの交換自体は誰でもできる。タイヤを止めているねじを少し緩めてから、ジャッキで上げて、ねじを完全に回してタイヤを外し、新しいタイヤをはめてねじを仮止め、ジャッキを下げて着地したら、またねじをしっかり締める。これを4回繰り返す。最初にやったときはおそらく2時間近くかかったが、数年後には30分程度でできるようになった。ただとても面倒だ。寒い中での単純作業でやる気が湧かない。

 ガソリンスタンドなどに持ち込めば4本で5000円~8000円くらいで取り換えてくれていたようだ。私は利用したことがないが、ものすごく早くできるらしい。なにしろ車体ごともちあげて4本のタイヤを同時に交換する。ねじを回すのも、てこの原理でようやく回すようなちゃちなものではなく、電動であっという間に回しきるらしい。このことを聞いて私も頼もうと何度か思ったが、浮いた金でおいしいものでもと思って結局自分でやっていた。これを冬前と春前に行う。10000円以上の節約だと思って、かえって余計に買い物をしてしまった気もする。

 東京に来てタイヤを交換することはなくなった。ウォッシャー液を足すときくらいしかボンネットを開けることもない。雪国の生活はいろいろ困難もあったが、付属する思い出のなかには生活感のしみついた懐かしいものが多い。

ゴミの片づけ

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 今回のFIFAワールドカップでも日本人観客の清掃ボランティアが話題になり、賞賛されているという。この話は各種の国際大会があるたびにでるから、一種の伝統となりつつある。このこと自体は世界に誇るべきことなのかもしれない。

 一方、国家としての廃棄物の量という点において日本はかなり問題がある。狭い国土に多くの人口を抱える日本ではごみ処理問題は重大だが、償却か埋め立て、そして聞くところによれば海外業者へ委託して不法投棄をしているとも聞く。これは世界に恥じるべき行為だ。

 最近はコンビニのレジ袋を受け取るのをやめたり、簡易な包装で済ませようとする動きがある。その点では少しずつ意識は高まっているようだ。ただ、大量に出続けるプラスティックのリサイクルがあまり進んでいないことや、食品の投棄など知られたくない問題がいくつもある。

 ごみを片づける公共精神のある日本人故いつかは皆の福祉に役立つ方法を世界に広めてくれるだろう。そう期待するしかない。と言いながら、昨日はたくさんのペットボトルを買ってしまった。せめてリサイクルに出すことにしよう。