秋を見つめる

 二季という言葉が今年の流行語の候補になっている。この言葉自体は前からあって、私のブログでも2022年に使っていた。それ以前から春秋のやせ細りは危惧されており、気候変動を具体的に示す言葉として使われ続けている。

 されど秋の情緒はやはり感じたい。先日紅葉の色づきのことは書いたが、自然の推移から受けるさまざまな感情はどんなに小さなことでも大切に味わいたい。夏から冬への過渡期ではなく、秋そのものの蓄えているものを見逃さないようにしよう。

 類型的な速断はやめて現実に向き合うことがいまの生活には必要なのだ。

新機軸

 知識は学習の蓄積からなる。それは疑いようもない事実だ。この点に関しては人工知能が人間の先に行きつつある。これまで人工知能に対して未熟であると否定的に捉えてきたが、この方面では考えを改めなくてはならないと考え始めている。

 今日Microsoftのコパイロットと連句を巻いてみた。式目に沿って付句をしてくるのを見て、少なからず驚いた。確かに感情はないが、過去の多くの人たちがどのように反応するのかという傾向は瞬時に分析し、即座に言葉に変換してくるので文学を理解しているかのように振る舞ってくるのだ。現代人の類型的な思考回路などすぐに克服してしまう可能性が高い。

 ならばこれから人間がやることは何か。思うにこれまでにない考え方を敢えて試してみるという勇気を出すことであろう。しかし、こうしたやり方はこれまでの社会通念とは乖離している。なるべく失敗しないように、過去の成功例を参考にしてそこから逸脱しないことが、いわゆる必勝法と信じられているからである。

 私のように教育の現場に長く暮らしたものとしては、いわゆる「常識」を完全に習得し、そこから大きく逸脱しないようにさせることが人間形成の基本と考えてきた。突飛な考え方は矯めるべきものであり、それが本人のためになると信じてきた。

 でもどうだろう、過去の蓄積だけでいまを考えて行くことは人工知能に凌駕されてしまった。必要なのは学習の果てに起きる飛躍だ。その振れ幅をこそ大切にすべきなのである。いまの我が国の社会にこうした考え方を持つ人は少数派だ。かくいう私も言うは易し、されど本当にそんな場面を見れば、ついそれは違うと口出ししてしまうかもしれない。

 もしかしたら奇妙な考え方、奇怪な行動が真実なのかもしれないという寛大な見方が必要なのだろう。そのためには過去の知識の価値を認めながらも、後生の示した新機軸も認める必要がある。多様な方法のうち、本当に通用するものが生き残り、それが時代を進める。その可能性を高齢世代が奪ってはならないのだ。

 最近の若いものは、と言うのが非難の言葉だけにならないようになればいい。青二才がこんなふうにやってみたぞと言えば、それもありかもなとするのか、はなから否定するのかでは未来は大きく変わる。

色づき

 11月になって紅葉が進んできている。近隣の街路樹などのそれをみる限りではどうも色づきがよくない。感覚的なことなので正確かどうか分からないが、赤みより褐色の度合いが強いように感じた。

 紅葉の原因とされるアントシアニンという物質は秋になって葉の中で生成される。赤い色味を表現する色素である。生物学的には葉の老化の過程で太陽光から受けるダメージを軽減する働きをしているらしい。この色素の生成には光合成と寒暖差が必要とされるが、今年の場合、9月と10月の日較差が例年より小さかったために十分にアントシアニンが生成できていないのではないかというのである。

 これだけではないが今年の紅葉は色づきが足りないというのは概ね理屈は成り立つようだ。いわゆる異常気象は人体にも相当な影響を及ぼしていると考えられるが、不動のように見える樹木にもかなりの打撃であるらしい。

 それでも場所によっては綺麗な紅葉を楽しめる。余裕があれば出かけていって観賞したい。ただ、街路樹の必死な営みにもあわれを感じてみたいのである。

シロナ

富山に住んでいたころ、自炊するときによく使った野菜にシロナがある。白菜と書くと別の野菜になるが、実は近種ともいう。巻かないのがシロナであると説明する説もあるが真偽は分からない。ただとてもあっさりした味わいと、煮込むと味が染みやすいのは共通している。

とても安価で申し訳ないほどだった。これを醤油とバターで炒めると結構な美味であった。かさが少なくなるので思いきり使うことがコツだ。魚の煮物に添えたり、新鮮なときはサラダにもした。

ほうれん草は法菜と書かれていた。こちらの方がしっかりとした味があり、おいしく感じたのは言うまでもない。それでもときにシロナを食べたくなるのだが、近隣では売っていないようだ。

風邪かな

 最近は外出する機会が増えて疲労が蓄積気味である。ここ数日、わずかに喉の腫れを感じる。市販薬を飲んでみたが、どうもよくも悪くもならない。副作用の眠気だけが襲いかかってくる。

 インフルエンザが少しずつ流行しているようだ。コロナウィルスも過去のものではない。多少の免疫をつけた分、かつてのような劇的な重傷化は起きないというだけだ。とりあえず予防のためのマスク着用と、防寒のために薄いコートを着るようにする。

 風邪などひいている暇はないのだ。やるべきことは山積し、それも崩れ始めている。少々厄介な戦いだが、勝ち残るしかない。

文化

 文化という言葉の意味はかなり広い。西洋の言語的にはもともとは農耕に由来するらしい。今日、使う文化の意味には特定の集団の中で伝統的に繰り返される慣習や、ルールのようなものを指すことが多い。企業の文化などというときの用法である。

 芸術に関わるものも、日常生活の中にあるのも文化である。文化はその意味では特別なものであると同時に極めて一般的なのもなのだ。そして、それは一人では作れない。人の集団の中で少しずつ形成されてゆくものなのだ。

 だから文化とは何かと聞かれたら、それは生活の全てと答えるしかない。その中にある一つの傾向のようなものが、他人からは文化として見えるのだ。

北千住の銭湯

北千住駅にて

 北千住の駅のディスプレイが変わっていた。前にも何度か書いたが、私は幼年期にこの街に住んでいて断片的に記憶が残っている。銭湯もその一つである。当時は自宅に風呂がなく、銭湯通いは必然の生活風景だったのだ。現在はその面影はない。が、私の覚えている北千住はもっと地方都市感があった。人口は多かったが、平屋がほとんどで下町の情緒が横溢していた。

 銭湯に行くときは父か母に連れられて行き、それによって男湯に入るか女湯に入った。覚えているのは父の頭の洗い方は痛く、少し不快だったことだけだ。男湯には入れ墨の人もいたように思うが特に恐れもしなかった。関心があったのは風呂上がりに紙のキャップで封じられた瓶の牛乳が飲めるか否かだった。恐らく当時の父の収入では贅沢はできなかったはずで、毎回飲めるとは限らなかったと思う。

 銭湯から当時の我が家まではそれほど距離はなかったはずだ。その道なりに多くの人とすれ違い、さまざまな店が声をあげて客を呼び込む姿を見た気がする。夕方から宵の口にかけての賑やかな街の様子が朧気に想起される。

 もしこの千住の街にもっと長く生活していたとしたら、どんな人生があったのだろうか。そんな妄想をすることがあるが、所詮それは無意味なことと思った瞬間に思考停止に陥いる。私はそういうもし、ならば、という段階がいくつもあるのでそんなことを考えては止めることを繰り返しているのである。いまはそれで正気を保ち、日常に立ち向かっているが、まもなく訪れる人生の転機の後で、この妄想に付き合ってみてもいいのかもと考え始めている。

犬の日でもあり、猫の日でもある

 今日から11月だ。今年もあと2カ月である。ここのところ急に秋が深まってきているので体調が追い付けない。ところで今日は犬の日であるそうだ。鳴き声のオノマトペからの語呂合わせらしい。犬にとっては実にどうでもいいことであろうが。

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 同時にサンリオのキャラクターのキティちゃんの誕生日が1974年11月1日なのだそうだ。設定上はロンドンの出身ということだが日本のデザイナーが創作したものである。いまでは世界中にひろまって愛されているらしい。つまり今日は猫の日でもあったのだ。

あの角を曲がらなかったら

 ときどきせんなき思いに駆られることがある。あの角を曲がらなかったらどんな人生が待っていたのかということだ。最近は世界線ということばで表現されているが、まさに違う線に進んだらと妄想して見たのである。

分かれ道

 運命論的な考えをしようとする気はない。でも、つまるところなるようにしかならないというのが本当なのだろう。角を曲がるか曲がらないかは結局その人に用意されているのかもしれない。

 ならばあえて別の道に進もうとすればどうなるのか。それを形にして巧みな味つけを施したのが文学というものなのだろう。もう一つの自分の可能性を形にできる優しい世界だ。この世界を俯瞰する目を持てる機会でもある。