人柄

 人柄というのは説明不可能なものかも知れない。理屈ではなく、オーラのようなものが訴えかけてくるのだ。

 福祉施設を見学して説明を受けた。いくつかの施設を回ったが、その一つのリーダーは素晴らしい人だった。何が違うのかと考えたがよくわからない。仕事の中身をよく伝えていただけたのがよかったのかもしれない。仕事を心から誇りを持って行っているのだろう。それが伝わってきた。

 自分もまた人からどのように見られているのか気になることがある。一朝一夕で変えられるものではないだろう。これまでの生き方が形になるはずだ。恐ろしいが、己のあり方にはせめて自分だけは評価しておこう。

国語の関守

 語彙の貧困化について同僚と話していく中で、やはり国語の教員が使う言葉を意識して、時流に流されないようにすることが大事だということになった。言葉は時代とともに変化するものではあるが、それを堰く存在も必要だ。

 「やばい」「めっちゃ」「オワタ」などの流行語は汎用性が大きいのが特徴である。他の表現を駆逐してしまう毒性もある。善くも悪しくも急激に心が動き、印象深いときにやばいと言い、それを強めるときはめっちゃをつける。どの程度どうなのかは「めっちゃやばい」からは分からない。

 教員仲間でもこのような表現は普通に行われており、曖昧な言葉を使っているという自覚もない。生徒諸君にとっては繊細な感情表現の方法を学ぶ機会が限られていることになる。だから、国語科の教員はせめてもの言語表現の伝統の保守的伝達者になるべきだと言うことになる。

 そもそも人間の心の動きは複雑で名状しがたい。嬉しさも悲しみも様々あって、実は厳密に言えば一回限りのものである。それを限られた言葉で切り分けるのは無理というものだ。だが、そう思っても言葉の力を諦めないことが人間の叡智と言うべきものだろう。

 切なく震えるような心の動きを何というか。言葉探しを忘れてはならない。流行語に逃げ込んでしまうことは容易だか、まずは自ら言葉を探し思いを言い当てていく面倒な試みをさせるべきなのだ。その役を国語科の教員はかって出るべきなのだろう。

セリヌンティウスはなぜ笑う

 太宰治の『走れメロス』は教科書の定番テキストであり、授業で無理矢理読まされた人を含めれば、世代を越えて多くの読者を持つ作品だ。この作品には多くの謎があり、それを解明しようとする見解も多い。

 有名になったのがメロスの故郷と刑場のあるシラクスの距離の設定だ。素直に読むと10里あまりだ。日本の里の単位とすればマラソンコースほどしかなく、これを日中すべての時間をかける必要はないというのだ。

 この小説の典拠になっているのはシラーの「人質」という詩で、小説が発表される3年前に小栗孝則訳の詩集が直接の参考資料と考えられる。酷似の表現が散見することからほぼ間違いない。ただ激怒する場面から始まったり、王の内心の吐露や、挫けそうになるメロスの葛藤、フィロストラトスの設定などにそれとの違いがある。

 ただそれにしてもなぜセリヌンティウスが命に関わる人質となることを快諾したのかは依然として分からない。太宰治は竹馬の友と言う説明だけで終わらせている。

 ただ、走れメロスの初期の読者はこの突拍子もない契約をすんなり受け入れられたのかもしれない。この時代の少年雑誌「赤い鳥」に鈴木三重吉が発表した「デイモンとピシアス」という話には人質交換のモチーフがある。これによると、ピタゴラス派の人々は人情を離れ理知的に生きることを至高の徳としていたという。情を捨て理に生きよという考え方は見方を変えればかなりの危険思想だ。理想のためには命を捨てても構わないということなのだから。

 シラーの詩のさらなる典拠はギリシアの伝承にある。その伝承の一つのデイモンとピシアスの物語がかような原理主義者たちの物語だとなると、その影響下に生れた太宰治の小説にもその影響はあると言うしかない。人質になるというセリヌンティウスにとってはまったく利益のない選択を即答で受け入れるのも、間に合わないかもしれないと感じても刑場まで走ったメロスも、まさに信実という理想を第一にするビタゴラス派の思考法と考えられるのである。

 流石に現代人太宰治はこのフレームには素直に従えなかったようだ。メロスを挫折させ散々に弱音を吐かせる。セリヌンティウスもメロスをチラと疑わせる。それが人情というものなのだろう。セリヌンティウスがメロスの信実を信じて、余裕を持って人質になるのはそういう思想の背景があったのである。

降るかなあ

 東京の降雪予報は難しいらしい、前回も降ると言って降らなかった。過去には降らないと言って結構積もったこともある。予報はスーパーコンピューターでも難しい。

 低気圧の位置と寒気の南下のタイミングが雪か雨かを分けるようだ。雪になれば備えのない東京はそのまま危険地帯となる。

 明日はどうも降るらしい。ただ積雪があるかどうかは分からないようだ。外出を予定しているが交通事情に問題がないといい。今のところは分からない。

読み聞かせ

 読み聞かせというと幼い子供に本を読んで聞かせることと考える。しかし、この方法は実は中高生や大人にも必要なのかもしれない。

 圧倒的な読書量がいわゆる知識人の教養を支えていた時代があった。ところが今はあまり本を読んでいなくても要領の良さで試験に受かってしまい、エリートになっているという人物によく出会う。国語の試験のような枠組みが決められた読書はできるのだが、自由に作品の世界を想像したり、作者のメッセージをくみ取ったりするのは苦手である。読書量そのものが減っているから、基本的な読解力が落ちているのかもしれない、

 そこで他人に本を読んでもらい、それを聴きながら作品世界を味わうという方法がある。読み聞かせられたテキストを頭の中で舞台を作り、心の中で映像化するのである。これは読書量が少ない人には有効な方法である。言葉によって形のないものを見えるようにするという試みは、想像する力をはぐくみ、情感豊かな人生を歩むための方法として有効だ。私も朗読の動画を見たり、音声のサービスを時々聞いている。

 読み聞かせなくては本が読めなくなった現代人の知識や感性の不足を補うものと言える。





















なんでも写すな

 学生の頃、指導教授の講義を徹底的にノートしたことがある。それこそ速記のようだった。一部に記号を使い、時間短縮した。細かい言い回しや余談までもれなく書いた。こういう方法は今の学生諸君には勧めない。

 ノートを写すのに熱中しすぎるとかえって大切なことを聞き逃すことになる。私が速記方式にしたのは先生の学説というより、お人柄、人間性、さらにはそこから滲み出る表現方法に心酔していたからであり、必要な情報を受容したいのなら、こういうノートは取るべきではない。どうしても記録したいのならボイスレコーダなりを潜ませればいい。きっと再生することは稀だろうが。

 おすすめするのは要点のみ箇条書きでメモし、その後に自分の感想や疑問点を書くことである。人の話を聞きながら、自分の考えを書くということになる。質疑応答の時間があればその場で質問し疑問を解消できる可能性がある。なくても授業や講演のあと、調査するきっかけができる。

 なんでも写すな。自分の考えを書けというのが最近の私のノートの取り方だ。

トルコ大地震

 トルコ、シリア両国の地震による死者が5千人を超えるとの報道がある。人道的支援を急ぐべきであり、また現地の情報を来るべき日本の災害でも生かせるようにすべきだろう。

 トルコは断層が多く、地震が発生しやすい条件がそろっているという。その点は日本に似ている。また、日本の様に免震構造を取る建築物が少なく、被災すると大きな被害が出やすいという。この辺りは日本の技術を伝える必要がある。表現は気を付けるべきだが商機にもなるだろう。

 トルコの対日感情は極めて良いという。それは1890年のエルトゥールル号事件が影響していると言われている。紀伊大島の樫野埼で座礁した同船の乗組員を大島村の村民が総出で救出活動にあたり、69名が救出された。死者行方不明者が587名の大惨事であった。生存者は日本の軍艦でイスタンブールまで送り届けられたという。日本の救出活動の様子はトルコに伝えられ、その印象が日本や日本人への好感度につながっているという。

 地震国としても共通する国は今後も大切にしたい。災害時は互いの知恵を出し合い、困難を乗り越えるべきであろう。

運動神経を補うには

 若い同僚と作業をしているとどうしても差がついてしまう。脳の働きにも運動神経は影響し、それが形になって現れるのだろう。ほんの少しの違いでも作業の量が増えれば、厳然たる差となる。これを補うにはどうすればいいだろう。

 まず、大前提として作業の速度は勝負ではない。数分の差に拘る仕事なら参加しない方が皆のためだ。大抵の仕事はそこまで時間には拘らない。大切なのは正確性だ。不適当なものをいかに減らすのかに集中すべきだろう。

 遅い分を何で補うかといえば、経験によるメタ認知を重視することだろう。場面ごとに過去の事例を思い浮かべながら、経験群から外れるものに注意していくという方法だ。

 逆に表現方法は違っても本質をついているものを見逃さないことも、単純作業能力優先組に勝つ方法だ。せっかくの逸材を逃さないのは経験者の役目だ。

 加齢とともに同僚から配慮されることが増えた。親切には心から感謝する。一方でどうしたら彼らに先んじることができるのかを常に考えている。往生際は悪いのだ。

合従連衡

 日本には高い技術力や多額の資本を持っている企業はあるが、海外の超大企業に伍するだけの力はない。アメリカのような大企業を即座に作るのは難しく、国家が企業運営に容易に介入できる中国のようなやり方もできない。だとすればやるべきことは団体戦である。

 同業種が合併せず、独自のサービスを維持できるならば、質的低下を避けて協力しあえる。異業種間の連携ならばイノベーションも起こしやすい。そういうことの調整役をする専門家が必要だ。

 中国の古代戦国時代では群雄割拠の中での生き残りの方法が模索された。それが同盟の組み方である。大国と組んだ小国は結果的に滅ぼされ、小国の同盟はかなり持ちこたえた。現代であれば小よく大を制すもありうる。学ぶべきことはあるはずだ。

後天的な感情

 雑な言葉づかいをしていると感情が雑になるという言説によく出会う。私たちが感情や行動を言葉を通して認識している事実からして的を射たものと言える。

 しかるに現代は語彙の貧困化が進み、社会的地位のある人にも言葉が乏しい人がいる。恐らく彼らの多くは感情表現が偏っており、独善的な面が多い。感情のグラデーションが乏しいから、予想外のことが起きると異常反応をしてしまう。

 感情は後天的に獲得されるものなのかもしれない。そのためにも語彙を増やすことに関心を持つべきだろう。