投稿者: Mitsuhiro

異郷を描くこと

 見ず知らずの場所に行ったときそれをどのように表現すればいいのかとまどうことがある。それまでの経験に照らし合わせ、「~のような」という比喩の表現を使って何とかつかみ取ろうとする。絵もそうだろう、以前描いたなにかのバリエーションとして眼前の対象をとらえて何とか描きとろうとする。当たり前だが初めて見るものをそのまま表現する方法はない。

 以前大伴家持のことを研究していた時、越中国守時代の旺盛な歌作を分析したことがある。そこに読まれる地名やその地の風習と思われるものの描写などを注目した。でも、一方でどこまでも平城の官人としての世界観価値観が感じられ、本当に越中のことを描いているのだろうかと疑問に感じたことがある。たとえば眼前の花を歌っているように見えて、実はそれは奈良でみた似た花の印象を言葉にしているのではないかと。あるいは望郷という感情が越中の風物を題材として語られているのではないかと。

 これは別に万葉歌人だけではない。現代の旅の文学も含めてありのままを描くことは実は困難だ。その人物の持っていた既存のフレームで異郷の風景を修正して描写しているのではないか。西洋に渡った画家たちの描くその地の風景の中にどこか日本を感じてしまうのもそれが原因かもしれないと考えている。

 私は異郷を描くことがそれほど作者の心の営みに影響されているということを確認したいだけだ。これは優劣の問題ではない。芸術作品というものが純粋なデジタルデータと違うのはそこにあり、それこそが芸術の魅力だと思う。

ありがとう、さようなら8月

 まもなく8月も終わる。台風でかき乱された月末になった。まだ当面暑い日が続きそうだが、8月が終わったことはやはり大きな区切りになる。そこで私なりにこの季節に対して送別の言葉を述べておくこととする。

 とても暑い毎日、猛暑ということばが陳腐となり、最近は酷暑ということばも刺激が少なくなってしまった。最高気温が31℃という予報が出ると今日は少し涼しくなるなどと感じてしまっている。35℃以上が続くとそういう麻痺が起きる。また、そのように暑い日は出歩かず、冷房のもとで過ごすことも当然のようになった。かつては冷房にあたりすぎると体を壊すといって無理にでも日光に晒されたものだが、その勇気がくじかれてしまったのである。

 暑い日々は睡眠時間を奪い、集中力を搔っ攫っていった。ただでさえ、深くものを考えなくなっている最近の自分に、より刹那的な思考パターンを定着させている。このままではいけないと思い、思い立って読書をしたり、文章を書いたりしたが初志貫徹は難しかった。

 それでもとにかく何冊かの本を読み、社会のことを考え、未来について少しだが思いを馳せることができた。それは何はともあれ評価しておくべきだと思う。わずかな悪あがきだが、何もしないよりははるかにいい。そしてこれは続けなくてはなるまい。

 最近の8月は暑すぎて能率がさがる期間になっている。教員にとっては授業がないので、比較的自由に仕事ができる毎日だった。やることを自分である程度選べるということはいい。どこかに行ったわけではないが精神上は自由であり、いろいろなことをやってみようと思えた。これから仕事に追われる日々が来るが、その中でも8月の自由な精神を思い出すことを忘れないようにしよう。

 思えば、夏休みを特別な時間と思えるのも、今の仕事を続けている時までのことである。まもなく、それも終わる。きっと数年後には夏休みに過剰な期待をしていた日々を懐かしく思い出すときが来るのだろう。ありがとう8月。さようなら8月。私はまだ前に進まなくてはならない。一年後に会えることを楽しみにしている。

現代の文化の下地になっているもの

 韓国の古典文学の一つ「春香伝」を読んだ。まさに韓流ドラマの原点といえるような内容だ。岩波文庫に収められたものは訳も秀逸である。

 両班の少年が地方で妓生の娘に偶然出会い、たちまち恋に落ちるがまだ無位無官のため、結婚もできずに都に帰る。その娘が春香なのであるが貞節を守り、その後その地に赴任してきた悪徳官人の招集を無視したために怒りに触れて拷問され、命も尽きようかというときに、乞食の姿に身をやつし、実はすでに暗行御史となっていたヒーローが救い出すという実にわかりやすいストーリーだ。

 この話は大変もてはやされたらしく、多くの異伝があり、語り物的な文章も幾多の改変、もしくは増補の繰り返しがあったものと考えられる。中国の古典を踏まえた装飾的な文体、韻を踏んだものづくし的列挙などは語りの後を感じさせる。性愛にかんする過剰な描写が突如現れたり、執拗な拷問の描写などメリハリがあるのも庶民性が残っているからだろうか。

 この展開の在り方は現在の韓国時代劇にもみられることであり、それが先に述べた原点を感じさせるものである。もちろんこのほかにも私が知らない話がたくさんあるのだろう。日本の漫画やアニメ、ライトノベルなどの原型が江戸時代のさまざまな作品に見いだせるのと同様、芸術・芸能・文化にはどこの国でもその下地にあたるものがある。それを知ることで理解できることもあるに違いない。

警報の連発

 強い台風10号はかなりの低速で西日本に停滞している。ジョギング並みの速さと報じられていた。

 関東では風はないが時折、まさに滝のような雨が通り過ぎる。あたらこちらで雨漏りが発生し、一時的に道路が冠水していた。これに伴い、朝からエリア警報が何度もなり、その都度驚いた。朝の電車ではほとんどの乗客のスマートフォンからエコーのように警報音が鳴り響いた。

 かなり勢力は弱まったらしいが、雨雲を引き付ける力は衰えておらず、今後も注意が必要だとか。近くの河川が氾濫しないことを祈るばかりだ。

乗り越えさせない話

 SFのネタを考えている。いわゆるシンギュラリティが間もなくやってくるというときに、なぜか人類にも突然の進化がもたらされる。AIと同等の事はできないが、人間がやったことかAIの出力かをほとんど間違いなく言い当てられる能力を持った世代が登場したのだ。フェイクには決して振り回されない。

 彼らは世の中にあふれている非人間創作を見破る。フェイクニュース映像を笑い飛ばし、その作り方まで間違いなく解説できる。そんなことだから、AIに操られるということがないのだ。それが少数の天才だけではないほとんどの新世代が同じ能力を持ったのだ。

 この話のオチはだいたい分かってしまうはずだ。AIの作る偽りをほぼ言い当てる彼らが見事に騙されるときがくる。その能力で仕事をしないかと持ちかけたコンピューターなどほとんどできない詐欺師たちによってだ。

 これだけではつまらないので何かの間にエピソードを付け加えよう。波瀾がなければなるまい。こういうどうでもいいことを考えているときが一番おもしろい。

遅攻は止めて

 台風は速度がかつての予想より遅く、そのため暴風下の被害が長時間続いている。数日前の進路予報では今日あたりに関東通過と言われていたが、今日は重めの曇天が1日続いた。

 ゆっくりと被害を出し続ける今回の台風は、ある意味最も危険な事例である。早く通り過ぎてほしい。

オブスタクル

 オリンピック競技として今回注目された近代五種競技の内容が次回から変更される。馬術に変わってオブスタクルという競技になることになった。オブスタクルといってもなんのことか分からないが、競技の映像を見ればほとんどの人が見たことがあるものだ。

Obstaclesとは障害のいう意味で作り込んだ数々の障害を越えていく競技である。そしてこの発祥の一つとされているのが、テレビ番組のSASUKEであるという。確かに障害の形やその克服法はSASUKEにかなり似ている。

 日本での放送が終わったあとでも海外でこの競技はかなり注目され、さまざまな大会が行われている。加えてこの種目における馬術競技が馬に与えるダメージが大きすぎるので動物虐待ではないかという声も上がっていたらしい。

 オブスタクルが加わったことで超人的競技という位置づけは一層高まりそうだ。

台風が近づいている

 台風が近づいている。数日前の予報と比べると進路が西寄りになり、九州付近で北東方向に進路を変えるコースが報じられている。もしそうならば、関東への影響は数日遅れることになるのかもしれない。

 いろいろな行事がその影響を受けないか心配だ。ただこればかりは如何ともし難い。前回は大きな被害を覚悟してほしいといった報道がなされていたが、私の住まう地域はさほどではなかった。鉄道が止まったことへの不満も聞かれた、

 ただやはり備えは憂いに先立たなくてはならない。オオカミが来たの話の轍を踏まぬように、やはり恐れるときはそうすべきだと思う。

非効率で生きる

 時代に逆行するが私は効率を重視しないことに決めた。他の力を借りて瞬時に終えてしまうのは格好いい。でも、そこに自分の達成感が伴わなかったり、感情移入がないものはあえてやらないことにしたい。

 人様にご迷惑をかけないことを前提に大いなる無駄をやっていきたいと考えた。この夏の成果といえばこのことを再認識できたということだろう。私には私のやり方がある。

 

雨雲レーダー

 雨雲レーダーというものができて便利になった。雨雲の接近が事前に分かるので準備ができる。今後の予測までするので雨止みの時間を予測することも可能だ。

 ただこれも完全というわけにはいかないようで局地的豪雨には間に合わないこともある。また止むという時間の実際より早かったり遅かったりする。あくまで参考程度だ。

 それにしてもこのところ滝のような雨のニュースが時々あるから、こういう情報は大切だ。