都心で最高気温が30℃に達したという。観測史上最遅記録である。10月下旬に真夏日があるというのはなんともおかしなことだ。
ただ、来週からは一気に低温傾向になるらしい。最低気温が12℃となるという予報が出ている。まさに急降下、つるべ落としとは日照時間に対して使うらしいが、気温もまた同様らしい。秋が侵食されているとしか言いようがない。
猛暑の年は大雪になりやすいとも聞く。最近は様々な自然災害が発生しており、心配の種が尽きることがない。何事もないことを祈るしかあるまい。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
仕事などで多忙なとき、場合によってはとても集中できていることがある。特に締め切りが迫っているときは、なんとかしたいと思うからか、結果的にうまくいくことが多い。もちろんそうでないときもあるのだが、記憶の濃淡を辿ると明らかに成功例が多い。
恐らくそれは努力と妥協との産物なのだろう。余裕があるときはさまざまな選択肢を並べてその中での最適解を求めようとする。大きな間違いをしないための大切な段階だろう。しかし、切羽詰まったときには選ぶべき候補が揃わない。結果的にできることを今やるしかない。そういう思い切りが結果的にうまく運ぶのかもしれない。
決して余裕のない選択の方が良いなどとは考えない。ただ、極めて短期的に立ち回ることだけに集中したときには、いまある状況の中で何ができるのかを考え、それを構成した方がいいのかもしれない。緊張感はどんなときでもあった方がいいようだ。
日本人の代表を選ぶとしたら誰だろう。予め言っておくが、最も優れた人を選ぶという訳ではない。リーダーとしての人材でもない。日本人らしさの代表である。大谷翔平も橋本環奈もその意味では選ばれ得ない。
ならば、もっとも日本人らしい人は誰か。とたんに難しくなる。そんな人はいないというのが正解かもしれない。でも、敢えて一人を選ぶとしたらという問いに答えることはできるだろうか。
平均顔というものがある。日本人の顔のバランスを数値化し、平均を取ると出来上がるものらしい。信憑性は分からないが合成された顔を見ると、悪くない。むしろ美男美女と言えるものになる。これは合成された顔が左右均等でバランスのいい配置になりやすいことからおこるらしい。出来上がった平均顔はどこにでもいそうで決してどこにもいない顔だ。
性格や言動も平均が取れるとして、まとめ上げたらやはり理想的なキャラクターになるのだろうか。興味深いがそんな人物も限りなく気味が悪いものになる可能性がある。やはりこれこそ日本人だと言える人物は存在しないのだろう。
時代を越えて好まれるのがいわゆる日本人論と呼ばれるテーマである。書店に行けば必ずこの手の本があるし、一定量売れるようだ。そして定期的にベストセラーになる書が現れる。日本人は自国民がどのような存在なのかに関心が高いようだ。
何を持って国民を論うか。実は極めて曖昧で恣意的な問題だが、それに対する関心は捨てられない。平均顔の写真を見ていろいろ思うのと少し似ている気がする。
最近、スポーツと呼ばれるものをやっていない。毎日、約12,000歩ほど歩き、立っている時間も同年齢の中では多い方ではないかと思う。でも、これは必要にかられてやっていることであり、自主的に行うスポーツとはかなり違うものである。
なんのためにスポーツをするのかは、人によって違う。いわゆるプロ選手は収入のために行うのであり、その収入は他者より優れた成績を取ることで達成されることが多いから、身体をはって行う。そこに楽しみを感じられれば幸せだけれども、必ずしもそうもいかない。
健康のためにスポーツをする人もいる。勝利よりも継続することの方を重視する。これは健康という報酬を前提とする。勝敗は無関係というが、何かしらの目標がなければ続かない。意図せずとも他人と比べることになってしまう。そして健康という勝利が実感できないと精神的に不健康になる。
スポーツは交流の機会という側面もある。試合が終われば互いの健闘を称え合うことで輪が広がる。そういう目的があって、実はかなり大切だ。最近は一人でできるスポーツやそれを行う施設が増えてきた。そしてそれが輪を広げるというスポーツの大切な効果を無にしている。
スポーツとは何か。そして何をしなくてはならないのかを考える1日であった。
後に大家と呼ばれる作家のデビュー作の中にも酷評を受けたものが多数あるという。読むに値しない作品だ、などというのはまだいい方で、作家の人間性を傷つけるような行き過ぎたほとんど誹謗中傷というものまである。
これにはいくつかの要因があるようだが、その第一は読み手としての受け入れ方法が見つからなかったことにある。新しい表現法、新しいテーマ、新しい視点といったものは新奇性というより、奇異性の方が先行する。結果としていかに読めばいいのかわからないのだ。
時代を変えるような作品の中にはそれを受容する側の能力との釣り合いが求められることがある。その均衡が図られるまでは作品が評価されることがないのかもしれない。作家が先行しても読者がいなければ作品は浮かばれない。
物差しのない中でその作品の価値をなんとなく見抜くのは実は才能なのかもしれない。よく分からないけれどなんだか凄いと感じる。そういうことができる人が現れてくると新しい作品が生まれる。こうした読解力を持った人が真の読者というべきなのだろう。
小説の話で書いているが、これはどんな方面にも当てはまる。新しいもの、今までになかったものにどういう評価を下し、どんな価値を与えるのか。それには奇異と映るものを粘り強く受け入れることが要求される。そしてそれが達成されることで新しい世界が始まるのだ。
民俗学を学ぶものはごく初期に伝説と昔話の分類について学ぶ。昔話は桃太郎や一寸法師などの例を想起すれば分かるように、定型があり、聞き手側がある程度非現実性を認めていることだ。
すなわち、関東地方の例では話始めが「むかしむかし」であり、終わりは「めでたしめでたし」である。またあるところという不特定情報が提示され、登場人物の素性についても極めて曖昧である。昔話の聞き手、もしくは読者はそういった詳細情報には無関心で、一部虚構であることも承認している。
それに対して伝説というのはとにかく核となる物事があり、それが真実だと考えられている。話す方も聞く方もかつてあった本当の話として語り継がれるのである。それが昔話との大きな違いである。伝説には話法においては定型はない。その代わり、核となる事物が今でも存在し、話者も聞き手も話されている内容が事実であると信じている。話の定型はなく。不可思議な話が次々に展開される。
伝説のいくつかはその現場に行った経験があるはずだ。特定の自然物もしくは人工物が、何らかの由緒をもって語られる。義経、秀吉、家康のような歴史上の人物がその主人公になっている場合もあれば、不特定の人物がその代わりになることもある。その誰であるにしても、語り手は(そして聞き手は)本当の話として語り、聞いているのである。
都市伝説という言葉もある。これは現代社会における伝説をいうものだが、従来の伝説と類似していながら、少し異なるところもある。伝統的な伝説ではあくまで話者も聞き手も完全にその内容を信じており、それを語り継ぐことに意義を感じていた。しかし、都市伝説にはそのような伝達主義はなく、もっと余裕がある。信じなければ天罰が当たるといった考え方はなく、むしろ流言飛語のように受け流しても構わないというくらいの位置づけである。伝説の後進としては変わり者で、不真面目でもある。
ただ、これも気をつけなくてはならないことがある。どんなに怪しい話でも現代の都市伝説は、メディアにのってしまうとそれなりに説得力をもってしまうのだ。実は冗談から始まったことだとしても、それがあたかも切迫した事実のようなふりをする。現代の伝説は別の意味で信用される可能性があるのだ。
冷静に振る舞うためにはここまで述べた民俗学的な知見を知っておいた方がいい。話はいかに展開し、変化していくのか。民間の言説の特徴を理解しておいた方がよい。
よく読む文庫本のページを凝視すると驚くべき発見があった。ツルツルとした白紙の上に活字が印刷されていると思っていたのに、どうもそれは思い込みだったらしいことが分かったのである。
紙面をよく見ると細かな模様があり、製紙の段階で紙という形となる以前の形態が想像できたのである。紙は始めから平面で筆を滑らすに適した表面をしていた訳ではない。様々な工程の上で紙となり、何事もなかったよう装っている。しかし、紙の表面の実態を知ってしまうとその物語に気がつくのだ、
現代人には当たり前だと考えている紙や、電気を動力源としたスクリーンなどは、皆いわゆるメディアであり、実物の存在感を持つことが少ない。でも、あるときその質感を強烈に感じてしまうことがある。紛れもない実体がそこにはある。見ていても見えていないものはたくさんあるし、見えだすと気になることもしばしばあることだ。