投稿者: Mitsuhiro

記憶の上限と下限

 人生の中でもっとも昔の記憶は何だろう。私の場合は幼稚園に通っていたころの一コマが思い浮かぶ。ただ、それにはその後の人生の中で獲得した様々な経験が上書きされているので純粋な記憶かどうかは分からない。とにかく、決まったいくつかのシーンだけが残っている。

 何が記憶に残るのか。それもかなり偶然な気がする。ことの重要性や深刻さの度合いで記憶が選択されるのかといえばそうでもない。大切なことはむしろ忘れることが多いのに、何気ないことの方が記憶に残っている。特にとてもショックな出来事はなぜか忘れてしまう。心の防衛本能が働いているのだろうか。

 記憶の下限はどこにあるのだろうか。死の間際まで意識がある場合はまれだ。多くの人は記憶の下限を迎えて、それから身体の死を迎える。だからその下限を確かめることはできない。今の私の記憶がこれからもそのまま残るものなのか。そのいつか分からない下限のときまで持っている記憶は何なのかと考えてしまう。

下り坂に咲く花

 減退した中で咲かせる花はあるのだろうか。最近はそればかり思う。自分の心身の衰えを痛感するゆえに、それでも何ができるのかを模索したくなる。

 年老いた親の姿を見ると、己の未来が如実に予測できる。どんなに気丈であっても、脳に障害が発生すれば遺憾ともしがたい。私のように不摂生な毎日を送っていればその落ち込みは急激に表れるはずだ。

 だから、せめてどうしようもならないうちに、人様の役に立つことをしておきたい。最早、最後の目標はこれから自分が他者から受ける恩恵を越える貢献を残したいということしかない。残念ながら、財産を寄付するといった直接的な貢献はできない。わずかでもお前がいて助かったというに何かをしておきたい。

 恐らくこうした願いは先輩たちが共通して考えてこられたことなのだろう。でも、これを言葉にすることは難しく、評価も困難だ。多くの方が思い半ばで他人に見いだされないままになられている。

 自分の業績を残したいわけではない。ただ、相当意識していないと加齢とエントロピーの崩壊則に飲み込まれてしまうことは忘れてはならない。

明日は夏至

 明日は夏至だ。年間で最も昼の長さが長い日である。これまでは夏至と言っても梅雨のさなかで、夏を感じることはなかった。それが昨今は文字通りの夏の至りとなっている。

 大気が熱されるのには時間がかかるらしく、年間の最も暑い季節が8月であるのもこのことが関係している。熱されにくく、冷めにくいのが大気の性質なのだ。

 それなのに、6月の時点でこれだけ暑くなっているのはやはり異常というしかない。原因が人類の生産活動にあるというのが科学上の定見である。そうでなくても両極の氷は確実に溶解し、海水面は上昇している。台風などの異常気象現象が増えて未曽有の脅威に晒されている。

 夏至を迎えて私が思うのは、この世の節目が少しずつずれていることだ。私が子どもの頃の基準とは異なる何かがある。伝統的な季節観によって成り立っている歳時記的な自然がいつまで通用するものなのか、それがとても気にかかる。

梅雨はどこに

連日真夏日で一体梅雨はどこに行ったのかと思う。それほど柔ではないと思っていた我が老体もあちこちに不具合が出ている。それをいかに他人に悟られず、平気を装うか。この点の技術も蓄えている。

梅雨寒なる季語を懐かしく思うこの頃だ。予報を見るとしばらくは高音傾向である。来週は雨が降るようだが、気温が下がらなければ不快指数が上がるだけだ。

とにかくいまは耐えること。暑熱順化にかけるしかない。

自転車運転にも反則金が

 自転車での走行において反則金が決まった。来年の4月から施行されるという。身近な乗り物である自転車が車両として扱われることはこれまでも知られていたが、罰則が適用されるとなると意味づけが変わる。処罰の運用には実態にあった方法で実施してほしい。

 自転車による事故は多いらしい。死傷者を出すケースもあるらしく問題視されてきた。特に歩道を走る自転車が歩行者もしくは他の自転車と衝突する事故は危険である。今回の罰則には歩道の走行という項目がある。

ただ、自転車専用の道路があるのは非常に限られた地域であり、大半は車道を走行する。車道の多くは路肩が傾斜していたり、工事などで路面の状態が不規則なところが多い。さらには路上駐車している自動車があれば、それを追い越すために大きく内側に入り込む。かなり危険な要素が揃っている。

今回の法改正では、歩道の走行に関しては運転者の年齢や道路の状況を加味して取り締まるというコメントが出ている。自転車の運転者に意識改革を促す点は評価できるが、同時に自転車に適した道路の設計、街づくりについても考えていただきたい。

今日は酷暑か

今日の予想最高気温は34℃という。いわゆる酷暑まであと少ししかない。子どもの頃、30℃を越える日はそうそうなかったと記憶している。32℃ともなるとこの世の終わりではないかと何となく考えていた。今となっては懐かしい思い出だ。

最近は酷暑日なる範疇ができ、それも定着してきた。6月にしてこの気温なのだから、この先が思いやられる。

料理は

 料理は芸術という人もいれば科学という人もいる。確かにその両方の側面を持つものだ。料理の作成過程を見るとそう思う。

 料理において材料や調味料の組み合わせはある程度決まっている。それが文化ごとに型のようなものがあるので、郷土料理のようなものが発生する。私の身近では醤油や味醂、さらには昆布や鰹節でとった出汁を使う味付けが定着しているので、そういう味覚を美味しさの基準にしがちだ。この意味では料理は文化の具現化したものだ。

 とはいえ作る人により、味付けが微妙に異なり、いわゆる母の味なるものがある。店ごとに味が微妙に違うというのも楽しみの一つだ。その意味では料理は個人だとも言える。

 私たちは簡易な既製品的な味付けに慣れてしまい、これらの料理の本質を忘れつつある。一からすべてを作ってきた時代の苦労を取り戻せとはいえないが、せめてどのように作られているのか、そこまでにどのような物語があったのかについては関心を持つべきではないか。

下旬

 6月も半分が終わった。やるべきことが終わらないまま、過ごしてしまったことになる。どうも来週はかなり暑い日々になるようだ。煮え切らないというより、湿り切らない梅雨が続くことになる。

 なんとかしなくてはならないと思うほど、何もつかめなくなると感じる。できなくて当たり前と割り切るようにしたい。他人に迷惑をかけない限り、オウンペースで切り抜けたい。

 

濡れた傘の持ち方

 雨が降ると傘のことが気にかかる。電車に乗って移動することが多い私にとって濡れた傘をどうするかは大きな問題だ。満員電車に乗ることが多いので一層困っている。

 傘は持ち方によっては他人を濡らしたり、先が当たってけがをさせるおそれがある。だから、私は折り畳みを利用するが、これだと今度はそれをどのように持つのかが問題になる。いまは傘についている袋を濡れたままでも無理やり入れてしまって、傘を小さく収納している。それでも雫は気になってしまう。

 おそらくすでにあると思うが、その袋に入れると速乾する素材のものがあればいいと考える。その都度、水を切ればいいと思われるかもしれないが、都会に住んでいるとそれもなかなか難しい。傘の持ち方の工夫はこれからも考えていきたい。

狐の役どころ

漢文の授業で「戦国策」にある「虎の威を借る」という件を扱う。虎に捕えられ絶対絶命の狐が、天命によって百獣の王に任ぜられたものと偽ることで危機を逃れるというあの話である。

 弱い者が機知によって強者に勝つという話のように思うが原文に当たると話の目的が異なることが分かる。隣国から送り込まれたスパイのような者がこの話を語るのだが、その中では虎は王の比喩であり、狐は実力者である重臣を例えている。そして、重臣が王の権威を蔑ろにして、自らを王の力を持つものと僭称しているというのだ。王と臣下の信頼関係を貶めるための話ということになる。内紛を狙った工作の話は他にもあるから、その一つであることになる。

狐はあくまでも狡猾な立回りをしたまでで、機知を賞賛する気分はなかった。絶対的な王制の時代に王臣の関係を覆すことが推奨されることはないだろう。現代人が狐を賢い者と捉えるのは、既成権力にも知恵を使えば立ち向かえると考えるからだ。反面、権威に対する敬意を失っているとも言える。

 現代人が社会で行っているのは狐の知恵なのだろうか。