投稿者: Mitsuhiro

紫陽花

 梅雨入り前にしては夏本番のような陽気が続いています。今朝は曇天ですが、これから晴れて暑くなるのだとか。この時期の楽しみの一つに紫陽花(あじさい)の花を見ることがあります。

 紫陽花には額の花と言われるものから。花弁がいっぱいのいわゆるアジサイまでいろいろな品種があります。変わり咲きの品種は年々増えているようで時々それを発見すると小さな驚きが生まれます。

 花は人心を操ります。それが癒しに向かうときは喜ばしいことと思います。紫陽花は曇天に照らす光です。色移りするのも面白い。今年もこの花の威力に頼らなくてはならない季節になりました。

値段じゃなくて

 Googleレンズというアプリで画像検索すると、出てくるのは商品名と価格です。値段を調べたのではないのにと複雑な気持ちになりました。

 そのうち人物を検索すると何かが数値化されて出てくるのかとSF小説的な発想に陥っています。おそらく自分の映像を検索すると… もう想像すらしたくない。

説明力

 国際的に自らの立場を正当かつ適切に説明できる能力はどこから得られるのでしょうか。もちろん英語の語学力が大切なことは言うまでもありません。しかし、それだけでもなさそうです。

 私たちの協調性や礼儀正しさは均一もしくはそのように見える文化の中で育くまれてきました。説明する以前に常識という概念で自らの振る舞いが規定されてきているのです。なぜそうするのか、してはいけないのかは不文律として共有されていて、それを守らない人には軽蔑か無視の目を向け、仲間から除外されます。

 それが通用しなくなって立ち往生しているのが日本の姿です。我々の常識では卑怯もしくは不作法と思われるやり方を次々に繰り出してくる国際社会に直面して次の一歩が踏み出せないのです。

 相手に合わせることは大切です。そしてそれは日本文化が培ってきた美徳です。ただし相手に自分の意志が伝わらない場合は説明するしかありません。議論をすることも必要です。そのためには交渉力が必要になるのです。

 言い訳することは悪いことと教えられてきました。しかし、正当な言い訳まで封じてしまうと説明する力は育ちません。教員として面倒な作業ではありますが、説明する力を養うために生徒諸君に言い訳してもらおうと考えています。もちろん、それにまさる指導のための説明を私がすることになります。もし、必要は場合は。

パターン認識

 老眼が進んで視力が低下していることによるのでしょうか。道行く人を知り合いではないかと思うことがしばしばあります。近づいてみると別人であることが分かって自分の識別能力の低さに苦笑いします。

 私は個人認証する場合、いくつかのパターンを使っていると自覚しています。身長や体格の他に、顔の形、頭髪の状態などの他に特徴的な要素をいくつか取り出して過去の記憶と照合しています。その方法が近ごろ簡略化している気がします。

 細かい観察ができるのは才能の一つなのかもしれません。得られた情報を細部まで検証することは時には非常に重要です。この点において私は劣っているし、開発する努力を怠っています。逆にいえばピントを甘くして複雑怪奇な現実を大まかに捉えて心的負担を減らしているとも言えるのかもしれない。

 大雑把な把握によって誤った判断をしないようにと願うばかりです。

少し心配な

 このところ中規模の地震が時々起きています。地震があるのは日本にとっては宿命であり、それだけでは特段のことではないのですが、最大震度4程度の地震が関東圏で度々起きていることは少々不安です。

 東日本大震災を経験した者としてはこの程度の地震で狼狽する必要はないのですが、いわゆる東海や南海トラフの状況は心配です。ネット上には常に予知とか予言とか言うものが登場し、その都度外れているのです。そういうものを笑い飛ばせるときはいいのですが、不安が募ると余計なことまで考えるようになります。

 科学的にもいつかは大規模な震災が発生する確率はある水準で存在するとのことです。常に崩壊の危機を深層に抱えながら日常生活を営む日本人の心性を改めて考え直してみたいと考えています。

鳥の目

 この時代に何が求められているのかと問われたならばやはり俯瞰力と答えるべきでしょう。大局を見渡すことは永遠の課題であり、容易ではありません。だからこそ必要なのです。

 複雑で変化の速度が速い今日の社会では毎日の生活を追うだけで終始してしまいがちです。その中で時代の潮流を見失ってしまうことがあります。どこに向かっているのか、何が必要なのかということを忘れてしまいがちです。

 鳥瞰することが困難なのは人間の宿命かもしれません。すでに飛行機や宇宙船まで開発しているというのに、思考の中に定着できません。具体的にどうすればいいのか分かりませんが、大局を読む力は何らかの方法で鍛えなくてはならないと感じます。特に若い世代の皆さんにこの能力の獲得に関心を持っていただきたい。私もまだ諦めてはいません。

いい人もそうではない人も

 一人の生活が続いているとわからなくなることがあるかもしれません。私たちの周りには相性がよい人もそうではない人もいます。そんな中で暮らしていく中で人としての生き方が醸成されるのであってすべてが自分を作る源なのです。

 自分で何でもできるという思い込みを現代社会はもたらす要素をいくつも持っています。確かに孤立がそのまま死に至るということはありません。ただ、どんなに技術革新が進んでも人間が集団生活で生存を続けてきた事実は変えることはできません。群れの中で生きることで他の生物にはできない様々な困難を乗り越えてきたのです。

 距離を置くことが強要されている現状ではその能力は大きな障害を受けています。でも惑わされてはいけない。私たちは人類であることを思い出すべきなのです。

消えたマニュアル

 おそらくアルバイトのマニュアルにでも書いてあったのでしょう。コンビニエンスストアの会計時にお釣りがあると差し出した手を店員が下から支えるように持ち、小銭を渡してくれました。近ごろは接触厳禁とのことでこういう経験はできなくなっています。

 客の手を取り確実に釣り銭を渡すという方法はバイトを始めたばかりと思われる店員に多く、おそらく接客マニュアルか何かに書いてあったのではないかと推察します。若い女性店員にいきなり「握手」されたときには少なからず動揺しました。もちろん不快感を持たなかったのは言うまでもありません。誤解なきように申し添えると男の店員でも同じです。買い物をすることが人間同士のコミュニケーションであったことを思い出させてくれたからです。

 この麗しき接客術はいくつかの要因で消えてしまいました。一つは店員の釣りの手渡し技術はすぐに習得できるので、握手をしてくれる期間は短いということです。そしてそれよりも決定的なのがコロナウイルスの感染予防としての釣り銭のトレイによる返却というマニュアルが前例を消滅させたことです。

 他にもキャッシュレス決済が促進され釣り銭自体がなくなったことも関係します。また店員そのものが不在のレジまで誕生しています。こうしてレジのぬくもりは絶滅していくのでしょう。

生活の矯正

 密を避けるための方策としてラッシュアワーを避けることが提唱されてきました。そのため私は少し遅く出勤することにしていました。明日からは通常勤務になりますので、生活を矯正する必要があります。

 実はこの期間も朝の目覚ましは通常通りにかけていましたので、起きることはできていたのですが、実際に身体が始動するまでには時間がかかっていました。やる気が起きるまでの間合いが長すぎるのです。これを明日からは最低限にしていかなくてはなりません。

 そのためにはできるだけ前日に仕込みを終えていくことが必要です。テレワークで学んだ前日仕込み、予約投稿という方法を実生活でもしていく必要があります。恐らくはこれが当たり前になるまでには身体が悲鳴を上げることもあるでしょうが、船酔いは航海につきものと考えて乗り切っていこうと思います。

人手不足であったことを忘れずに

 コロナウイルス対策のため営業自粛を強いられた企業は、雇用者を減らすことで危機を乗り切ろうとしています。しかし、人手不足であったために起きていた弊害があったことを忘れてはいけません。

 いろいろなことが機械で代替されている中で、様々な業種で業務のコモディティ化が進んでいます。価格競争で一円でも安くという方法ではその場で勝てても結局は先細りになってしまう。これからの時代に必要なのは価格だけではなく質の高いサービスです。そのサービスを提供できるのは熟練した社員であり、短期的な雇用では期待できることは限られています。

 他にはないサービスを提供できれば、顧客は価格ではなく幸福感に投資するようになります。もちろんあまりにも高額なものではだめですが、安いだけが取り柄の商法よりも上を目指すことで商機が発生します。このことを踏まえるならば人間を安く買う会社は今後かなり苦戦していくでしょう。コロナウイルスの打撃は深いですが、ここで人材を放出してしまったならば致命的な結果が待っているような気がしてなりません。