投稿者: Mitsuhiro

ハンコ文化

 印鑑証明が必要になりました。いろいろなことが電子化していくなかで、押印による書類文化は依然として生きています。

 印鑑を素早く正確に押すロボットが開発されたことがニュースになっていました。捺印という行動そのものを自動化したことに技術者の意図があったのですが、いろいろないみで境界的な発明であったといえます。

 承認文書のスタンプラリーは職場にも根強く残っています。確かに読んでその内容に責任を持つということを形で示している訳です。まったく電子化された文書もありますが、確かに埋没して見逃すことも多いので、ハンコ文化にはそれなりの意味があるようです。

 最近喧しい生産性という点においては印鑑を押すべき人が多すぎるのが難点と考えられています。承認ルートの見直しも大切です。

考え方次第

 まったく同じものを見ていても感じ取るものが違う人がいるということはよくある経験です。自分の感性がすべてだとは決していえないのです。

 たとえばあるものを手にするときに、右手で扱うか左手にするかでその後の成り行きは変わります。その人の利き腕が違えばまた異なる結果になる。身長の差だけでも世界は別の姿になるし、それをどう捉えるかも人それぞれです。同じものを見ていると言えるのかどうかもあやしくなる。

 だから、始めから同じものを見ているとは思わない方がいい。また自分が感受したものは他者には説明しなくてはならないときがあることを意識しておかなくてはならないのです。

 このことを分かっているつもりでいながら、いざというときにあっさりと忘れてしまう。それが私たちの宿命であり、欠点でもあります。悲観的になりすぎないための本能かもしれませんが。

電子イタコ

 死んだ人にもう一度会いたい。話がしたいという悲願を叶えてくれるのが東北地方で活動しているイタコと呼ばれる民間の祈祷師です。口寄せという呪術で死後の人の意志を伝えてくれるのです。

 これがAIの力を得て電子化されつつあります。生前の写真や動画を組み合わせると立体的な映像として生前の姿を現出できる。ホログラムの技術が進めばより見分けのつきにくい仮装現実が作られるようになるかもしれません。口調や口癖などをマスターさせ、発言内容を入力すればもう死者のよみがえりというべきものになる。

 ただし過去のデータからその人がやりそうなことやいいそうなことを予測することはできても、本当にその人が生きていたらやることなのかは誰も分からない。私たちの行動は不確実であり、変動的です。いかなるディープフェークも限界があります。

 ただ、心配なのはその嘘が見抜けなくなる人が増えてゆくことです。作り物と知っていても騙されてしまうのはもっとローテクの段階でも起きていますから。

前を向くこと

 何番以内、平均点以上、そんなことより別の目標を考えようよ。それが今の私の口癖です。

 生徒諸君の関心事は順位や偏差値ばかりです。これは他人との比較です。他人と比べるだけでは自分の努力はなかなか報われないように見えます。周りの人たちも頑張っているときには相対的な位置は簡単には向上しないし、場合によっては下がってしまうこともある。努力は報われないように見えます。

 果たしてそうなのでしょうか。明らかに前回より頑張ったはずなのに成績が出ない。やっても無駄なんだと短絡する前に他人との比較ということの意味のなさに気づくべきなのです。比較する必要があるとしたら、それは過去の自分と現状との比較であり、努力の量が増えているならばそれは立派な向上と言えるのです。

 結果はすぐには出ないこともある。出るのが相当後になることもある。ただいつかは何らかの成果が出る。その出方が人によって違うのです。遺伝的には私たちは実に不平等な環境にあると聞きます。違う車に乗っているのに速さだけ競っても意味はない。むしろどれだけ前に進もうとしたかを自己評価するべきなのです。

 そのためにはやはり横を見るのではなく、前を見ることが大事なのでしょう。目指したい目標は何か。どのような人生を送りたいのかをそのつど考えていく必要があります。進んでいくうちに目標が少しずつ変わっていくのは仕方がない。そのつど何かに狙いを定めて取り組んでいくことに意味があるのです。

クリスマスツリー

グランベリーパークのクリスマスツリー
グランベリーパークのクリスマスツリー

 数日前に取った写真です。ツリーの上には満月が見えています。ガラケーのカメラではこの程度しか撮れませんでした。

冷たい月

 昨日が満月だったようです。コールドムーンともいうのだとか。関東では乾いた晴天が続く中で満月の光も冴え渡ります。ただ、月光に集中できるほどの余裕がないことを悔やむばかりです。

言葉にする

 思っていることを言葉にできない。大半の不幸の原因はこの点に発します。表現力が上がれはいくつかの問題を解決できるはずです。

 好きだという気持ちや嫌悪感はもちろん、そのいずれにも属さない感情は大抵の場合、それを説明することはない。しかし、場合によっては他者に分かってほしいこともあります。そんなときに必要なのが表現力です。

 表現の方法はいろいろあります。表情や身ぶり手ぶりももちろん大切な表現方法です。しかし、言葉にすることがもっとも分かりやすい。それができないために悩みは大きくなるのです。

 私たちは思っていることを言葉にする力を身につけなくてはいけない。そしてそれを話せるもしくは読ませる相手が必要ということになります。

読書推進

 読解力の低下が話題になっています。中高生だけではなく、大人世代にも共通する社会問題です。

 読解力の低下が読書の習慣がないのと相関関係にあるというのはおそらく事実です。文字だけの情報から発信者の意図をくみ取るのには、経験が必要です。特に文章を構造的に把握する力は纏まった本を読むことで培われるものです。では本を読みなさいというだけで事態は解決するのかといえば、そんなに簡単なものでもありません。

 私たちは興味のあることには時間を忘れて熱中することができます。読書に熱中するためには興味のある内容を読ませる必要があるのです。読ませたい作品があるのは事実であり、それが一定の効用を持つのが明かでも、読書を押しつけるだけではならないのです。

 興味のある本を選ばせて読ませる時間をもっと与えなくてはならない。そのための工夫も必要になるでしょう。

やってやろうじゃないか

 先生は漢検の級もっていないんですか。生徒に聞かれたとき用意している答えがあります。私が高校生の頃、漢検がなかったんだと。

 大抵はここで引き下がるのですが、時々このバリアを突破されます。それならいま受けたらいいじゃないですかと。これも苦笑いでかわしてきたのですが、どうも後味がよくない。そこで一念発起することにしました。来年度中に準1級に合格しようと思います。ブログに書くのは公約のつもりです。

 準1級は実用レベルを越えた漢字の知識が問われます。ほとんど使われることがない文字や熟語が大多数を占めます。デジタル時代では入力できる文字が少ないので、このレベルの文字は使えないことも多い。漢文学の知識も要るようです。

 目標は大きい方がよい。ならばやってやろうじゃないか。いまはそんな気持ちになっています。

自由に学ぶ

 学びを行うときに何かに囚われたり、制約を受けたりするとうまくいかないことがあります。学ぶ際には自由が必要です。

 とはいえ、全くの足かせなしではなかなか学びは発動しない。何か目標を持つことで学習の意欲が生まれます。何でもやっていいとだけ言っても、結局何もやらないということになりやすい。教育の場においてはやるべきことがあります。

 学びだすまでのきっかけをいろいろと作ってゆく。それが中等教育の第一の使命だと考えます。そして、自由に学び出す動機づけをしていく。そのための基礎学力や学び方を教えていく。それがやるべきことなのです。