教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。
私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。
教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。
日々の思いを言葉にして
投稿者: Mitsuhiro
教育とは何かを考えるときいつも考えることがある。伝えることの方法は多様であるということだ。
私自身の体験からすると学びの基礎は学校にあったとしても、主体的な学びの発動は自己の中にあったように感じる。何かを学びたいと思ったとき学びは効果を発揮する。
教育とは何か。知識の伝達はもちろんだが、それは本当の目的ではない。大切なのは学ぶことの意味を気づかせてその行動を発動させることだ。人によりそのきっかけは異なる。それを注意深く探し、ボタンを押していく。教員の役割はそれかもしれない。
春の雨の一日になりそうだ。路面が少しずつ湿っていく。強くはないが確かな雨だ。傘を開くか迷っているうちに髪も上着も露のベールを被される。存在を主張しない湿りは油断は禁物とささやいているかのようだ。雨の向うに今日の生業が待っている。歩みを止める余裕はない。春の雨に少し感謝したい。自分の位置を教えてくれたのだから。
街路樹の花水木が咲いている。桜に比べるとしっかりと咲いているように見える。実は花びらと考えられているのは苞といわれるもので、実際の花はその中心にかなり小さく集まって咲いているようだ。
この花はアメリカヤマボウシという名もある。アメリカが原産地だ。東京がソメイヨシノを送ったのと交換で植樹されたというがすっかり日本の春の風景にとけこんでいる。
ハナミズキのあとにはツツジが続く。すでにもうかなり咲いているようだ。
ノートといっても紙面のもののことをいう。そのノートにいろいろな情報なり、思い付きを書いたものがたくさん並んでいるというのは私の思う理想であった。知識なり経験なりが物理的な形となって蓄積していくというイメージがあるからだ。
しかし、現在は書くためのノートがたくさんある割には埋められていない。何もたまっていないのだ。それはとても残念であるし、なぜか悔しくもある。このブログのようにデジタル上に書き残したものを集めるとおそらくそれなりの分量にはなる。私の場合は質より量だ。内容より継続が目標になっている。
それでも大学ノートやらコクヨの野帳やらに何かを書き続けたいという思いは常に持っていて鞄の中には何冊ものノートがある。それらは書かれることなく、自宅と職場やその他の場所の間を移動し続けている。いつかはそれが活用されることを期待しているのだが。

ここ数日、季節が後戻りしたような寒さだ。ソメイヨシノはすでに散り、今は八重桜が見頃だ。近隣の小さな神社の境内にはあふれるほどの花が道行く人の目を惹きつけている。すでにツツジも少しだけ開き始めた。それなのにこの寒さである。
もっとも絶対的な気温はさすがに4月のものだ。それを寒いと感じるのはそれまでの気温が高めで推移していたからに相違ない。つくづく体感とは相対的なものであると思い知る。このような過渡期を過ぎて季節は進んでいくのだ。
ソメイヨシノはあらかた散ってしまった。これからの状態を葉桜というが、実はこの方が桜の木としては普通なのだ。
葉桜は残念なという意味がその初期には被されている。落花した後のさびしさと重ねられることも多い。しかし、この葉こそ魅力的なものだ。若葉の鮮やかさも、夏の日を遮るたくましさも、病葉も痛ましさも、花以上に鮮やかな紅葉もみなこの葉のもたらすものだ。
かつて庭のある家を借りたとき、玄関前の桜に大量の毛虫が発生して慌てたことがある。桜はいろいろ手をかけていかなければならない樹木だ。それも含めて愛しい。
読書の推進策はいろいろあるものの、なかなかうまくいかないことが多い。おそらくそれは本を手にとるあり方が人それぞれであって一律な助言では機能しないからのようだ。
時間がないと読めないのは事実だが、それ以上に習慣がないと読書には迎えない。習慣は始めの定着前が肝心で、それを抜け出せばある程度は成功だ。
その方法を明文化したい。近々達成したい目標だ。
しなやかさは理想とする境地の一つだ。複雑な事態に自他を傷つけることなく対応できる何かを感じる。実際は容易ではないが、求めて止まない目標だ。
変化が激しい昨今の状況において何が正解か、真実は何かを見定めることは難しい。だから当座の状況対応は必要だ。真実を探る努力は怠れないが、立ち止まることもできない。しなやかさは一時的な判断をした後にも必要になる。
理想としてはよいがこれでは疲れてしまう。常に周囲を見渡し、身を処さなくてはならないのだから。スキー選手が複雑な地形を滑降するときのように常に神経が張り詰めていることになる。
すると、しなやかさの持っているイメージとは程遠くなる。おそらく何かが違うのだ。合気道の達人のような脱力しながらも身をかわせる。そんなものを目指しているのだろう。
長い間続けているものとして、俳句と短歌がある。短歌の方が長い。俳句はその面白さを理解するまで時間がかかった。
俳句にもいろいろな考え方があるのであくまで私見だが、情をためて景で表現する文芸と心得ている。喜怒哀楽を直接表現することなく、点景を指摘することで作者の情感を表すのだ。これになれるまでには少々時間がかかった。
超短詩形文学は常に類型化陳腐化に直面している。型に沿いながら個を守るというのも難しくもおもしろくもある。
スケジュール管理をグーグルやアップルのカレンダーに入力して行うようになって数年が経つ。便利な点は多いが、それゆえのデメリットもある。その補完はやはり紙のノートである。
デジタルデバイスでのスケジュール管理は一元管理ができることに大きな利がある。同期するからどこに書いたのかを忘れることがない。他人が作成したデータをそのまま借用できるのもいい。これまで使ってきてこの恩恵に大いにあずかっている。
同時にこれは欠点でもあり、記録に関する緊張感のようなものを奪った。だから大切なことはノートに書き出している。両棲類みたいなやり方が自分にはあっている。