投稿者: Mitsuhiro

所得倍増?

 岸田首相が自民党総裁選挙で掲げた所得倍増の言葉の解釈をめぐって疑問が出ている。経済再生担当相の山際氏が苦し紛れの釈明をしているが誰もが倍増などありえないと考えている。むしろ虚しい言葉を使う政治家を軽蔑する材料となっている。

 所得倍増は戦後の復興期の特殊事情でこそ実現したがいまはどう考えても無理だ。見かけ上のインフレで倍増しても通貨の価値が下がるようでは無意味だ。

 ただ、所得を増やすことはこの国にとって死活問題であることは相違ない。まずは持てる人たちが金を使う方策を考えるべきだろう。持たざる人たちまで利益が及ぶためには使ってもらわなくてはどうしようもならない。一律徴税するという愚策はやめた方がいい。

 金を回すのが富裕層の義務であり誇りであるという考えを普及すべきだ。個人的には金持ちの贅沢にはやっかみもあるが、大事なのは経済を循環させることなのだろう。倍増は無理でも少しは潤うきっかけが生まれる。

ブリコラージュ

 民族学の用語にブリコラージュがある。これはいま見直すべき考え方だ。

未開民族を観察した学者が、現地調査で発見した様々なことの一つがこれだ。ありあわせのもので生活に必要なものを作ってしまうことをいう。私たちはものに溢れている生活に慣れすぎてこの伝統的な技を忘れてしまった。

 大切なのは周囲をよく見ることだ。なんでも遠くから調達すればいいという訳ではない。こういう考えは資本主義には合わないかもしれないが、幸せに生きるためには必要なことかもしれない。

明日より未来

 衆議院の解散総選挙が近づき、各党が公約を出している。集票のためか公的資金分配を掲げる党が多い。いただけるのはありがたいが中長期的展望を説明してほしい。

 日本の財政は世界的に危機的な状況にあるという。国際的な信用がそれを許しているが、今後もそうだとは限らない。借金をすればなんとかなるという基本概念は行き過ぎると努力をしないことに繋がる。分配するにあたり、財源は何か、返済はどのように実現されるのかを分かりやすく示してほしい。

 例えばかつてのように国民全員に10万円を配るとする。生活に逼迫していない層は貯蓄や投資に横滑りしたはずだ。これでは経済活動に寄与しない。足りない人にはすぐに消える金額だった。使える人は使う方がよいし、使う予定がない人には寄付や贈与ができる仕組みがあれば少しは役に立つ。

 私の無知を暴露しているのだが、おそらくこの程度ことしか多くの人は分かっていないと思う。金を配ることにどのような意味があるのか分かりやすく粘り強く説明してほしい。秩序を重んじる国民性からして、訳が分かれば金の使い方も変化が起きるかもしれない。

 明日の利益も大切なことだが、この先の未来に責任を持てそうな党に投票したいと考えている。

桜並木

 かつて住んでいた町の住まいだったあたりの場所を歩いてみた。桜並木は苔生して老木の趣きがある。何も知らなければ由緒ある並木なのかと思うばかりだ。

 でも、確かここに住んでいた頃は頼りない若木にようやく花をつけるといったものだった。それがこの堂々たる幹と根回りを見せるようになったのは、それだけ歳月が過ぎたということだ。幾多の嵐と、大地震、それよりも深刻な大気汚染、異常気象に晒されて逞しさを身に着けたのだろう。

 桜並木のこの姿を見ている私もまた年老いたことになる。風格も威厳もなく、周囲からも尊ばれることもないがそれでも己の見たことを覚えていられるだけましということだろう。そう考えることにする。

木斛

 庭木として人気のあるモッコクは花に注目が集まるが実も魅力的だ。秋の日に小さな林檎のような実をいくつも連ねているのは、鳥ならずとも豊穣を感じさせる。椿の仲間というが、まったく別の季節に心を晴らしてくれる植物だ。

万年筆

 万年筆はもちろん万年使えるわけではない。経年劣化すればいつかは書けなくなる。でも万年にかける意味は大きい。

 亡父は物書きではなく、むしろ筆不精だった。だかプラチナ社の万年筆をよく使ったようで遺品に何本も同じようなペンがある。

 私は職業柄万年筆はよく使う方だ。筆圧が不要なペンは特に助かる。添削や採点はデスクペンで済ませている。デジタル添削も試したが、時間がある場合はやはり直筆の方がメッセージが伝わる気がする。

 万年使うことは無理でも、せめて死ぬまで使える筆記用具は持っていたい。自分は消えても何かを残せるかもしれないという儚い願望が形になったものが万年筆なのかもしれない。

公園へ

 隣の市の公園に行ってみた。いわゆる森林公園というもので、開発をされずに残った緑地だ。かつてはむしろこの方が広範な土地を占めており、その空白地に人が住んでいたのだろう。いまは全く反対でわずかに残された森林が公園として保存されている。

 緊急事態宣言が解除されたとはいえ、マスクを外せない毎日だが、周囲に人がいないことを確認して素顔を日光に当てるのもよい。公園は芝を張った広場を除けば雑木林が広がっている。その中を歩くのも気持ちがいいものだ。

 自然そのものではないことは分かっている。様々な管理の末に公演は保たれているのだ。その意味では公園も極めて人工的な空間だが、緑や様々な花に囲まれる時間は日常とは異なる空気を吸う貴重なものである。

Serizawa Park, Zama city

香ぐのこのみ

 隣家の庭木にたくさんの蜜柑がなっている。初夏、ひそかに白い花をつけていたので、結実を楽しみにしていたが今年は特に豊作のようだ。

 温州みかんの元祖は橘であると聞く。記紀万葉にときじくの香ぐの木の実と記されているのはこのことらしい。常緑の木になる色鮮やかな果実は生命力の象徴と考えられ、仙薬にもたとえられた。

 実家の庭にも蜜柑があり、昨年はそこそこの収穫があった。ただそれを楽しむ人がいないのが残念だ。仙薬ほどではないにしても、摩訶不思議な植物の力をいまは切望するばかりだ。

地震

 昨夜、関東地方で大きな地震があった。緊急地震速報が鳴動し、かなり長い時間揺れが続いた。私の住む地域は震度4だったらしいがもっと強く感じた。家財で崩れたものはなく、周囲に変化はない。

 ただ、東京東部や埼玉、千葉の一部ではかなり大きかったようでけが人が出たそうだ。震源が深く、広範囲で揺れている。このところ全国でやや強い地震が相次いでいる。東日本大震災から10年過ぎてなにか変化があるのだろうか。

 白状しよう。あんなに大きな地震があったというのに、その後私は寝てしまった。震源の位置と深さ、津波の有無を確認すると根拠のない安心感が出てしまう。震源はかなり近いが直下型ではなく、海底地震ではない。それだけで安堵してしまう自分は明らかにおかしい。

 恐らく私たちは地震のない国の人々からすると信じがたい精神構造を持っている。天災に関する諦念は説明しにくい。それがいいように働くときはよいが、そうでないこともしばしばある。気をつけなくてはならない。

本物を

 外出自粛でネットのサービス利用法はかなり上達してきた。コロナ禍の前と比べると格段の進歩だ。ほぼ毎日テレビ会議をする教員になるとは予想だにしなかった。

 ただ、リモートで何かができるといっても、それはディスプレイの画面上の出来事に過ぎない。リアルな経験のないものだ。

 仕事はそれでできるものはしたほうがいい。時短になれば益がある。対して実感を大切にしたい場面では害になることもある。

 これからは本物に会うことを大切にしたい。それが実感できるのもコロナ禍のおかげともいえる。